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聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.2.4.見習探検家―エフォク(Efok)

2010年06月20日 | ルフェーブル大司教の伝記
見習探検家―エフォク(Efok)

  1935年9月28日、ドフラヌー神父の面前で、マルセル神父は終生誓願を宣立した。しかし、1935年から1936年までの間、神学校校長としての様々な責務が彼に重くのしかかっていたので、気分転換のために、またカメルーンのエフォクにいるマリー・ガブリエル修道女に会いに行くために、彼には未開地へ行く事が許された。

 1936年10月12日に、彼は【リーブルヴィル郊外の‐訳者】オウェンド(Owendo)港を出発してからドンギラ(Donguila)を過ぎ去り、そこからコモ(Komo)川を上った。航行不能な最初の急流に到達すると、船を下りて上陸し、象によって時折激しくかき回される泥道伝いに歩き続けた。【行く手を阻むような‐訳者】枝や根に足を取られながらも、彼はモン・ド・クリスタル(Monts de Cristal)をよじ登り、昔の大農園の林の茂みと広大な牧草地を通り抜けて歩いた。彼は浮橋か、原住民のイカダ(コンボ・コンボ)に乗って川を渡った。さらに村と言う村を訪れては、ミサを捧げたり、告解を聴いたり、さらに、癩病人の傷を消毒し包帯を巻いてあげたりしながら、各地域の族長やカテキスタたちに挨拶してまわったのだった。  時々、夜中に彼は胃痛、あるいは酷い歯痛に苦しみ、時には訪問先の小屋の中で、執念深い赤蟻の波を前に逃げ出す事を余儀なくされた。

  至る所にある宣教の根拠地において、マルセル神父はその同僚たちから温かく迎えられ、時にはこの同僚たちの一人又は別の一人が、次の宣教区まで良く同行してくれたものである。11月11日、パージ(Page)神父が配属されていたビタン(Bitam)で彼は書き留めた。「私には、彼が何処へ行くとも考えずに堂々巡りをしつつ、背教したカトリック信者たちを助けようと試みて‘四方八方に走り回わる’明確な道しるべを持たない孤独な方という感じを受けます。」そう通り、宣教師の孤独とは常に辛い事態なのだ。

  11月21日、彼はンテム川(Ntem)を渡りカメルーンに入る。同月14日に到着したアコノ(Akono)で、ルフェーブル神父は小神学校を訪問した。そこは1924年に創立されており、聖霊司祭修道会の司祭4名とアフリカ人司祭1名と共に、既に102名の生徒たちが在学していた。マルセル神父はこうメモしている。「ここには信頼の雰囲気があるようには見えない。」それでも多くの生徒たちは堅忍していた。

  11月15日、マルセル神父はヤウンデ(Yaoundé)に着いた。古き宣教区が置かれている小さなムヴォルイェ(Mvolyé)高原に登った。そこで生活している代牧区長のヴォグ(Vogt)司教は、私たちの旅人を出迎えた。マルセル・ルフェーブルはこの司教について「本当に彼は親切と聖性の雰囲気をお持ちだ。」とメモを書き残した。マルセルはこの共同体にある修道者としての規則正しさとピエール・ボノ(Pierre Bonneau)神父の使徒的発意に敬服した。
「三つの団体がある。一つは青年男性の為で、もう一つは若き女性の為、そして一つは若い夫婦の為。この最後の団体は、自分たちの娘を欲しがる人からの結納金の支払いを受け付けないと約束している。」マルセルは、自分がこのような過激さに対して抱いた見解を書き留めていない。

  更に彼はムヴォルイェにある大神学校を訪問した。既に私たちが言及して来た事情によって、1927年にローマから来たウジェーヌ・クレ(Eugène Keller)神父はこのカメルーン神学校を良く引き受け、生徒たちからの信頼を得ていた。それでも残念ながら、彼の後継者となったエンゲルベルク(Engelberg)のスイス人ベネディクト会士たち はそれ程の成功を収めることはなかった。アコノ(Akono)でマルセル神父が気付いていた不安よりも、ムヴォルイェにおいての方が大きかった。しかし、マルセルは悲観的な印象にぐずぐず立ち止まってはいなかった。11月16日、最終的にその旅路が終わり、エフォクにいるマリー・ガブリエル修道女‐妹のベルナデット‐との面会を喜んだ。

  1928年6月11日、聖霊姉妹会がエフォクにやって来た。それは、ムヴォレイェからエフォクに移転していたカメルーン人の姉妹会‐ヤウンデのマリアの娘会‐の志願院の指導を担当する為だった。マリー・ガブリエル修道女は、1932年の夏にスイスのモンタナにある聖霊司祭修道会の聖母の家に任命され、9月にはフランスのジェール(Gers)県にあるミランド(Mirande)へ、1933年にはべティシー(Bèthisy)の修練院に任命を受けたが、ついに1933年11月にはエフォクに任命された 。エフォクでは、新生児や生後18ヶ月未満の孤児たちの世話をする為に設置されていた保育所の看護婦に彼女は任命されている。 マリー・ガブリエル修道女には死の危険に瀕した数多くの新生児に洗礼を授ける事が出来るという慰めがあった。

 誇りを感じつつ、彼女は実の兄を自分の従事する使徒職の現場へと案内した。
 リッテ(Ritter)神父との食事中、マルセル神父はルイ・オジュラ(Louis Aujoulat)(1910-1973)と面会する事が出来た。オジュラは、ロベール・プレヴォ(Robert Prevost)神父が付属病院付きのチャプレンを務めていたリール・カトリック大学において1932年にはその医学生であった。

 彼はAd Lucem ‐光に向って‐と呼ばれるカトリック宣教・平信徒大学生の会を創立した人物である。この会の大学生たちは、宣教の奉仕のために自分の職業を使うという決心を立てた。オジュラ博士は、間もなくしてグラファン司教(ヴォグ司教の補佐司教)から、カメルーン に招かれていたのだ。【マルセル神父が到着した時には】オジュラはちょうどエフォクに真新しい病院を設立したばかりであった。マリー・ガブリエル修道女はそこで働いていたのだ。

 後日、当病院の医師らのためのチャプレンとなったボノ神父は、リール教区と連携して専門化したカトリック・アクションの計画を始動したのである。


聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次
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