神学校校長―祈りと編成
1934年に、タルディ司教はフォレ神父をランバレネ(Lambaréné)にある宣教地区の長上にすると、アフリカの人々に対してうまくやっているというマルセル神父が備え持つ性質と秩序に対する感覚を考慮した上で、彼なら神学校を引き継ぐ事が出来ると考えた。10月に到着していた若きベルジェ神父が彼の補佐役となる。
土着民の修道士を養成する修練院はもちろんのこと、大・小神学校で学ぶ47名の神学生たちの面倒を見なければならなかったマルセル神父は、自分の家族に祈りを熱心に要求した。
よりよく神学校が機能するために、彼は神学校の建物と校則を再編した。修練期にある修道士たちの為には、『ガボン出身修道士たちへの覚え書き』という非常に詳細に渡る校則を書いている。12月に彼は、聖堂の中の座席配列を一般信徒用と神学生用とに区別し、もっと大きな聖堂の建設に取り掛かったの。彼は全ての一生懸命になり仕事に没頭したので、時にはとても疲れていた。 短い休暇中には、そんな彼も神学生たちと一緒に河口に行って休息する事が出来たのだ。エストゥリア岬(Cape Estrias)とオウェンド岬(Owendo Point)は結構な釣り場だった。
この校長は常に皆から目を離さず、これはレクリエーション中も変わる事はなかったのである。さらに司祭となるための資質を持たないか、必要とされる徳において進歩していない神学生たちを退学させる事を躊躇しなかった。
それ以来、マルセル神父が神学生たちと過ごした休暇の一つの際に行った事は伝説となった。彼は自分がパンを一切持って来なかった事に気付き、皆と変わらずにマニョック(キャッサバ)芋を食べたのだ。そこでアンジュ・ムバ(Ange Mba)という神学生の一人が、仲間にこう言いながら彼をからかい始めた:
「おい見ろよ、白人がマニョック(キャッサバ)芋を食べてるぞ!」
マルセル神父はこの道化師のからかい話を遮った。
「アンジュ、何をそんなに笑っているのですか? 貴方は司祭である長上をからかっているのですか?」
「はい、神父様、神父様がマニョック(キャッサバ)芋を食べているところを見ているからです!」
「アンジュ、」彼は答えた「アンジュ、私には神学校が貴方のいる場所ではないことが分かります。」
その日の午後、アンジュの神学校生活は終わってしまった。これで彼は神父にはなれなくなったが、だからといって彼が後に父親になることは妨げなかった。彼は後年、ガボンに誕生する未来の総理大臣カズィミール・オイェ・ムバ(Casimir Oyé Mba)の父親となる人物だった。
「ここには申し分ない雰囲気が強められています。」とマルセル神父は1935年に書いている。さらに彼は自分が成し遂げたこの改善が、近いうちに優れた司祭養成を提供してくれるよう期待した。 ルネ神父は、マルセルが神学校にもたらした秩序に感嘆した。
「第一に内的生活、念祷、定期的な告解、そして黙想会です。」
新学年度開始時の黙想会や、御復活祭の黙想会、叙階準備黙想会などの様々な黙想会に向けた計画は、この校長の手元にある紙を埋め尽くした。これらの黙想会の中で、彼は使徒的精神の源である“天主の愛徳”を分かりやすく伝え、【原罪が人間性にもたらした‐訳者】無知の傷とその改善策なる超自然の叡智を際立たせた。「私は天主に属するものです。天主の為にこそ私はここにいるのです―憐れな罪びとなる私―『天主こそ全て、人間は無なり』(リベルマン)。」
さらに彼の活動は、聖マリア宣教区の全てにまで及んだ。1934年の終わりに、彼は最初の発電機を設置した。その際、彼は電力供給に必要な接続の全てを準備した。この機会を利用して、彼は電気とカトリックの科学者たちについて授業を行い、フィナーレとして発電機のスイッチを押し上げると、皆が驚いた事にも明かりが発生したのである。 1935年には、最初の充電式の短波ラジオを取り付けた。彼はさらに、有益かつ持っていて得でもある印刷機の修理もしたのだ。 タルディ司教は、自分の協力者が持つ広範囲に亘る資質と、彼がやり遂げる編成と申し分のない秩序によって支えられる事により結ばれる聖寵の良い実を感心して眺めた。この司教は、自分が管轄する学校への資金調達の為、フランスに向い、1936年の夏にトゥルクワンを訪問した。そこで彼はルフェーブル妻と面会し、どれだけ自分がマルセル神父を評価しているかを伝えた。「彼がやる事は全て完璧です。私の不在中、決定を下さなければならないのが彼だと知っているので、私は安心して居られます。」
彼を知る者全ての意見によれば、ルフェーブル神父は非常に優れた神学校校長だった。“自分の判断と決断においては揺らぐことも極端に走ることもなく、思いやりがあって、組織と実用的な事柄にかけて非凡である”と。
近郊の代牧区長たちが聖ヨハネの神学校に対して抱いていた信頼は、1935年の新学年度開始に当たって極めて多くの . . . タルディ司教の心配するには、余りにも多すぎるほどの生徒たちを神学校側が持つ結果となった。タルディ司教は大神学校生たちをカメルーンにあるヤウンデ(Yaoundé)【の大神学校‐訳者】に移送しようかと考えさえしたほどだった。しかし、費用は掛かるし危険の伴うこの処置を避ける為にも、マルセル神父は小神学生と大神学生たちを分離する事で事態を整理したのだ。こうしてガボンの名誉の為にも、聖ヨハネ神学校は聖ヨハネ神学校のまま留まるだろう。
【聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次】
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1934年に、タルディ司教はフォレ神父をランバレネ(Lambaréné)にある宣教地区の長上にすると、アフリカの人々に対してうまくやっているというマルセル神父が備え持つ性質と秩序に対する感覚を考慮した上で、彼なら神学校を引き継ぐ事が出来ると考えた。10月に到着していた若きベルジェ神父が彼の補佐役となる。
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よりよく神学校が機能するために、彼は神学校の建物と校則を再編した。修練期にある修道士たちの為には、『ガボン出身修道士たちへの覚え書き』という非常に詳細に渡る校則を書いている。12月に彼は、聖堂の中の座席配列を一般信徒用と神学生用とに区別し、もっと大きな聖堂の建設に取り掛かったの。彼は全ての一生懸命になり仕事に没頭したので、時にはとても疲れていた。 短い休暇中には、そんな彼も神学生たちと一緒に河口に行って休息する事が出来たのだ。エストゥリア岬(Cape Estrias)とオウェンド岬(Owendo Point)は結構な釣り場だった。
この校長は常に皆から目を離さず、これはレクリエーション中も変わる事はなかったのである。さらに司祭となるための資質を持たないか、必要とされる徳において進歩していない神学生たちを退学させる事を躊躇しなかった。
それ以来、マルセル神父が神学生たちと過ごした休暇の一つの際に行った事は伝説となった。彼は自分がパンを一切持って来なかった事に気付き、皆と変わらずにマニョック(キャッサバ)芋を食べたのだ。そこでアンジュ・ムバ(Ange Mba)という神学生の一人が、仲間にこう言いながら彼をからかい始めた:
「おい見ろよ、白人がマニョック(キャッサバ)芋を食べてるぞ!」
マルセル神父はこの道化師のからかい話を遮った。
「アンジュ、何をそんなに笑っているのですか? 貴方は司祭である長上をからかっているのですか?」
「はい、神父様、神父様がマニョック(キャッサバ)芋を食べているところを見ているからです!」
「アンジュ、」彼は答えた「アンジュ、私には神学校が貴方のいる場所ではないことが分かります。」
その日の午後、アンジュの神学校生活は終わってしまった。これで彼は神父にはなれなくなったが、だからといって彼が後に父親になることは妨げなかった。彼は後年、ガボンに誕生する未来の総理大臣カズィミール・オイェ・ムバ(Casimir Oyé Mba)の父親となる人物だった。
「ここには申し分ない雰囲気が強められています。」とマルセル神父は1935年に書いている。さらに彼は自分が成し遂げたこの改善が、近いうちに優れた司祭養成を提供してくれるよう期待した。 ルネ神父は、マルセルが神学校にもたらした秩序に感嘆した。
「第一に内的生活、念祷、定期的な告解、そして黙想会です。」
新学年度開始時の黙想会や、御復活祭の黙想会、叙階準備黙想会などの様々な黙想会に向けた計画は、この校長の手元にある紙を埋め尽くした。これらの黙想会の中で、彼は使徒的精神の源である“天主の愛徳”を分かりやすく伝え、【原罪が人間性にもたらした‐訳者】無知の傷とその改善策なる超自然の叡智を際立たせた。「私は天主に属するものです。天主の為にこそ私はここにいるのです―憐れな罪びとなる私―『天主こそ全て、人間は無なり』(リベルマン)。」
さらに彼の活動は、聖マリア宣教区の全てにまで及んだ。1934年の終わりに、彼は最初の発電機を設置した。その際、彼は電力供給に必要な接続の全てを準備した。この機会を利用して、彼は電気とカトリックの科学者たちについて授業を行い、フィナーレとして発電機のスイッチを押し上げると、皆が驚いた事にも明かりが発生したのである。 1935年には、最初の充電式の短波ラジオを取り付けた。彼はさらに、有益かつ持っていて得でもある印刷機の修理もしたのだ。 タルディ司教は、自分の協力者が持つ広範囲に亘る資質と、彼がやり遂げる編成と申し分のない秩序によって支えられる事により結ばれる聖寵の良い実を感心して眺めた。この司教は、自分が管轄する学校への資金調達の為、フランスに向い、1936年の夏にトゥルクワンを訪問した。そこで彼はルフェーブル妻と面会し、どれだけ自分がマルセル神父を評価しているかを伝えた。「彼がやる事は全て完璧です。私の不在中、決定を下さなければならないのが彼だと知っているので、私は安心して居られます。」
彼を知る者全ての意見によれば、ルフェーブル神父は非常に優れた神学校校長だった。“自分の判断と決断においては揺らぐことも極端に走ることもなく、思いやりがあって、組織と実用的な事柄にかけて非凡である”と。
近郊の代牧区長たちが聖ヨハネの神学校に対して抱いていた信頼は、1935年の新学年度開始に当たって極めて多くの . . . タルディ司教の心配するには、余りにも多すぎるほどの生徒たちを神学校側が持つ結果となった。タルディ司教は大神学校生たちをカメルーンにあるヤウンデ(Yaoundé)【の大神学校‐訳者】に移送しようかと考えさえしたほどだった。しかし、費用は掛かるし危険の伴うこの処置を避ける為にも、マルセル神父は小神学生と大神学生たちを分離する事で事態を整理したのだ。こうしてガボンの名誉の為にも、聖ヨハネ神学校は聖ヨハネ神学校のまま留まるだろう。
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