Ⅰ. イデオロギー的圧制との戦い
マルセル・ルフェーブルにとって公会議の終わりとは、過去4年間に渡るこの激しい戦闘の終わりを意味しなかった。困難ではあったが彼を夢中にさせた聖霊修道会の刷新の責務も、大司教の全熱情を吸収するのに充分ではなかった。公会議と、教会を冒し始めていた危機を思い巡らしながら、彼は残存している聖職者たちの健全な部分によるレジスタンスを組織しようとした。
公会議後の危機、それは権威の危機
大司教はまだ公会議の権威に疑問を挟む事は相変わらず拒否したが、次のように自問自答した。
「公会議公文書で、特に「現代世界憲章」と信教の自由に関する公文書は、教皇と司教たちによってサインされてしまった。よって私たちはこれらの文書の内容を疑うことは出来ない . . . それにもかかわらず、私たちはどう解釈したらいいのだろうか、例えば、その内側に矛盾をはらんでいる信教の自由に関する公文書はどうやって解釈するのか? この公文書は、聖伝の一点一画も変更されない、と言明して始まるが、実際には、聖伝と何一つ一致していないのである!」
個人と個人が所有する良心を称賛するこれら公会議公文書の中に、大司教は公会議後にすばやく蔓延している、権威に関しては一般となった危機の原因を悟る事が出来た。
「パーソナリティや、家族の権威を傷つけてまでの子供の個人的良心を高揚させることは、子供たちを不幸にさせ、彼らを、自分たちの両親に対する反抗に至らせる事になる。子供は非常に弱くあまりにも未完全な状態で、不完全でとさえ言うことが出来る状態で生まれて来る。家庭と環境とが教育に及ぼす影響は、御摂理であり、これは天主によって望まれている。真理が、その自分の力によって、人間に真の宗教を指し示すべきであると主張するなら、私たちは天主によって定められた道から脱線しているのである。現実は、天主は、両親によって、さらに信頼に値する証人たちによって宗教の伝達をあらかじめ望み給うたのである。」
ある人々が信教の自由を通して政教分離を望んでいる国家権力の役割もまた、国民の宗教教育のためにある摂理的なものである。
「カトリック諸国の歴史、カトリック信仰への回心の歴史は、国家によって演じられる摂理的役割を十分に示している。・・・人類の永遠の救いへの到達における国家の貢献は、最重要、さもなければ極めて優勢である。・・・もし国家のあらゆる構造と社会的条件が非宗教的で、無神論的で、無宗教的なら、さらによりひどい事は、もし国家が迫害するのであるなら、「非カトリック教徒たちが改宗し、さらにカトリック教徒たちが信仰に留まるのが容易だ」などと敢えて言うものがいるだろうか? ・・・カトリック諸国家に対して、それらが政教分離し、非キリスト教化し、誤謬と不道徳とが自由に広まるのを無関心に放任し、人間の尊厳という偽りの口実の下で、共通善に損害を与えても個人の良心を高揚しながら、社会を解消させる毒素を持ち込むように励ますことは犯罪的だろう。
そこからルフェーブル大司教は、具体的な適応に富む聡明な見解の高見に上がった。大司教は結論を下した。権威とは、究極的に、自らの拡散と天主なる最高善へと人間を愛させ、天主に反対する人間を制裁することを切望する天主の愛への参与なのである。従って、国家権力が、宗教に関する事柄において、立法と制裁とを拒否するとき、それは天主の愛を広めることを天主に拒絶することである。