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聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 20.1.3.飢えも渇きもしない人々

2010年06月13日 | ルフェーブル大司教の伝記
飢えも渇きもしない人々

  司教聖別用テントに下る坂頂上で離れて座りながら、ドン・ジェラールは距離を取った。1988年6月30日の午後、「この集会、この拍手全て、この愚行はうんざりするほど十分長く続きました。ここには、私たちにすることなどありません。帰りましょう!」と彼は言いながら、それを聞いて仰天する友人ロラン・ムニエ(Laurent Meunier)氏を残して立ち去った。

 7月26日、彼はジゴンダで、これを最後にルフェーブル大司教と面会した。4時間に及ぶ面会の終わりに、この修道者は大司教に保証した。

 「私たちは閣下への相談もなくローマとは何も致しません。」 しかしながら、合意は実質的には6月16日以来、既に準備が出来ていたのだ。ドン・ジェラールは7月8日付けで教皇に対し「使徒的命令もなく授けられた司教聖別の承認により公教会から離れるというどんな見解にも私たちは反対します。」 と書きさえした。すると7月29日になって、ル・バルーの修道院は、ドン・ジェラールが言った“公教会の可視的防御線”内に統合された。ルフェーブル大司教は、自分がこれまで非常に多くを提供してきた人物によるこの離反に泣いた。

 彼は、自分に対する破門制裁の教令と、ヨハネ・パウロ2世による自発教令エクレジア・デイ・アドフリクタ【Ecclesia Dei Adflicta:苦しむ天主の教会】との後で、司祭15名と神学生15名とが聖ピオ十世会を離れたことよりも、ほとんどもっとドン・ジェラールの背反に動揺した。

 教皇は、ローマにおいて、7月5日と6日に、ヨーゼフ・ビズィーク神父および7名の司祭と会見し、新生の司祭兄弟会を創立すると言う彼らの計画を喜んで受け入れた。これはフリブール近くの、オートリーヴに建つシトー会の大修道院にて7月18日に結成された。彼らの公式発表に拠れば、会創立の構成員たちは、教会法に基づいてビズィーク神父を総長に、フランス人ドゥニ・クワッフェ(Denis Coiffet)神父と、スイス人ガブリエル・ボマン(Gabriel Baumann)神父を総長補佐に選任した。彼らは全員、元聖ピオ十世会の会員であった。

 聖ペトロ会は、ル・バルーやその他の会と同じく、司祭及び修道者も同様に、エクレジア・デイ教皇庁立委員会に従属する。これは「自らの霊的かつ典礼的な聖伝を保ちながらも、カトリック教会の中でペトロの後継者との一致に留まりたいと願う司祭たち、その他の、まったき教会的交わりを助ける」 ために、この自発教令【モートゥー・プロプリオ】によって用意された。これは、信仰の問題、信仰のための戦いという問題というよりは、むしろ【新旧の霊性及び典礼に対する‐訳者】嗜好、つまり好みの問題であった。

 「ラテン語典礼の聖伝に結ばれていると感じる者全て」のために、ヨハネ・パウロ2世は1984年10月3日に発行した特別許可の、「広く寛容な適用」を司教たちに奨励した。こうして、特殊な宗教的感性を持つ人々に対する司教たちの不安定で射倖的な寛容さの範囲内で、特別許可ミサによる支配体制が固められたのである。


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