見事な宣教区
ンジョレはかつて、まさに人口過密な街だった。この宣教区が1898年に設立された時、5万人以上というパウワン族の人々がこの地の周辺に生活していたのだ。この数字も、殊に材木業がありとあらゆる村の住民を引き寄せて沿岸地方及びオグウェ川の下流域に移り住ませたために、悲劇的な減少を遂げた。しかし、ンジョレの地理的な位置は興味深いままに残った。そこは、オグウェ川を遡って航行する蒸気船の終点であり、ミズィクやオイェム、さらにカメルーンなどに向う道がそこから始まっていたからだ。
聖ミカエル宣教区(ミッション・サン・ミシェル)は、このオグウェ川の左岸にある丘の上高くに設置されていた 。つまり、川の右岸にあるンジョレの村の中心地からやや上流に上った所の対岸にあった。
サン・ミシェルは、対岸のサン・ベヌワ(聖ベネディクト)村へ渡し舟で渡るオグウェ川と、二本の小さい川、サモリ(Samory)の中州の後ろでオグウェ川と各々が上流と下流で繋がる二つの支流、との間に挟まれていた。
聖霊司祭修道会の大きな建物が、二段になった土地の上に建っており、側面にはかの大河を一望出来る美しいテラスに面した涼しい回廊が配置されてあった。すぐそばには、ヨーロッパからの樅の木材を用いて建てられた最初の教会があったが、二番の教会のために放棄されなければならなかった。
修道士と見習者たちは、レンガを専門に扱いつつ、見て分かる華麗な骨組みや鐘楼などを考案して、二番目となる聖ミカエル【に献堂された‐訳者】教会を建てた。その壁の高さで印象的な建物には、信徒1千人を収容する事が出来たのである。この教会建設は、その煉瓦造りの鐘塔の感性を持って、ジョゼフ・プティプレ(Joseph Petitprez)神父によってちょうど終了していたところであった。しかしこの作業で疲労困憊した彼はパリに帰国して1931年に亡くなっている。
教会の周りには、男児寄宿舎と小学校が司祭の家近くにあり 、修道女たちの住居近くには、女児寄宿舎と馬小屋があった。そこには巡回宣教師兼医師のグレモ(Grémeau)神父によって創立された修道女経営の健康診療所もあった。
日常の勤めと食料生産の農作物は、油を取るための椰子の木、マニョック(キャッサバ)芋、バナナ、パイナップル、オレンジ、サトウキビ、コーヒー、ココア、バニラなどだった。これらが、宣教区が存続し、労働力である生徒たち を忙しく保つのを可能としてくれた。この他にも、レンガ工場と大工工作室には、やらなければならない作業があったのだ。
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