トロルお爺の”Satoyaman”林住記

生物生産緑地にて里山栗栄太が記す尻まくりワールド戯作帳

二点位置流・昆虫すこいぜ「キタテハ、ルリタテハ、モンキチョウ初見!」

2023-02-23 | 小父のお隣さん
 S先生が時折漏らす言葉「ここはいいねえ、待っていれば現れる」その言葉通りに今日も陽だまりで四方山話をしている間に3種のチョウを確認できた。最初は黒い影が飛んだのを小生が気付いたのだが当然種の判断は出来ず。次はキタテハが舞ってノアザミの囲い近くに降りたけれど撮影できなくて飛び立ってトンボ池の向こう側でようやく撮影出来たけれどピントが甘い。
 これは前回撮影したモズのはやにえがピンボケしていたから接写モードで取り直した結果の不始末だ。でもまあ、種の確認は出来る。そのあとに再び黒い影が飛んできて倒木に降りたのがルリタテハだった。最初に観た「黒いチョウ」はルリタテハだったに違いない。

 3人で話していた頭上を結構早めに上昇し尾根の木々に隠れたチョウは黒い面積が大きく見えた黄色のチョウだった。小生は「キタキチョウではない」のはすぐに理解できたが次が出てこない。S先生は飛翔の仕方で「キタキチョウより高速だし紋も大きいからモンキチョウ」と判断された。見送っただけだから撮影は出来なかった
 普段、見る機会の多いモンシロチョウにしろモンキチョウにしろ飛翔体ともなれば判断できない小生が存在していたが、これは認知症の所見では決してないと病識の無い小生は断言できる・・・。

                    

この未知はやっと来た道「生物生産緑地」抄 1/3

2023-02-23 | 今日は真面目に
 この日、予報通り深夜から降雨になって丑三つ時に用を足し寝付けるかと思いきや長らくモヤモヤしている霧が出てきて遂には「まとめる!」しかないの気分になってしまった。朝まで起稿していても日中も降雨のままだから眠たければ眠れるから「いいやっ!」とばかりPCにむかったのだ。こう言う点では姥捨て山の住人は自由人なのだった。まあ、社会的にも世間的にも点でしかないが「てやんでい!」で済まそう。そう、孤爺は寛大・寛容なのである。 

 ここからが本題、さて里山の残念な現状は里山と生活が密接に相互に支え合ってきた歴史的関係性を失った結果だと言われてもいる。しかるに荒れた里山の回復を目指そうにも生活とのきずなが失われた現在では新たな視点と活動が必須である。しかしながら「放置竹林整備」とか「クヌギ・コナラの植栽」とか「刈り払い」等々の部分最適化手法以上には進まず留まっているように見え、包括的かつ具体的な指針となるような全体最適化を図る手立て・教本は手にする事が出来なかった。しかしながら資料なぞあったところで資料が世話を焼く訳も無い。

 そんな事を朧に思いつつ小さなフイールドで活動を続けてきた結果、「この環境下に於いて」との制約はあるにしても自分なりの方途とも言うべき概念が具体化して来た。それは「生物生産緑地としての里山保全活動」に他ならない。それを体系化するほどの能力は無いにしても考え方の縄筋を書き留める事で姿かたちを露わに出来るはずであると、斯様に考え思い浮かぶままに誤理霧中でも彷徨しようと深夜、小用に起きた折り眠れぬままに発心したのだった。

 それが適切な道程だったのかどうかはフイールドの実態、よく耳目にする生物・植物多様性や食物連鎖の成立などで評価できるはずだ。そう考え2022年に「確認生物種による生物多様性の現状報告」として図版にまとめ、県と市の担当部署に提出したのだがまあ、我田引水・自己満足の際物であるかも知れないのだがそれは別建てである。草本類に関しては別団体が委託事業で「植生調査」を行っておりネットで閲覧できるようになっているのでそちらに譲る。

 さて環境保全、その中でも生物保全に軸を置いての三要素として考えたのは「水域・草地・森林」で、これは幸いにして得られたフイールド環境なのであるけれど場所によっては「水域のみ」や「草地のみ」あるいは「森林」だけというように構成要素にも多様性はあるはずで、そのバランスによっても斟酌は当然異なってくるだろう。一方、福祉の概念は人間社会から「動物福祉」まで広がりつつあるが更に広げペットではない野生動植物に対しての「環境福祉」という様な視点も有意義で必要なのだと思えてきた。そういう諸々がごった煮の如く霧の流れる如き濃淡で現れるのだ。

 「福祉」の項を紐解くと「消極的には生命の危急からの救い」で「積極的には生命の繁栄」とあったから環境保全を包括する概念としても間違いは無いと思われる。人間社会での福祉施策の一つに「コロニー」があったがノーマライゼーション(通常化)の考え方が浸透するに従い廃れて来たけれど里山保全活動等においてはこの「コロニー化」は生き残っており「単一樹種の一斉植栽」や逆に「植生一掃」してしまう「全面刈り払い」や「全伐採」は普通に行われている。
 特に刈り払い作業においては業者もボランティアも「農地や宅地・公園」のやり方そのままを疑問も無く踏襲する現状は草本が「基盤生産者」であると言う認識を欠いおり「丸坊主」では保全活動とは異質で、ここを何とかしないと「環境テロ」や「生物的廃墟」を日常的に強いる当事者になっているだけである。樹木は植えるけれど草地は刈り払う、のではやらない方がマシである。

 要は里山保全活動においても「福祉」という概念は使えるはずで強いて言えば種の多様性維持や生態系保全でも「ノーマライゼーション(通常化)」は必須なのであるが、既に生活との結びつきが望めない中での里山保全活動でも小生のフイールドで言えば「生態系保全」で、現代に合わせた「通常化」をどうすれば良いのかという指南書はかなしいかな小生は知らないのであったものの経験則からビジョン・コンセプトは「生物生産緑地化」で「良い」としたのであった。

 別の言い方をすれば「食住をつつがなく用意する」事であり「生物の食料自給率100%以上」が望ましい。そしてそのための過程は「修復」でもあり「創出」でもあると思っている。
 別の視点から言えば「種のるつぼ」ではないが構成動植物のグローバル化が指摘される今日であっても無くても動植物の移動流入・生命必衰は理でもあり、その栄枯盛衰の過程において偏移も変遷も営みに過ぎず、それらを包括しつつ均衡を保って行けるように配慮・整備しつつ「豊かな里山環境」を達成するのが小生の役割だと判断した。
 概念として福岡伸一氏の「動的平衡」論は里山保全活動における小生の生態系保全に対する考え方に寄与するところが多かったと思っているしこれからも下地としてお世話になるだろう。小生はペンネームを「里山栗栄太」としたのは随分と昔の事だが里山保全活動を行う人たちの一般的呼称を考えると「satoyama」に「ist」か「er」を付け足して「~する人」の意味を持たせた造語を妄想中なのだが語学力が無くて「もう、よそう…」中でもある。
 まあ、これは「負うた子に教えられ」るしかないのだろう。