トロルお爺の”Satoyaman”林住記

生物生産緑地にて里山栗栄太が記す尻まくりワールド戯作帳

二点位置流・昆虫すこいぜ「ウラギンシジミかぁ⁉初見」

2023-02-24 | 小父のお隣さん
 ツツジを移植するために整枝剪定し掘り上げるためにスコップと金梃子で大汗をかいている所に飛来して切断してある太枝に止まったのは裏側一面、銀白色のチョウだった。小生は「ウラギンシジミ」と見立てたのだけれど翅表を撮影できなければ確認できない。
 まあ、それはそうでも「初見」の対象なので翅裏だけの撮影で終わった。ところがこの個体、小生が株を掘りあげたくて根回りにスコップを踏み込んで押し上げ、金梃子を押し込んで押し上げギシギシブツブツ言わせているのに飛び立とうともしない。飛来の仕方が弱っている風にも見えなかったし翅も傷んでいる訳でも無かったのに不思議だった。
 とは言え我田引水・手前味噌で解釈すれば「ご褒美!」だったに違いない。「何時まで休んでいるのか⁉」と思いつつギシギシブツブツさせているうちに姿が分からなくなった。撮影できているから耄碌して無いものを見た訳では無くて一見楽着・・・。

 

この未知はやっと来た道「生物生産緑地」抄 2/3

2023-02-24 | 今日は真面目に
 二昔も前に里山栗栄太と自称し「こうあるべき」と考えた里山の現代的モデルを築くための作業を続けて来たのだが、その中核となる考え方のまとまりは無かったにせよ部分的な復旧・補修を積み重ねてきた結果で今のフイールドの実態がある。
 ゆえに「部分最適化」をもってして「全体最適化」を図ると言うベクトルは内在していたと考えても良く、それゆえに「動的平衡」の考え方も理解し易かったのだろう。

 生体に例えれば細胞レベルから各々の機能を持った臓器レベルへ発展し結果的に総体として具現化する。この関係性は「植生モザイク」と「環境パッチワーク」の二本柱として意識化されたと言って良い。
 福岡伸一氏の「動的平衡論」を知った事で確信が持て「里山は生命体として捉えられる」と認識し、それは「福祉活動」との類似性に気づかされる下地となった。その芽生えはペンネーム「里山栗栄太」にあっただろうと今に想うけれど里山保全活動を行う人を「satoyaman」と呼びならわしても良いような気がしてきた。

 さて「生物生産緑地としての里山保全活動」についてはその体系に言及しなければならないのだが悪くすれば寄せ集めのフランケンシュタインになるともならないとも限らない。とは言えフイールドそのものが評価を下すはずなので作業は粛々と継続していれば結果は一次消費者、二次消費者、食物連鎖の頂点生物等で確認できるはずである。
 とは言え一朝一夕に達成できるものでも無いから時間的・空間的連続体として四次元活動としての認識は必須だ。これが伴わないとビジョンはありえないし部分最適化を施しつつ全体最適化を達成する道筋は見えてこない。

 前述した三要素「水域・草地・森林」等々への労作は基本的なものが備わっていれば十分であると認識しているがその中で特別に留意し認識を新たにしなくてはならないのが「刈り払い作業」と「森林構成樹」である。特に「刈り払い作業」は手軽に行える作業であるがゆえにその環境破壊力は無視できない。作業の多くは作業者のほとんどは「農地・宅地・グランド」の作業と一緒くたであって「生物保全」の一環での作業であると言う認識・実態は伴わない事がほとんどで通常は「坊主刈り」命で「高刈り」や「選択的刈り払い」はまず選択肢には入ってこない。
 低草である種、クローバーやオオバコ、オオイヌノフグリ、在来種タンポポ、ツマキチョウの食草イヌガラシなどは刈り払わずに済む高さだが容赦はないのが刈り払い機を使う暴力である。

 これは受け入れに当たっての指導教育の不足もあるけれど当事者の不勉強も大きく「刈り払い=保全」と観念的に認識理解しているのだろう。と言う事は「生物保全」について何も学びが「無い」とも関心も「無い」とも言える。そうであるからこそ、その現場を見れば「刈り払い=唖然・茫然・愕然」と小生はなってしまうのである。
 そもそも「刈り払い」ではなく「刈り」はあるけれど「払う」の段階は現場合わせで多様かつ動的でもある事を認識しえない。見た目には「刈って」いるように見えても「育成」でもあり「保護」でもあり「根絶」行為でもあるのだ。刈り刃が刈り取る先は常にコントロール下に置くのであって、ただ坊主刈りするのでは環境破壊である。

 「刈り払ってしまう」そこには「草本は環境や生物保全の基盤である」という認識では無く小生の体験則で申せば「茫茫が綺麗さっぱりした」で帰結している。確かに刈り払われた範囲は「茫茫」もなく清潔な「五分刈頭」様に見えるけれど植物・生物的廃墟でしかない。これを認識してもらうのは至難なのだから植物・生物双方にとって「死なん」となってしまう現実が赤裸々となる。
 小生の活動フイールドに於いて「全面刈り払い」あるいは「全草刈り払い」が必要だったのはネザサやクズ・ススキの藪と化していた入域活動初期だけであって、その後は植生環境や種の変遷・変化に応じた「根絶やし」やら「抑制刈り」やら「高刈り」やら「選択刈り」あるいは「ほったらかし」やら「播種」「補植」「育成」「補正」までもを包括させる必要があった。そこには「茫茫でみっともない」ではない「住まいと食事を提供する」視点で植生環境を整えなければ「生物多様性」などは絵にかいた餅でしかないしスローガンや観念だけでは食物連鎖は成り立たない。
 端的に言えば「草の刈り方に多様性」は必須で、これで欠く事の出来ない「基盤生産者」である健全な植生が維持されよう。この内容は行政専門職でも機関でも連携を含め実学・実務・実業に欠けているケースが多いと言わざるを得ない。

 さて水域に目を向ければ今でこそ棚田6段分に水域を連ねているが放棄されて久しかった当時の棚は葦とクズに覆われた下はV字侵食溝が何本も走り刈り払ってから土嚢を積み重ね棚の復旧と水域の創出が急務だった。棚の補修や復元が終了し湛水部を設える段階では入域者の誰彼となく「田圃ですか⁉」と問われたものだ。
 一般認識としては浅い水域は田圃にしか見えなかったのだろうし会友でさえ「田圃」の認識から脱しえないでいるのが現状なのである。
 しかしこの水域、水深は敢て浅くし「泥水池」と呼称しているが、これを設えた事でカエルを呼びトンボを呼び、捕食者を呼び込んだのであって、その意味からでも草地と水域は密接な結びつきがあり、どちらが欠けても生態系保全には差し支えるはずである。
 このような考えでエコトーンや水際の草地は大事にしていても「鬱蒼茫茫」感覚が世の倣い、植生など雑草扱いなので他の手が入ると無残な結果となり、回復できずにそのシーズンは終わってしまう。緑地は植生は「生物生産の基盤である」との認識を持ってもらうのは今のところ不可能である。つまり「生物多様性の促進」や「食物連鎖の安定」等々は根底から損なわされ続けると言って良い。
 結局は荒廃も好環境も人為的にもたらされるのである。それだけに公や民間を問わず教育制度は必要であろう。