「菜の葉に止まれ云々」は春の状景だけれど「枯葉に止まれ」では情感も何もない。しかし「枯葉よー枯葉よー」と歌えばガールハントは七分通り成功する確率はある。枯葉も枯れ木の風情は捨てたものでは無いのだが姥捨て山の枯葉マークはいただけない、そうだ!。
季節感満載の何時もの日向ぼっこスポットで四方山話をしていたらチョウが着地した。「ウラギンシジミ!」と指示されたけれど認識出来ない。ようやく解ったのは判らなかった理由である。小生はウラギンシジミのオスばかりしか記憶になかったのでメスの色彩が認識できなかった。つまりは初めて見たウラギンシジミのメス、と言っても良い。押しなべて、とは必ずしも言えないもののトンボやチョウの場合メスの方が地味作りのように感じるし、その分目立たないので記憶に留まるのも少なく短期記憶が敗退している適齢期では更に進行するのだろう。よくよく見れば裏も表も地味作りのメスである。
それと同じく、とは言いかねるがアカボシゴマダラの越冬幼虫も地味作りだ。目ざといシジュウカラなどの小鳥に捕食されないためにも環境に同化していたほうが生存率が高まるのは常識であるけれどアカボシゴマダラの越冬幼虫はどういう訳か二又部にその身を置く事が多いのだ。エノキの全体を探すまでも無く二又部だけ丹念に見ていけば発見の確率は高い。小生は食料調達のために探す訳でも無いのであるが小鳥の場合は厳しい冬期の生存に直結するから「二又部に多い」程度の認識は経験値として持つだろう。そんな訳でランダムな位置取りと定石通りとの比較ではどっちに軍配が当たるのかどうか…比較対象群が無いので判らんわい。しかし、こんな妄想をするようでは暇人であることは分かってしまうだろう。それはともかく今期のアカボシゴマダラの飛翔は少なめだった。