フランス人宣教区では、1939年の新参宣教師らが不足していたので、休暇中の宣教師たちはそれが故に自分の宣教区に送り返される場合もあり得た。徴兵を受けるかもしれない宣教師たちの大半は、植民地にある自分の居場所に留まった 。また、ガボンでは、状態はそれ程悪くはなかったのだ。
マルセル神父が戻るや否や、タルディ司教は彼をリーブルヴィル聖マリア宣教区の暫定的な臨時の長上に任命し、ポールジャンティ(Port Gentil)に行ったドフラヌー神父の一時的な代行をさせた 。ドフラヌー神父はそれでも司教総代理のままに留まった。
聖マリア宣教区の長という職は重い責任の一つだったので、この機会に、私たちはそう信じるが、この司教はマルセル神父を自分の聴罪司祭として選んだ 。さらに司教総代理が不在となり、修道会の長上 であるフォレ(Fauret)神父が幾らか隔たったランバレネにいたという事もあって、タルディ司教は自分の相談事 をマルセル神父と分かち合ってもいたのだ。
マルセル神父は、霊的な事柄同様に現世的な事柄においてもこの宣教区の長であった。彼は聖マリア宣教区の漁業と大農園を管理し、その収穫をやり繰りしては出納(すいとう)簿を付け、さらには植民地にある諸宣教区とフランス本国と間の様々な取引を監督するガボン供給部(la Procure) で、ドフラヌー神父の代行を務めなければならなかった。こうして彼は、弟のミシェルを通して、聖マリア宣教区と他の宣教根拠地の機械を動かす為に、3基の電気モーターと、一台のモーターバイク (フォレ神父がリーブルヴィルで自分が使っていた一台をランバレネに持って行ってしまったので)を注文した。
さらに霊的な仕事に関して言えば、ルフェーブル神父は宣教地の小規模な小教区を管理し、この都市の北にある幾つもの村を訪問して、修道女や少女たちの為に霊的講話を提供したのである。その上彼は、司祭的聖徳や司祭生活の規則について、司牧神学の原理などについて、さらに年内に司祭に叙階される4年目の神学受講生たちに向けて、講話を行っている。彼は神学生向け数多くの叙階準備黙想会と、修道女向けの黙想会、さらに同僚司祭向けの黙想会さえ指導したのだ。一つは、司祭の理想を奮い立たせる “私たちの宣教的使徒職の崇高さ”、またもう一つは、ショレ(Chollet)司教の書いた“素晴らしい小冊子”である『キリストの霊魂』 を用いての“私たちの聖主と世俗”と題した黙想会であった。
ンジョレにおいて積み上げた宣教師としての経験は、更なる自信を彼に与えた。もっと後になって、熱意があるにも拘らず、同僚司祭や修道女たちに【黙想会を‐訳者】指導しなければならない事を考えて怯えてしまう何人かの司祭たちを優しく冷やかしては励ました。
1940年4月末、ドフラヌー神父がポールジャンティ(Port Gentil)から戻ってきたが、間もなくドンギラ(Donguila)にいるギユエ(Guillet)神父の代行をする為に出発した。
1940年5月のドイツ軍による攻撃中、マルセル神父はガボン植民地歩兵隊の大隊に属する第一歩兵中隊に徴兵され、6月17日には、歩兵中隊指揮官であるグヴァル(Gouval)中尉の手から軍装備を渡された。 しかし、休戦協定が6月22日に調印されると、フランス帝国の解放は維持され、兵士の復員がフランス軍に命じられたので、マルセルも復員させられたことになったが、私たちがこれから見ていくように、それはほんの束の間の事であった。1940年8月、彼は摂理的にもドンギラにある聖パウロ宣教区の暫定的な長に任命された。こうして彼はド・ゴール将軍(Général de Gaulle)の“自由フランス”軍と、ペタン元帥(Maréchal Petain)により具体化されたフランス統一を求めて戦う軍との間に起きた同胞殺しの戦闘を見ることも、またそれに関わる事もなかったのである。