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聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 19.4.2.如何にして歴史的行為に取り掛かるか?

2010年06月09日 | ルフェーブル大司教の伝記
如何にして歴史的行為に取り掛かるか?

 ヨハネ・パウロ二世が6月9日付けで書いた、ルフェーブル大司教の計画を“離教行為”呼ばわりする手紙は、大司教を止める事など出来なかった。

 大司教の確固不動さを目の当たりにさせられたローマは再び後退し、デュルー神父はローマ委員会構成員の再検討を提案した。ラッツィンガー枢機卿の秘書は、6月10日に大司教との長い会議をエコンで行った。しかし一切の成果はなかった。

 6月3日に自分の修道院の【ルフェーブル大司教からの-訳者】独立の動機を弁護しにやって来たドン・ジェラールは、空手でル・バルーに戻ることになった。

 徐々に自分の選びを決めてきた大司教は、四名の司祭からの同意を獲得した。時折彼は、運転手が誰であろうと尋ねた。「貴方なら誰を選びますか?」つまり彼は【選ぶべき候補者たちの‐訳者】名前が欲しかったのだ! 神学生たちの間では、【誰が選ばれるかと‐訳者】予想が駆け巡った。四名の候補者たちが揃ってエコンに現れたのは6月13日であった。

 北米神学校の校長で英国人のリチャード・ウィリアムソン、南アメリカ管区長のスペイン人アルフォンソ・デ・ガラレッタ、青少年時代をエコンのふもとで過ごした会計長 の若きスイス人ベルナール・フェレー、そして事務総長でフランス人のベルナール・ティシエ・ドゥ・マルレであった。上述の後者2名は、シュミットバーガー神父総長と共にリッケンバッハ在住だった。総長神父は「司教閣下」と彼らを良く冷やかしたものだ。それに対し、彼らお決まりの返事が「ここには司教閣下など一人もいません!」であった。

 ことは敬称の問題ではない。彼らは「カトリック教会の補足の高位聖職者」となり、やがては破門つまり破門された者として見なされる運命にあった。しかし彼らは大司教に信頼し、自らの職務を進んで遂行した。
「大司教様には決断する恩寵があり、私たちには彼に従う恩寵があります。」

 ルフェーブル大司教は入念にこの式典を準備した。司教聖別用のテント、そして諸々の【司教用の‐訳者】儀式定式文が収められた大判の儀式書、さらにこの将来の司教たちによって捧げられることになる4本の小樽に入ったワインなどがあった。大司教は【新司教たちの為に‐訳者】胸掛け十字架を購入しようとローマへ向かい、そこで司教指輪を作らせると共に、【司教用の‐訳者】紫のスータンを仕立てさせた。彼はエコンとフラヴィニーの神学生たちに、自分が行おうとしている行為を説明するために時間を割き、さらには起こっている事態を信徒たちに説明する記事及び小冊子の作成を承認した。彼は6月15日の記者会見の為にと自分でエコンに招いたメディアの使い方を完璧に熟知していた。この記者会見は、ちょうど別の外出から戻って車から降りるとすぐに始まった。

 神学校校長のアラン・ロラン神父により準備されていたメディア向けの配布資料は、なんと【五年前の】1983年10月19日に書かれて以来、自分の書類の合間に残されたままになっていた大司教による「公的宣言文」を含んでいた。
それにはこう書かれている。

「カトリック教会は、偽りの諸宗教や異端とのいかなる交わりをも嫌悪します。(…)カトリック教会が認めるたった一つの一致とは、カトリック教会のもとにおける一致です。(…)姦通の教会などではなくカトリック教会を永続させるカトリック司祭職を守る為には、カトリック司教たちが存在しなければなりません。」

 彼は常に変わる事のない‐簡潔で、的確、力強くて、誠実な‐文体で文書を著した。この宣言文には1988年3月29日に大司教が書いた長い文書が付いていた。さらにマインツの教会法教授ゲオルグ・マイ(Georg May)神父による、カトリック教会内の緊急事態を扱う法律に関する研究論文“カトリック教会の永続か、あるいは活動が脅かされる場合に適用される法律上の規則群”も付随していた。

 大司教が自分の解説を終えると直ぐに、大教室に詰め掛けていた百名以上の報道記者たちからの質問がドッとあった

  「離教は貴方の元から多くの信徒たちを立ち去らせることになりますよ。」
  「まあ、どうなるか見てみましょう。仮にそれが10年や20年続こうとも。」
  ルフェーブル大司教は、全報道記者たちを驚嘆させる親切を尽くし、冷静に彼らの質問全てに答えた。しかしこれは記者団の一人が教室を退室する時に、ある神学生に公然と自白するのを妨げなかった。
  「僕は君の親分を撃ち落すよ!」  

 なるほど、翌日になって全新聞の見出しは皆一斉に声を合わせていた。
「ルフェーブル大司教:離教宣告」(ジャン・ブルダリア氏記事、ル・フィガロ紙、6月16日発行)、「地獄の門に立つルフェーブル大司教」(ル・コティディアン紙‐Le Quotidien)、「ヨハネ・パウロ二世に挑む」(トリビューヌ・ド・ジュネーヴ紙)そして、より奇抜な見出しもあった。例えば、「聖戦」又は、「ミトラ戦争【司教冠戦争、司教による戦争‐訳者】」などである。さらに、より平凡な見出しとして「離教計画」あるいは「分裂」などがあった。

 時折インスピレーションがほとんどないアンドレ・フロッサール氏は、自分に基本知識が欠けていることを隠さずに、読みやすい文体でコメントを書いた。
「最も悲しい事は、離教の道を下って行くのを止める為に、どこまでも、何でもずっとやるであろう教皇の寛大さを認識できないエコンの高位聖職者の頑固さである。彼は、恐ろしく柔軟性のない思考の捕囚であり、彼の知性にほんの僅かな場所しか残してはくれないのである。彼は己が組織の捕囚である。恐らくその不従順の論理を断絶まで推し進めることしか出来なかっただろう。しかし、不条理にまで推し進める必要なかった。 」

 大司教の友人であって自由主義者のジャン・ギトン氏は、彼に6月21日付けの手紙を書いた。それは血の様に赤いインクで書かれた最後の手紙であった。

「私は何時も閣下を弁護してまいりました。閣下は‘反抗者(mutin)’であって‘突然変異(mutant)’ではなく、さらにその本質において変わる事の出来ない真理の為に閣下は戦っておられるのだと私は申し上げました。(…)私の人生において、6月30日は他の何よりも私をさらに深く傷つける日となるでしょう。私は6月30日よりも前に、私一人との会見をしてくださるよう閣下にお願い申し上げます。(…)人が今生の別れにおいて言う、希望と神秘に満ちたこの言葉を(子がその父に言う様に)私が閣下に言う事が出来るように、ア・ディュー【さようならば】!と。」


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