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聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.2.5.成果

2010年06月21日 | ルフェーブル大司教の伝記
成果

  ルフェーブル神父はドゥアラ(Douala)から船に乗って、1936年末にリーブルヴィルに帰り、司祭養成という困難な職務に再び取り掛かった。

 生徒数は、40から50の間を変動しつつも一定を保っていた。1936年に撮られた二つのグループ写真には、白いスータンを着て黒い宣教師用の紐帯を腰に締めた6名の神学受講生たちが写っている:ブラッザヴィル出身のオギュスト・ンコンク(Auguste Nkonkou)、ガボン出身のフランソワ・ンドン(François Ndong)、中央コンゴ出身のドゥ二、さらにジャン・マリー(おそらくンジョレ出身のジャン・マリー・エフェーヌ Jean-Marie Efène)、ブラッザヴィル出身のウジェーヌ・ンクワキュ(Ugène Nkwaku)、そしてガボン出身のトマ・ムバ(Thomas Mba)などの神学生たちであった。

 フランソワ・ンドンが提出した基礎神学の試験答案についてルフェーブル神父は批評した。「短すぎます。ローマ・カトリック教会こそが唯一真の教会ですよ。」

 それからオギュスト・ンコンクの試験答案についてはこう批評した。「貴方は[教皇の]至上権に関する主題にもっと重点を置くべきでしたね。」

 【記念写真に写っている】制服のワイシャツを着用する30名の哲学受講生たちに関して言うなら、最年長者は次の四名だった。アルワーズ・エイェナ(Aloyse Eyéna)と、テオドール・オブンドュ(Théodore Obundu)、アンジュ・ムバ(Ange Mba)、そして4人目の名前は不詳である。最後に、ガボン人の7名の小神学生たちが手前に写っている。その中に若きフェリシアン・マクアカ(Félicien Makouaka)が見て取れる。

  よって未来の三司教‐フランソワ・ンドン(1961年の7月2日にルフェーブル大司教により司教聖別されるとリーブルヴィルの補佐司教となり、それからオイェム‐Oyem‐の司教となった)、シリアク・オバンバ(Cyriaque Obamba ムイラ‐Mouila‐の司教)、そしてフェリシアン・マクアカ(フランスヴィルの司教)‐たちは、ルフェーブル神父の生徒だったのである。
「彼らが能力不足ではなかったと信じなければなりません。」と真面目に彼は言っている。


 ヴァランタン・オバム(Valentin Obame)やヴァンサン・ンヨンダ(Vincent Nyonda)などの大臣や、レオン・ムバ(ガボン)のような将来登場する国家の指導的立場の人たちもまた聖ヨハネ神学校の生徒たちではあったが、それはマルセル神父の時代より後のことである。

  ルネ・ルフェーブル神父は1938年1月に成長を遂げる聖ペトロ小教区の主任司祭となった。 その年の復活祭に向けて準備中だった マルセル・ルフェーブル神父は、4月17日の司祭叙階を待つ(フランソワ・ンドンを含む)最年長の神学受講生たちの為に黙想会を指導している。彼の考えはとても明確に考え抜かれた幾つかの信条に要約された:

  1.「真の熱意なるものは従順の外に存在しない。」
  2.「何よりも真理を愛し、その中に本当に霊魂の救いを見なければならない。」
  3.「常に義化、すなわち聖成の恩寵の状態の観点から、我々の信徒たちを理解すること。」
  4.「個人的原理原則なるものは一切持たず、むしろ我らの聖主と公教会の原理原則を持つこと。これこそが本当の愛徳であり、近代主義者やリベラルのやり方による愛徳ではない。」
   「愛徳とは、行動する真理である。」
  5.「教皇はペトロの後継者、地上におけるキリスト、揺ぎ無い岩、世の光である。」
  6.「司教による宣教区視察時は、我々の事業について彼に語り、忠告を求めよう。」

  
 上記のように非常に明確な勧告と共に、マルセル神父はこれらの司祭志願者たちのもとにおける自らの職務を終えた。事実、彼はマラリア と肝臓障害を患っていたのだ。ある晩、それは午前2時頃、彼はもうこの病苦に耐えられなくなり、ベルジェ(Berger)神父を起こした。

「確かに自分は重病だと思うのです。もしも、と言うことがあります。多分私は死ぬかもしれません。どうか私の告解を聴いて下さい!」

 この司祭は彼の告解を聴いから彼を落ち着かせると、ハーブ茶を彼の為に作りベッドに送り返してあげた。

 ルフェーブル大司教は後日言っている。「私は殆ど死んでしまうほど疲労しておりましたので、働き続ける事が出来ませんでした。私には残っている力がなかったのです。実に自分が持つ限界でしたあ。」

 タルディ司教は“療養の為に”彼を奥地へ送り、しばらくためらって後に 彼をンジョレの臨時の代理的な長の地位に任命するよちも良いものがないと判断した。

 神学校は、ベルジェ神父の指導の下で続行した。1944年には、神学受講生の5名と哲学受講生の7名、さらには小神学生20名が在校していた。聖ヨハネ神学校は1947年に小神学校となり、そこにいた年長の生徒たちを、少しばかり前にブラザヴィルに創立され、エミール・ロラン(Emile Laurent)神父によって指導される “リベルマン”地域大神学校に送ったのだ。

聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次
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