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聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 19.3.6.一か八かの賭け

2010年06月06日 | ルフェーブル大司教の伝記
一か八かの賭け

 「マルセル、お前は一体どこに行くのか?」大司教は、聖堂で行われるロザリオと聖体降福式の間ずっと両手で頭を抱えて、時折ため息をつきながら祈った。その後、彼は何も言わず自分の部屋へ退いた。その夜、彼は眠りに就くことはなかった。大司教は考えていた。

「彼らは日付を提示しようとしない。私たちに司教を与えたくないからだ。」

 彼は疑念に捉えられ、一人つぶやいた。「司教の任命がどうなっているのかどんなことがあっても知らなければならない。」

 後日彼は、腹心の運転手ジャック・ラニョとこの夜の事を打ち明けた。
「もし貴方が、例の【議定書に】同意の署名した後の、私が過ごした夜を知りさえしたら!ああ!自分が夜中の間に書いた撤回の手紙をデュ・シャラール神父様に渡すことができるように、どれだけ私は朝を待ち望んだでしょう。」

 翌日のミサと一時課の後、彼はその手紙を書き終え、朝食時にデュ・シャラール神父にこれですからと見せた封筒の中に入れた。「神父様、出発前に、この手紙は間違いなくラッツィンガー枢機卿の元に届けられなければなりません。それは小型爆弾ですよ。」

 それは【司教聖別の日付に関する-訳者】新たな最後通牒だった。

「6月30日という日程は、以前私が書いた手紙の中で、最終期限としてはっきり伝えられています。既に私は、推薦候補者たちに関する書類を貴方に提出しております。この司教聖別の命令文書を準備する為に、未だ2ヶ月近くあります。(…)この命令文書が6月の中頃までには送付される事が出来るように、教皇聖下はこの手続きを容易に短縮する事がお出来になります。」

「仮に聖下からの回答が否定的なものだっとすると、私は良心にかけて、聖ピオ十世会所属会員から司教1名を聖別する事に関する議定書の中において聖座が与えた合意に基づかせ、司教聖別を遂行しなければならないと考えるでしょう。」

「聖ピオ十世会所属会員の司教への聖別に関して、閣下の手紙の中で、或いは直接の会話の言葉で、言及を避けた沈黙のために、私には日程が遅らされると恐れる正当な理由を持つに至りました。」


 ルフェーブル大司教にとって、聖別の日付を決める事はローマの誠実さを確かめるテスト、つまり彼は騙されているのではないという証拠であり、スペインの諺がMuerto el perro, se acabó la rabia【犬が死ねば狂犬病も終わる】そして日本語では「死人に口なし」というように、ローマがただ彼の死を待っているだけではないことを証明するテストであった。

 残念ながら、ラッツィンガーは理解しなかったようた。彼は単に予定されていた報道発表を中止しただけだった。5月6日の夜、彼は教皇聖下と会見し、大司教が5月5日に教皇宛で書いていた手紙を手渡したが---これは「良く受け入れられた」---、最後通牒に関しては一切言及しなかった。

 自分は教皇に何かしてくれと言う事など出来ないし、自分が練り上げた計画に従わなければ成らないと彼は考えたのだ。つまり最初に、大司教が(おそらくヨハネ・パウロ二世をぎょっとさせた“風刺漫画による公教要理”のために)赦しを懇願した後に、聖職停止処分の撤回、その次に、ローマ委員会の設置、そして正常化の計画だ。この計画全ての実現には時間がかかるだろう。教皇との会見を待つ事さえせず、ラッツィンガーは大司教に手紙を書いて、“自分の立場を再検討して下さい”と大司教に要求した。

 大司教がエコンに戻ると、運転手は彼が“何時もになく悲しげで物静か”であることに気づいた。5月10日、聖ニコラ・ドュ・シャルドネ教会で、彼は状況を細部に渡って自分の司祭たちに説明した。

「ボールは彼らのコートにあり、私は彼らが打ち返してくるのを待っているところです。6月30日が最終期限です。私は自分の人生の終焉に到達しているように感じます。私の力は衰えています。車での移動が困難に感じるのです。ですから、これ上私は司教聖別を延期出来ません。延期することは、聖ピオ十世会や、私たちの神学校の継続を危険に曝すことになります。ドイツのテレビで言ったように、ローマからの同意の有無に拘わらず、6月30日には司教聖別式があるでしょう。」

 5月17日、ラッツィンガーはルフェーブルに手紙を送った。教皇聖下に対する和解と赦しを求める“謙虚な懇願”の手紙は喜んで受け入れられるだろうこと、聖ピオ十世会のための司教1名の要請は、“一切の日程の要求なしで”提案され得ることを伝えた。5月20日に教皇に直接手紙を書こうと決断した時、ルフェーブル大司教は既にこの手紙を受け取っていたのだろうか? 教皇への手紙では自分にとって6月30日とは、“自分の継承者”を保証する最終期限であると彼は強調しただけではなく、「数名の司教を持つ事が必要である」とも考えた。

 5月23日、彼はローマに向けて出発した。
「この面会が最後のチャンスでしょう。」と彼は運転手のマルセル・ペドローニに言った。彼の目には、24日朝の大司教が疲れていて悲しげに映った。
  「ご気分が優れないのですか、大司教閣下?」
  「眠らなかったのです。数ヶ月間、私は殆ど寝ていないのです。」

  5月24日のローマで、大司教はラッツィンガー枢機卿に自分の最終要請を渡した。
「6月1日より前に、6月30日に計画されている三人の司教の聖別と、ローマ委員会において聖伝のメンバーが過半数を占める事に関する聖座の御意向をお伝え下さい。私が教皇聖下に書いたように、司教1名だけでは私たちの使徒職全てを遂行するには十分ではありません。」

 ラッツィンガーは“やや不意を討たれた”が、この要請を伝えた。
 ヨハネ・パウロ二世はラッツィンガー枢機卿を通して、5月30日の手紙で回答し、ローマ委員会に関する問いには、聖ピオ十世会は過半数を占めない。その必要性がないと却下した。

 司教3名の聖別に関しては、「教皇聖下は、この司教聖別が8月15日の前に行われるように(…)聖ピオ十世会所属会員の中から1名の司教を任命する用意はあります。」 とある。この目標に向け、大司教は「より多くの資料を送り、教皇聖下が例の合意で予測されたプロフィールを持つ1名の候補者を自由に選べるように」しなければならない。大司教は「教皇聖下と聖主とを信頼しなくてはならない」とあった。

 この“信頼せよ”との招きがこれ以上に場違いなものではありえなかった 。大司教は何よりも先ず「聖伝の家族を守ろう」と心がけて来た。「ありとあらゆる近代主義の誤謬、あるいは公会議後の改革との妥協、聖伝の団結からの離脱から守ろう」と努めた。

 ルフェーブル大司教は次のようなメモを書いた。
「【ローマ代表者との-訳者】会議と対話の雰囲気、会話の中で多くの人々により表明される思想は、明らかに聖座が私たちを公会議とその改革に同調させ、公会議後の教会の懐に連れ戻すのを望んでいる。 」
「そうなると、私たちの事業の「教会法上の正常化」及び「典礼と私たちの会員らの養成との保証、司祭と信徒たちを聖伝に改心させるためのより容易な宣教的接触、そして最後には、聖座の同意による司教1名の聖別」などという「利点」は、本当に釣り合いのとれる物なのか?」



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