山津波白露のごとき命かな
今日もまた今日も鳴りますカネタタキ
此岸ゆえ地獄あちこち雨一過
海が曳き乾く間もなく山が圧す
泥田ゆえボウフラだけで材は無し
山津波白露のごとき命かな
今日もまた今日も鳴りますカネタタキ
此岸ゆえ地獄あちこち雨一過
海が曳き乾く間もなく山が圧す
泥田ゆえボウフラだけで材は無し
リンゴの枝が丸坊主になっていくのに耐えかねて、ようやく動かぬ足を進めた。何齢か、まだ赤茶色の幼虫がビッシリと葉裏に集合している時にガストーチで炙り、大部分は退治したのだが、その生き残りなのだ。名月の余韻も覚めやらぬ早朝に、野田野田と、いえノタノタと噴霧作業を実施した。
炙った時は、まだギプスの時だったから高い所は如何ともしがたかった。それでも散開しない時に退治すれば丸坊主にはならない。大抵は枝が坊主になってから気付くけれど、被害が拡大しないうちに退治しないと丸坊主になってしまうほどの大食漢なのである。一昨年は棚田の横にあるコナラが食害され丸坊主、おまけに棚田は糞で色が変わってしまった。
毎年発生するから注意はしているのだが、今年は後手後手である。別名「サクラケムシ」と言われるほどサクラに大発生するのだが、我が家は同じバラ科のリンゴの主要害虫である。サクラが食草とネットには載っていたが、フイールドではコナラやクヌギを丸坊主にしているのを良く見かける。ヤマザクラがあるのに、あえてサクラだけを選んでいる訳でもなさそうだ。
ケムシは好きではないが、特にこのケムシ「モンクロシャチホコ」の幼虫は嫌いだ。被害を受けていると言う事でなく、赤茶色幼虫の群生や終齢幼虫の黒い身体に黄色い体毛は生理的な不快感がある。いわゆる「悪の枢軸」という感じだ…。
庭の萩が遠めにも判る様になってきた。でも周囲は草茫々で草薮に等しい。それでも花数が出揃ってくると秋の到来を感ぜずにはいられない。
フイールドのヤマハギも花を満艦飾にして風に揺れているのだろう。今期は眺めることも出来ない身の上だ。庭の草薮から花枝を揺らせている萩も風情があるが、フイールドの身の丈3mに近い大萩の満開は声も出せないほどの悪党菅、でなくて圧倒感がある。
通院するのに車まで飛び石を伝い松葉杖で通るのだが、どうしても萩の枝先に触れる。その後はお決まりの様に腕がムズムズしてくるのだが、見れば必ず薄緑色のアブラムシがいる。枝先に群がっているから仕方あるまい。吸蜜用に植え込んだものだから殺虫剤も使えない。いや使いたくても自由が利かぬ身では無理な話である。
夢破るアオマツムシにクツワムシ
競う音に窓を閉じたり月の夜
今宵また嬉し恥ずかし虫の恋
一昨日、夜半に目覚めた。ちょうど月が南中の頃で、室内にも月光が差し込んでいる。窓の至近でアオマツムシが鳴いているのは毎度の事だが、その奥からクツワムシの鳴き声が聞こえてくる。今期、初聞きである。翌夜はスズムシの声が聞けた。これは居間の窓際にベッドを設えねばならなかった結果だ。二階では届かない。
鳴く虫ではクツワムシが一番鷹揚で、近接撮影を許してもらえるのだが、今期は姿を見る事もままならない。「婚期を逃した」いえ「今期は逃した」といわざるを得ない。鳴いているところへは、割合ラフに接近しても逃げることは稀だし、突然ライトを当ててカメラを近づけても鳴き続けている事が多い。まあ、ケータイのカメラでは綺麗に撮影は出来んが…。
会友に月例会の時に移した写真を送ってもらった。どこも草茫々の「兵どもの夢の跡」状態だ。普段というより不断が大切なのを写真をもって再認識した次第。とは言っても両手が開放されず移動もままならぬ身では思うこと事態が無駄な労力でもある。
写真1は南側より北方向、写真2は東から西方向を写したもので、全景の半分くらいは収まっている。一目見て「草茫々」は見ずとも承知の事実だが、生物の生息状況は写真では判らない。やはり自然の実態は現地でないと掴めないのだ。「トンボもメダカも多いですよ」と伝えられ、予測と一致しても実感はない。「そうだろう…」程度の実感なのだ。
茫々の中にも植栽した植物は良く育っているのが見て取れる。裸地だったところも野草が覆って、水辺の動植物の生息環境として好ましい雰囲気だ。松葉杖で佇む事が出来る気もするけれど、到着するまでに地表の植物に杖の先をとられると、転倒につながるから誘惑を抑えるのも一仕事!。それにしても「トンボ池」も「泥水地」も初シーズンで、視認せねばならない理由はたんとある。初シーズンは「一期一会」そのものなのだ。
餌となる昆虫を養殖するのに植えた水稲も手入れをしないのにしっかりした株になっている。穂が出揃った頃なので猪の被害はまだ受けていない。猪の被害を受ける前に現地を確認してみたいのだが、さてさて・・・・・。
ヒグラシの遠く聞こえて白む空その日暮らして夕もヒグラシ
明けぬ空ヒグラシ騒ぐひとときも光にかわりただ静かなり
この夏は庭でセミ鳴く事なきて動けぬ我が身聞き耳たてる
庭の樹は鳴かぬセミのみ立ち寄りて枝葉をたたき飛び去るを見る
「台風の直撃が有るやもしれぬ」と思い立って地に落ちている千成ホオヅキを拾い集め、ついでにシシトウも収穫した。松葉杖の身では、身を屈める事もならず地面に座り込んでの作業だった。
どちらも姿かたちは似ても似つかぬがナスやトマトと同じ科なのだ。シシトウは理解の範囲だけれど、ホオズキは苞にくるまれている分、同じ科とは思い難い。それでも苞を剥き取ればトマトに近い姿だし果肉の中の種子はナスやトマトのそれに似ている。
でもホオズキの味わいは特別の物がある。最近は食用ホオヅキ等も出回るようになったが、小生などの世代以前は畑仕事の合間に自生しているホウズキで喉の渇きや空腹を満たした現実があった。食用品種の苗が売られたり、レストランのメニューに入って報道されたりする事を散見するが、小生的には感慨も湧かない。野生種が好きだ。
「ほおづき市」で目にする赤いホオズキは、中の果肉を取り出し皮を膨らまし、音を出して遊べたものだが、小生は一回も音を出せた事がない。やっぱり賞味するほうが得意だ。
秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ 和泉式部
ほらふくは遺憾な色のガゼなれば民凍むばかりあはれなるらむ 被災地
風に散る花橘を袖に受けて君が御跡としのひつるかも 詠み人しらず
ガゼを吹く華々しさを真に受けて君が吹き跡知ってつるかめ 社員
あな醜く賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似る 大伴旅人
あな醜く笠しらじらし唾飛ばす人をよく見ば猿や鴨似る 有権者
庭の山椒が丸坊主に近い。部屋からも裸になった枝にアゲハの幼虫がいるのが見える。親蝶の産卵行動は毎日の様に見るし、さすがに背丈ほどの山椒もギブアップだ。それでも親蝶は僅かな枝先の小葉にも産卵してゆく。
あろうことか見た目には緑の幼虫にさえ産卵体勢で寄るのだが、さすがに産卵はしない。そんな事だらけで裸同然でも幼虫のそれぞれの段階が見れる。立位が安定すればジックリと撮影もするのだが大転倒を起こしやすい体勢は避けたいから、そそくさと撮影してお仕舞いにする。
それでも脚には蚊が群がってきて、結局は部屋に戻って「痒み止め」のお世話になる。立位をするとパンパンに腫れてしまう足首は掻いて傷つける訳にはいかないのだ。
それはともかく、山椒は葉をすっかり食べつくされてしまうし、結果としてそこに住む幼虫も命を失うのだろうが、そこへ産卵し次代を託す母蝶も哀れだ。食草として山椒を植えた小生にもいくばくかの罪はあるのだろう。見ていて移してやれないこの身もストレスだが、人間世界にも現在進行形として周知の情景だ。
窓開けて涼み寝しなのカネタタキ
熱帯夜そぞろ歩きのうるさ声
夜風入る寝床で聞きしアベマリア
松葉杖脚なしバッタのごときなり
照り返す暑き肩肌石畳
数年前の肋骨骨折で仰臥位を取れなかった期間、ラジオの深夜放送が夜を過ごす一助だっ たが、アキレス腱を損傷して運動不足に陥ってる現在は、浅い睡眠で夜を過ごす羽目になり、再び深夜放送が夜の友になってしまった。
耳を澄ませて聞いている訳ではないけれど、睡眠誘導材としてはアンカーの個性もたぶん影響がある。BGMとして耳障りにならない日もあればCDやMDに切り替えざるを得ない日もある。ゲストのインタビューや話者もそうだが、覚醒して終わりまで聞いてしまう内容もあれば、スピーカーから流れてくるだけでうっとおしい感じを受けるものまで様々だ。
番組の柱にもなっている音楽の時間も、音楽であっても睡眠誘導材として有効ではない。体験的にジャズ、ロックなどはマイナス要因だ。若い頃好きだった西部劇の映画音楽も耳障りの点数が高くなる。曲は決して嫌いではないのだが、感覚的に齟齬がある。これは意外だった。
まだ蒸し暑い夜もあるから窓を開けるのだが、庭木から鳴り響くアオマツムシの甲高い鳴き声は睡眠障害材として一等だ。情緒のかけらも一片の風情もない。日本の秋には不必要な雑音としてしか聞こえない。放射能の除去が終了したらアオマツムシの除去を新総理に期待したい。それより小鳩かなあ・・・・。なんちゃって!