リーブルヴィルの聖ヨハネ神学校
初期の内は、授業はアフリカで開始してパリで終了した。大神学校は1874年に開校したが、1899年になってようやくガボン初の司祭アンドレ・ラポンダ・ウォーカー(André Raponda-Walker)神父が叙階された。彼はガボン一帯の動植物相の専門家 であり、マルセル神父は彼と面識をもつだろう。神学生たちの堅忍を妨げたものとしては、家庭環境における薄弱な知的文化と、自分たちの積んだ勉強故に元神学生たちが得ることができた収入の多い仕事への魅力であった。1929年には、タルディ司教は10名の土着民司祭を有し、シャルル・レミ神父が校長を務める神学校には、30名の神学生がいた。その内の22名は、フォレ神父が責任を持って当たる小神学校に属し、残りの8名は大神学生だった。
翌年、布教聖省から1926年1月31日に出された提唱に従ったリーブルヴィルの聖ヨハネ神学校は、ガボン代牧区や、コンゴ‐ロアンゴ代牧区(将来のポワント・ノワール代牧区)、さらにコンゴ‐ブラッザヴィル代牧区から送られる生徒たちを引き受け、複数の代牧区のための神学校(séminaire intervicarial)となった。1931年4月、フォレ神父は校長に、ルネ・ルフェーブル神父はその補佐役に任命された。後者は以前に、ンジョレ(Ndjolé)や、シンダラ(Sindara)、そしてポールジャンティ(Port Gentil)に任命されていて、リーブルヴィル教区の聖ペトロ小教区教会(サン・ピエール)において助任司祭の持ち場を引き継ぐ為にもマルセル神父の到着を待っている最中だった。
1932年の初めに、マルセル・ルフェーブル神父が、兄のルネ神父とヴォージュ(Vosges:フランス北東部アルザス地方)地方出身の屈強な男で総長代理司祭のポール・ドフラヌー(Paul Defranould)神父と共に、港から聖マリア宣教区までの急勾配で短い丘をよじ登った。この丘に上がるなり、壮大な眺めが広がっていた。背後にはドゥ二岬(Pointe Denis)まで見渡せる大きく広がる全河口、前方には、壁石のはめ込まれた丸天井とフレスコ壁画が薄明かりの中で【後に‐訳者】マルセル神父が短い祈りを捧げる、陽だまりに鮮やかな白が映えるあの上品な司教座聖堂 が建っていた。右側には、青色姉妹会修道院と350人の女性徒を抱える修道会経営の学校、さらに土着民の修道女たちを養成する修練院や、パウィンヌ婚約事業の家 へと続く小道があった。
その向こうには、巨大な中庭が、数百名の実習生のいるジャン・ケルジャン(Jean Kerjean)神父の学校と向こう側で接しており、左側近くには修道士たちの家屋と、ジョゼフ・プティプレ(Joseph Petitprez)神父によって建てられた印刷所があった。
左側のさらに遠くには、海岸から運ばれてきた申し分なく頑丈な茶色い石によって低い平地に建てられ、全体が軽量素材で出来た二階建ての垂直な建物が見えた。これは元モンフォール・スクールの建物で、モンフォール・スクールは1930年に聖ペトロ小教区教会(サン・ピエール)に移転して建物を残していったのだ。大いに施設の必要を感じていた聖ヨハネ宣教区が今ではそこを使用していた。
マルセル神父は、タルディ司教から見事な司祭館に喜んで迎え入れられた。そこは涼しく、風通しも良い回廊に囲まれており、この代牧が住んでいる場所でもあった。
マルセル神父は、フォレ神父の指導の下で彼と共に、公教会における芸術の中の芸術、最高の宣教師の仕事、つまり土着民を司祭に養成することを、働くことになるのだ。
1902年にアラン・ザン・ビゴール(Arrens-en-Bigorre )に住む農場経営者の家族に生まれたジャン・バティスト・フォレは、斧のような形に潰れた鼻と、ダルタニャン【D'Artagnan(1615年 - 1673 年】は、ブルボン朝時代に活躍したフランスの軍人で、アレクサンドル・デュマ・ペールが『三銃士』を始めとする『ダルタニャン物語』で描いた人物として有名‐訳者】並みの見事な口ひげ、さらに小さく、か細い先の尖ったあごひげを持つ厳格な骨ばった顔の向こう側に、冒険心と情熱的な心を隠していた。
従順かつ熱狂的に、若きマルセル神父は授業に取り掛かり、大小両神学校における全ての授業をフォレ神父と共有した。その他の課目の中で、マルセル神父は、一クラスで生徒全員に受講させる事が出来るように周期的な教育課程を作って、教義神学と聖書学を教えた。
ルフェーブル神父の機械整備の腕前に気付いたドフラヌー神父は、彼にミッション時の運転手を任せていたが、間もなくして神学校の会計係の役目を彼に担わせた。
食べるものと言えば、パンを含んでいたが、主要な食事の内容は、宣教地区にある大農園の収穫を拠り所としていた。マニョック(キャッサバ)芋【サツマイモに似ていてタピオカの原料になる‐訳者】と特にバナナ、イニャム芋と御馳走とされているサツマイモなどが、魚、あるいは非常に稀ではあったがココナッツかピスタチオの油で調理された豚肉と共に、胡椒を加えて、供給されていた。
この宣教師なる教授の父親、ルネ・ルフェーブルは長男のルネ神父に手紙を書いて、次男の生活をむしろ理想化していた。
「私たちは、敬虔、という雰囲気や、そこを取巻く環境の静けさと美しさ、そして生育する植物になど、私たちが知る限り、理想的な修道院にいるマルセルを見守っています。」
明らかにマルセルは、絶えず自分を汗まみれにし、極度な疲労をもたらす暑さと湿度の事や、休むことなく勉強をしては授業を準備しなければ成らない事については黙していた。
しかし鉄の意志を持つ人間として、ルフェーブル神父は申し分のない健康を維持すると共に、湿気の多い幾つもの夜を切り抜けて眠る事さえ出来たのである。
“かなり気難しい”人であったフォレ神父と彼は上手くやっていった。
フォレ神父は、夕食のテーブルでマルセル神父をからかうのが好きだったが、そのうち最後に笑うのは自分ではないと悟った。何故なら、彼がもらった返答は穏やかではあったが‐タルディ司教が非常に面白がるには‐それに対する反論の余地がないものだったからである。この頑固な北国のフランドル生まれ と、誇り高き南国のピレネー生まれ との友情はますます強くなったのだ。
休暇がやって来ると、マルセル神父とその兄は神学生たちを連れて未開地への旅行に出かけた。教え初めて二年目は、司祭たちと司教との望ましい協力関係を強固なものにした。この司教はルフェーブル家に“心からの感謝状”送った 。フォレ神父によれば、マルセル神父は非常に融通がきいて愛想が良く、微笑みながらも自己の信念においては揺るぐことなく、生徒たちには非常に評判が良くて、司祭たちからはありがたく思われる方だったという。その宣教師人生の始めから、彼は司祭養成に適した傾向とそれ特有の才能を証明したのだ。
「マルセルは」ルフェーブル夫人は書いている。「非常に幸せですが、彼らの鈍い理解力を教化し、自分に一部委ねられたものとして彼らの意志を強化する為にやるべき職務について、一切の幻想を持っていませんでした。」そして彼女は言った。「ただ恩寵だけがこの奇跡を行えたのです。」
初期の内は、授業はアフリカで開始してパリで終了した。大神学校は1874年に開校したが、1899年になってようやくガボン初の司祭アンドレ・ラポンダ・ウォーカー(André Raponda-Walker)神父が叙階された。彼はガボン一帯の動植物相の専門家 であり、マルセル神父は彼と面識をもつだろう。神学生たちの堅忍を妨げたものとしては、家庭環境における薄弱な知的文化と、自分たちの積んだ勉強故に元神学生たちが得ることができた収入の多い仕事への魅力であった。1929年には、タルディ司教は10名の土着民司祭を有し、シャルル・レミ神父が校長を務める神学校には、30名の神学生がいた。その内の22名は、フォレ神父が責任を持って当たる小神学校に属し、残りの8名は大神学生だった。
翌年、布教聖省から1926年1月31日に出された提唱に従ったリーブルヴィルの聖ヨハネ神学校は、ガボン代牧区や、コンゴ‐ロアンゴ代牧区(将来のポワント・ノワール代牧区)、さらにコンゴ‐ブラッザヴィル代牧区から送られる生徒たちを引き受け、複数の代牧区のための神学校(séminaire intervicarial)となった。1931年4月、フォレ神父は校長に、ルネ・ルフェーブル神父はその補佐役に任命された。後者は以前に、ンジョレ(Ndjolé)や、シンダラ(Sindara)、そしてポールジャンティ(Port Gentil)に任命されていて、リーブルヴィル教区の聖ペトロ小教区教会(サン・ピエール)において助任司祭の持ち場を引き継ぐ為にもマルセル神父の到着を待っている最中だった。
1932年の初めに、マルセル・ルフェーブル神父が、兄のルネ神父とヴォージュ(Vosges:フランス北東部アルザス地方)地方出身の屈強な男で総長代理司祭のポール・ドフラヌー(Paul Defranould)神父と共に、港から聖マリア宣教区までの急勾配で短い丘をよじ登った。この丘に上がるなり、壮大な眺めが広がっていた。背後にはドゥ二岬(Pointe Denis)まで見渡せる大きく広がる全河口、前方には、壁石のはめ込まれた丸天井とフレスコ壁画が薄明かりの中で【後に‐訳者】マルセル神父が短い祈りを捧げる、陽だまりに鮮やかな白が映えるあの上品な司教座聖堂 が建っていた。右側には、青色姉妹会修道院と350人の女性徒を抱える修道会経営の学校、さらに土着民の修道女たちを養成する修練院や、パウィンヌ婚約事業の家 へと続く小道があった。
その向こうには、巨大な中庭が、数百名の実習生のいるジャン・ケルジャン(Jean Kerjean)神父の学校と向こう側で接しており、左側近くには修道士たちの家屋と、ジョゼフ・プティプレ(Joseph Petitprez)神父によって建てられた印刷所があった。
左側のさらに遠くには、海岸から運ばれてきた申し分なく頑丈な茶色い石によって低い平地に建てられ、全体が軽量素材で出来た二階建ての垂直な建物が見えた。これは元モンフォール・スクールの建物で、モンフォール・スクールは1930年に聖ペトロ小教区教会(サン・ピエール)に移転して建物を残していったのだ。大いに施設の必要を感じていた聖ヨハネ宣教区が今ではそこを使用していた。
マルセル神父は、タルディ司教から見事な司祭館に喜んで迎え入れられた。そこは涼しく、風通しも良い回廊に囲まれており、この代牧が住んでいる場所でもあった。
マルセル神父は、フォレ神父の指導の下で彼と共に、公教会における芸術の中の芸術、最高の宣教師の仕事、つまり土着民を司祭に養成することを、働くことになるのだ。
1902年にアラン・ザン・ビゴール(Arrens-en-Bigorre )に住む農場経営者の家族に生まれたジャン・バティスト・フォレは、斧のような形に潰れた鼻と、ダルタニャン【D'Artagnan(1615年 - 1673 年】は、ブルボン朝時代に活躍したフランスの軍人で、アレクサンドル・デュマ・ペールが『三銃士』を始めとする『ダルタニャン物語』で描いた人物として有名‐訳者】並みの見事な口ひげ、さらに小さく、か細い先の尖ったあごひげを持つ厳格な骨ばった顔の向こう側に、冒険心と情熱的な心を隠していた。
従順かつ熱狂的に、若きマルセル神父は授業に取り掛かり、大小両神学校における全ての授業をフォレ神父と共有した。その他の課目の中で、マルセル神父は、一クラスで生徒全員に受講させる事が出来るように周期的な教育課程を作って、教義神学と聖書学を教えた。
ルフェーブル神父の機械整備の腕前に気付いたドフラヌー神父は、彼にミッション時の運転手を任せていたが、間もなくして神学校の会計係の役目を彼に担わせた。
食べるものと言えば、パンを含んでいたが、主要な食事の内容は、宣教地区にある大農園の収穫を拠り所としていた。マニョック(キャッサバ)芋【サツマイモに似ていてタピオカの原料になる‐訳者】と特にバナナ、イニャム芋と御馳走とされているサツマイモなどが、魚、あるいは非常に稀ではあったがココナッツかピスタチオの油で調理された豚肉と共に、胡椒を加えて、供給されていた。
この宣教師なる教授の父親、ルネ・ルフェーブルは長男のルネ神父に手紙を書いて、次男の生活をむしろ理想化していた。
「私たちは、敬虔、という雰囲気や、そこを取巻く環境の静けさと美しさ、そして生育する植物になど、私たちが知る限り、理想的な修道院にいるマルセルを見守っています。」
明らかにマルセルは、絶えず自分を汗まみれにし、極度な疲労をもたらす暑さと湿度の事や、休むことなく勉強をしては授業を準備しなければ成らない事については黙していた。
しかし鉄の意志を持つ人間として、ルフェーブル神父は申し分のない健康を維持すると共に、湿気の多い幾つもの夜を切り抜けて眠る事さえ出来たのである。
“かなり気難しい”人であったフォレ神父と彼は上手くやっていった。
フォレ神父は、夕食のテーブルでマルセル神父をからかうのが好きだったが、そのうち最後に笑うのは自分ではないと悟った。何故なら、彼がもらった返答は穏やかではあったが‐タルディ司教が非常に面白がるには‐それに対する反論の余地がないものだったからである。この頑固な北国のフランドル生まれ と、誇り高き南国のピレネー生まれ との友情はますます強くなったのだ。
休暇がやって来ると、マルセル神父とその兄は神学生たちを連れて未開地への旅行に出かけた。教え初めて二年目は、司祭たちと司教との望ましい協力関係を強固なものにした。この司教はルフェーブル家に“心からの感謝状”送った 。フォレ神父によれば、マルセル神父は非常に融通がきいて愛想が良く、微笑みながらも自己の信念においては揺るぐことなく、生徒たちには非常に評判が良くて、司祭たちからはありがたく思われる方だったという。その宣教師人生の始めから、彼は司祭養成に適した傾向とそれ特有の才能を証明したのだ。
「マルセルは」ルフェーブル夫人は書いている。「非常に幸せですが、彼らの鈍い理解力を教化し、自分に一部委ねられたものとして彼らの意志を強化する為にやるべき職務について、一切の幻想を持っていませんでした。」そして彼女は言った。「ただ恩寵だけがこの奇跡を行えたのです。」