Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ピオ十世会(SSPX)創立者 ルフェーブル大司教の伝記 20.1.2.正義への飢え渇き

2010年06月12日 | ルフェーブル大司教の伝記
正義への飢え渇き

 公教会は何時かこの行為が英雄的であったかどうかを判断しなければならないことになるだろう。彼の行動の英雄性を拒む事は簡単であろう。

「ルフェーブル大司教は自分が陥りがちな傾向に、ただ従っただけではないのか?」 彼の“強情な”性格や、「自己」の原則への完全な信頼、あまりにも自分の判断に信頼しすぎること、そして、最後に、自由主義へのアレルギーなどが、【ドン・キホーテのような-訳者】“孤立した騎士”の役をするように、彼を駆り立てたのではないか?と。

 ここまで読むに至った読者たちは、これらの陳腐な決まり文句の誤りを指摘することができるであろうし、大司教が権威を尊重する教会聖職者であり、辛抱強く従順であり、上長には忠実で、人目を引く対立あるいは人を躓かせる対立の敵であって、祈りの人であると共に、御摂理に従う事を唯一の望みとする上智の人であると考えるであろう。少なくとも、本書の読者はこう自問する事ができるだろう。
「大司教の行いは、彼に与えられた特殊な使命に結びついた並外れた恩寵を通して説明されるべきではないか?」

 この恩寵は、すでに前もって予知された責務、予見されつつも1日1日と少しずつ、御摂理が指し示すところに従って実現されていく責務、その責務遂行に伴う全要求を、どんな犠牲を払おうとも、最後までやり遂げる力を彼に与えるのである。天主がそのように導いたマルセル・ルフェーブルは、その時、恩寵の神秘となるだろう。

 御摂理にこそ彼は常に“従う”事を欲した。しかしながら、信頼とは無頓着とは異なる。彼の友人のカルメル神父はこれについて良く存っていた。

「事を天主の恩寵に任せておく事は何もしないという事ではありません!それは【天主を】愛し続けると同時に、私たちに出来る事は何でもする事なのです。」 聖なる委託【saint abandon】とは、“任務放棄や怠惰の中にではなく、行動と事業の中核に見出されるのです。」

 実際に戦う事もしないで、勝利を求めてそれを天主に祈り求める事は不誠実だろう。 ここに気前良く天主の恩寵に応える事を意味する寛大さ【magnanimité】を見出す。寛大さとは、天主の恩寵が、祈りだけではなく、さらに私たちが自分の人格の行いで支払うことを求めるとき、それに寛大に答えることにある。聖トマス・モアはこの意味の寛大さでこう祈った。The things, good Lord, that I pray for, give me thy grace to labour for. 「我が祈り求めるものごとのために働く恩寵を、我に与え給え。」

 私たちが【批判的に】必要な距離を置いていないとか、あるいは賛辞に走っていると非難するような読者の為にも、私たちは、もう一人の聖トマスに、聖トマス・アクイナスに、寛大な人間とはどのような人なのかの素描をしてもらおう。

  寛大さ【magnanimitas】とは、広大で輝かしいある計画において、偉大で崇高な事柄を思いつき遂行する事を意味する。それは【4つの枢要徳である賢明、正義、剛毅、節制の中の‐訳者】剛毅の徳に不可欠な部分であり、ある仕事の遂行に伴う危険を前に尻ごみしないよう人を助ける。“偉大な事柄”という言葉によって、私たちは偉大な賞賛に相応しい事柄と理解すべきである。仮に偉大な事柄を行う事で、ある不当な恥を蒙っても、寛大な人は落胆することはなく、むしろこのような「不名誉」を軽視する。従って、真に偉大な事柄を行う為に、彼は無鉄砲な人々の様に冒険に対する愛からではなく、かき乱されることなく、臆病な霊魂がそうするのとは反対に、危険に立ち向かう。ただ非難に値するある振る舞いだけが彼を及び腰にする。強靭な人として、辛い反対攻撃を耐えるのと同様に、困難な仕事においても、しっかりと辛抱する決心がある。

 もし偉大な事を行うのに自分は相応しいと彼が考えるとすれば、それは天主が彼にお与えになった賜物を考えるからである。何故なら、彼は謙遜な人間として、自らの欠陥を知っており、自分自身を無であると見做すからである。従って、謙遜と結合した寛大さはキリスト教の徳になるのである。

 たしかに、妨害をものともせず、善を遂行する事において尻ごみしない事は、剛毅の徳に属している。しかし、ある善行を終わりまで完遂し、それによって‐あらゆる善行の究極的目的である‐永遠の生命に至る事について言えば、それは聖霊の賜物である。聖霊だけが【善の遂行に‐訳者】反対するあらゆる恐れを取り除く信頼を、唯一霊魂に注入して下さる。

 聖主は寛大な者たちに至福をお約束になったではなかろうか? 偉大で正義の業を熱望し、その実現の為に働く者たちは、自ら抱く願望の実現をそしてそれ以上のことを、現世と来世の両方で、見る事が保証されているのだ。

「正義に飢え渇く人は幸いである。かれらは飽かされるであろうから【マテオ5:6】。」  


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】