トロルお爺の”Satoyaman”林住記

生物生産緑地にて里山栗栄太が記す尻まくりワールド戯作帳

卵塊を移動させる

2023-02-25 | 小父のお隣さん
 水域には違いないけれど棚田部からの落込みの溜まりにニホンアカガエルが産卵して4卵塊あった。まだ降雨量は少ないものの降雨の日がポチポチ訪れるようになったので流失する恐れのある場所から上棚の二つ池に移動させた。ついでに棚田部のオーバーフロー部近くまで流されて来た卵塊も移動させて被害を押さえるようにしてきた。

 今期は105卵塊を数え、改めて再度のカウントは試みなかったけれど過去最大数となったと言えど流亡させたくはないのである。まあ、客観的かつ俯瞰的に判断すれば「自然の営みに任せる」度量も必要だと思いつつ、ついついバケツ片手に水辺に立ち寄ってしまうのだ。これは「優しい」行為でもなんでもなく食物連鎖の食料増産の手立てであるから「鬼!悪魔‼鬼畜!」と何を言われようとも甘んじて受けよう。


この未知はやっと来た道「生物生産緑地」抄 3/3

2023-02-25 | 今日は真面目に
 三要素の一つとした「森林」については木本と狭義で言い換えても良いと思うけれど時間軸を含めた四次元構造の中では一番安定を見せている要素でもある。しかしながらそれだけに整えるには十年単位を要し失うのは早いとの両極端は別格でもある。
 よく耳目に達する「放置竹林」に代表される笹竹類の席巻と荒廃、間伐の不足による環境悪化、薪炭林としての役割を消失した里山の病害虫の蔓延と奥山の動物の侵出被害等々枚挙にいとまは無い様に見える。それでも「雨だれ石を穿つ」の諺通り、粛々と手入れを続けていけば目的は達成されるはずと信じてやまない。
 「森づくり」とは一言で片付けられない内容を含んでいるのがそこにかかわる作業で除伐ともなれば大きなリスクを伴う作業となるけれど病木や立ち枯れ木、あるいは間伐にしても健康な森づくりには欠かせない作業でもある。単純化すれば林床に光を届けつつ下草を涵養しつつ一斉植林でスギやヒノキだけになってしまった単純林に広葉樹を育て混交林とすることにより生物の多様性も食物連鎖も健全になっていくと言って良いだろう。この点はすでに定着した概念とみて良い

 素人ながら活動を積み重ねてきた中での結晶は「植生モザイク」と「環境パッチワーク」の二本柱であった。草本・木本とも種によっては周囲より優勢になる傾向もあり反対に衰退していく種もあるけれど基本的にはそのフイールドに適した一般的には「在来種」という表現が使い慣れているものの、既にその土地に根差した「在来種」だけに拘っていては成り立たない時代になっていると考えている。奥山ならいざ知らず現代の里山では在来種以外の草本木本が人為的にもたらされ種も多様になった環境であると言えるだろうし、それは草本木本に限らず地上の動物や飛来する生物も同じことである。故に防ぎけれなかった、防ごうとしなかった現実を無視しての綺麗ごとでは用をなさない。
 鳥類を例にとればリュウキュウサンショウクイは冬季でも留まっているしガビチョウやソウシチョウはすでに定住状態なのであり哺乳類ではハクビシンやアライグマは珍しくもないし、グローバル化と言っても良いだろう。。

 さて「植生モザイク」は読んで字の通り多様な植物種で混成する表意だが端的には植物同士の折り合いをコントロールしながら構成維持していく状態と言って良い。既にフイールドには「引っ付き虫類」で言えばアメリカセンダングサやヌスビトハギなどうっとおしいほど繁殖してきたのだが種子の熟す前に高刈りすれば抑制できるものの既にこの種子を食料としている種もいる。
 ワルナスビなどのように根こそぎ根絶対象もあるけれど大半は抑制、放任、育成等々の対応になる。強いて言うならば草叢の創出でもあるが、あの「動的平衡」理論には大いに感じるところがあるのが小生の里山世界での活動印象である。
 管理上、刈り払い機は使うが蜜や花粉、果実など食料を生産してくれる草本木本などは残し点在させてきた。クロマツやアカマツは病失したけれどテーダ松は生き残り種子散布があるのでハルゼミの生息圏を維持するためにもテーダ松の実生苗も点在育成させてきた。テーダ松のように外来種であっても既に依存しなくては成り立たない生物種も存在するのである。環境保全へのサポートは有難いものの、中にはナチのユダヤ排斥とかアカ狩りに類する様な言動もあるように思えてならない。犯人に仕立て上げられる動植物が哀れだし依存するようになった動植物は消え去るしかない。

 さて活動の中では当然、移植・定植・補植等も行うし根絶作業も終わる事が無いのだが、その中で動植物のおわします環境は動的平衡を持ち出すまでも無く相互の関係性の中で落ち着こうとしているはずなのだ。
 「環境パッチワーク」は水域や草地、森林等のまとまりをそれぞれ一つのパッチとして考え組み合わせ構成していく考えで、どちらも環境保全や生物保全、もっと焦点を絞れば生物多様性の維持のため、生態系保全のための考え方・試みと言って良いはずだ。大規模面積で観れば「水域・草本植生・森林」等々もパッチでありモザイクの構成域でもある。草本木本に限らず種の保全と繁栄のためには斯様な考え方と行動で少なくとも我が小フイールドは現状になった。

 これを打ち始めた丑三つ時は予報通り降雨になっていて夜が明けてもフイールド作業は行う事が出来ない。「しからば…」と昼間に眠くなれば寝れば良いと小用の後から一気に三稿打ち上げた。多少は原稿をプリントし読み返したものの頭部の「ボーッ」は出たままなので校正は用をなさない模様だ。
 原稿文字数も各項千字程度と見込んでの起稿だったのだが結果的には倍増してしまった。ダジャレも入ったりして「隠すより現る」の体を見せている。しかしながら草稿したことに由りも胸中のモヤモヤは晴れ、その点ではよかったのだ。

「草刈りの重要性とその多様な形態は必須」それにより「植生モザイク」を促進する事を得、組み合わせて「環境パッチワーク」を為す事で「生物生産緑地」化が達成される。それにより「生物の多様性と生態系の保証」が可能になるはずである、とまあ、こういう論法になるのだろう。
 それらを包括し支える考え方背景が「環境福祉」であり「動的平衡」なのだと言い切って我が胸中は平穏になったのだが丑三つ時から食事以外はPC前に鎮座していた長い時間は「年寄りの冷や水」の可能性もある。合わせて言えば「腰痛で冷湿布」も伴った。
 とは言え、斯様な活動をする小生を称して「satoyaman」と自称する事で自ら「いい子いい子」をしたのであり満足満足…。

 考えるまでも無く里山の時間軸はsatoyamanよりは圧倒的に長い。フイールドでの活動など「邯鄲の夢」に等しくかつ「うたかた」でもある。全ては「色即是空 空即是色」と言え、活動出来ている時間など夢幻の如くにも同じだ。昨日今日明日、どういう姿を現してくれるのかは意図・目的をもって関わってはいるが眼前はガシャポンに等しく「年年歳歳 花相似たり 歳歳年年 人同じからず」と詠まれても眼前の光景は霧の濃淡の一コマに過ぎない。灯篭に斧、立ち枯れにチェーンソーとてだーれも知らない姥捨て山の時はかくして留まることなく続き、後は野となる藪と成る。かように植生は健気でたくましく怖ろしい。

 さてさて斯様な起稿と投稿はまあ、後々ブログの恥であっても憚る事も無い姥捨て山の孤老、丑三つ時の眠れぬ手慰みになったのだが耄碌した身には脳内疲労物質が溜まる。粉末茶でも頂いて一服すべぇ、でも茶菓子が無い!まあ、茶化してみても茶菓子は出ない、とエチゴデハソウモウシマシタトサ。(カタカナの部分、小生の記憶ではエチゴサッテモウシタモウシタなのだが、どうでもいいか・・・うん、どうでも良い)。