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聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.6.同胞殺しの紛争

2010年06月29日 | ルフェーブル大司教の伝記
Ⅵ.同胞殺しの紛争


  1939年10月25日のリーブルヴィルで、ガボン植民地歩兵隊第一大隊が母国フランス救援に向かう船 に搭乗した。一年後、娘のアフリカ植民地を攻撃し粉砕せんと迫り来るように思われたのはまさに母フランスであった。

 更に言えば、フランスにおいて戦闘が依然として猛威をふるっていた間に、ド・ゴール将軍はロンドンに身を置いていたのだ。彼は後日、ペタン元帥がドイツ軍に対して要請した休戦協定を拒絶し、この戦争の継続を要求したのだ。

 1940年10月27日には、ルべ(Roubaix)のイエズスの聖心大聖堂で、リエナール枢機卿が叫びを上げる事になるだろう。
「休戦協定なのです!それに調印した方々には、この協定に対する私たちからの尊重を要求する権利があるのです。何故なら、屈辱の時代にあった私たちを彼らが助けに来てくれたからです。彼らにはこの敗北についての責任など何一つありませんでしたが、私たちの手助けをし、私たちが持つ苦痛を和らげに来て下さり、それ以来ずっと彼らは救い得るものを救う為、全力を尽くして働き、私たちの力を内側で増強して下さいました。もし生き延びる事をフランスが許されているなら、彼女(フランス)は、再び世界で自分の地位に就く事が出来るためです。」

  不思議な偶然で、これと同日にド・ゴール将軍が自らの声明を打ち上げた。
「もはやフランス政府は存在しない . . . よって新たな政権は、戦争におけるフランス人の奮闘を指揮する指導の責務を引き受けるべきである。私はフランスの名の下に自分の権能を行使するだろう。」

 休戦協定は彼にとってまたとない良い機会であり、彼は、アフリカから始まって自分の戦争をし続けるために、如何にこの機会を捕らえるかを心得ていたのだ。1940年8月12日、彼はアフリカで戦争を開始した。ルクレル(Leclerc)少佐指揮下にあったド・ゴールの派遣団がナイジェリアのラゴス(Lagos)に上陸したのであった。2週間の内に何の抵抗も受けず、ルクレルはフランス領赤道アフリカのほぼ全域を「自由フランス」の側に味方に付かせた。ただガボンだけが抵抗したのである。

  8月29日、マソン総督(Gouverneur Masson)は電報を送り、自分はド・ゴールを支持する旨を伝えたが、その後ルネ・ラバ(René Labat)によって指揮された別の有力者たちが異議を唱えた。8月30日、潜水艦ポンスレ(Poncelet)がリーブルヴィルに錨を下した。テテュ(Têtu)空軍大将とクラヴォ(Claveau)大佐という意志の固い二名の指導者による命令下で、ブワソン要塞司令官(Gouverneur Général Boisson)により潜水艦ポンスレが派遣され、ダカールからの援軍【パスカル型潜水艦ポンスレの乗員は65人‐訳者】を輸送していたのである。最後に、ガボンはペタン元帥に対する忠誠に留まらなければならない というタルディ司教の考えが決定的だった。マソン総督は9月1日に自分が送った第一号の電報を撤回したのだ。

 ルクレルはガボンをその周辺から味方につけようと試みた。ガボンの北では、ディオ(Dio)少佐がオイェム(Oyem)を攻め落とし、南ではパラン(Parant)少佐がマユンバ(Mayumba)を奇襲によって占領した。

 ディオがミズィック(Mitzic)を10月27日に占領し、さらには、パランがングニエ(Ngounié)川を下りフガム(Fougamou)を占領したが、しかしそれは、フランス人同士の戦いという代償を払ってのことだった。フガムでは、オディロン(Odilon)修道士が、さらなる死者を避ける為に仲介役を務めた。パランがついにランバレネを包囲し【ド・ゴール将軍派による‐訳者】奪回に附すると、迫撃砲火によって宣教師サムエル・タラバルドン(Samuel Talabardon)神父が死亡した後、11月5日、この町は降伏した。

  「ガボン征服はだらだらと長引いていました。」 ド・ゴールは、9月25日のダカール郊外における友軍の敗北に心を乱し、二の足を踏んでしまった。

 すると今度はルクレルが、リーブルヴィル近くに不意打ちの上陸を命じるようにと彼を急き立てたのだ。それは11月の8日から9日の夜に実施された。同胞殺しの銃撃戦が空港の周縁で起きた。午後になっても、しかし事態は依然として際どい瀬戸際にあった。その時、一隻の哨戒艇ブーゲンヴィルが、ド・ゴール将軍派のブラッザから闖入して来たサヴォルニャン哨戒艇【ブーゲンヴィル型植民地警備艦‐訳者】に対し口火を切るも、その反撃を受けて撃沈されてしまった。この敗北がリーブルヴィルの陥落を決定した。9日から10日の間の夜にこの町はド・ゴール派の手に落ちた。

 補給艦カップ・デ・パルム号(Cap des Palmes)は海上刑務所と化し、ルクレルはその中に、将校、及びマソン総督、ルネ・ルフェーブル神父、さらにはタルディ司教自身をも監禁させたのだ。 身柄を拘束される前、タルディ司教は自分のスータンの上に赤いリボンを縫い込ませておいた。何故なら彼は、ちょうどフランス統一への忠誠を表彰され、ウェイガン(Weygand)将軍から授与されていたレジオンドヌール勲位勲章 を身に付けての連行を望んだからである。

 その時、この聖職者(タルディ司教)がルクレルから依頼されたTe Deum ‐テ・デウム‐の歌唱を拒否したので、ケニッグ(Koenig)少将がオルガンを演奏する間、1人の従軍司祭がいつもの信徒たちが不在で空っぽの司教座聖堂で感謝の儀式を執り行った。タルディ司教の解放には、ドフラヌー神父が持つ外交的腕前の全てが要求された。この司教は、ランバレネで6週間軟禁状態にされたのである。しかし、このように惨い内部抗争の後にあった司教軟禁は、ガボン人たちを混乱状態に陥れてしまった。ルフェーブル大司教は冷静に締めくくっている。
「それは良い模範などではありませんでしたし、私たちの聖役に役立ちはしませんでした。」

  後日パランは、助成金を諸々の宣教区に分配した。だが一方で、ガボンの或る一人の司祭は、リビア国境に到達しようとサハラ砂漠を横断していたルクレル率いる軍隊の従軍司祭になってしまった 。

聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次
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