昨日のロングホームルームの時間を少しいただいて、学年を集めて話をした。
まずは、体育祭で総合優勝した2年9組をみんなでたたえる。その後は、そろそろ気合いを入れて勉強もやっていこうという、いわばお説教。
志望大学が決まってないこと自体については焦る必要はないが、大学に行くということについては、もっと切実に考えた方がいい。
大学に行き、こういうことがやりたいと決まっている人は問題ない。
大学に行かずに何かやるべきことが決まった、自分の目標ができた、という人は行かなくてもいいと思う。
ただし、いま何も決まっていない、先のことはイメージできないというなら、なおさら大学は行った方がいい。
みなさんは、親目線でみると、ほんとにいいお子さんだ。みんなのお父さん、お母さんには、いい息子さんに育ってますねと言いたいくらいだ。
ただ、本気の親目線でみたとき、今の状態でそのまま社会に出て行くには、世の中という荒波にもまれるには、あまりにも丸腰すぎる気がする。
せっかく行かせてもらえるのだから、とりあえずしっかり勉強して大学にいき、人生の基礎をつくろう … 、的な話をした。
話しながら、大学というのは高次のコミュニケーション能力を養うには、ほどよく出来たシステムなのではないかと考えていた。
友達と会話する、家族や地域の人とうまくやっていくという、日常生活のコミュニケーション能力は、家庭や地域や高校までの学校でそれなりに学ぶことができる。
これについては、うちの生徒さんはけっこういいレベルに達している子も多い。
でも、ワンランク上のコミュニケーション、たとえば外国人と、思想や価値観のまったく異なる人と、過去の偉人と、異文化を生きる人と、この世に存在しないものと、といった日常生活をこえたレベルでのコミュニケーション能力は、大学に行くことによって高まる可能性が高いのではないかと。
ほかの場所もあるのかもしれないけど。
日常レベルでは得られない次元の経験を得られるのが、大学という非日常的な、ある意味世間から離れた空間ではないか。
ずっとそこにいられるわけではなく、そこで何を手に入れて、また娑婆にもどっていかねばならないのではあるが、青年時代のいっとき、4年なり6年なり、むき出しの世間とはちがう空気を吸うこと自体に意味があるのではないか。
だから、これはキムタツ先生も言っているからといって、「大学に入ったら家を出るのはいいことだ」という話もした。
とはいえ、このあたりに住んでいる子は、都内の大学ならだいたい自宅から通えるから、そんなことは考えてもいないという子の方が多いことは知っている。
自宅を出ると、生活費で親に迷惑をかけるから、と言う子もいる。
たしかに都内私大に通うことになって、さらに下宿はきびしいだろう。
田舎から東京に出てくる子は、みんなそうやっているんだけどね。
ほんとに、故郷にいる同世代の友人達をえらいと思う。どうやってやりくりしているんだろ。
それでも、とくに理系の子なんか、積極的に地方の国立大学を志望校として考えてみてほしいものだ。
ちなみに、自分が大学生活六年間を過ごした、金沢大学の泉学寮は、月の部屋代が300円だった。
それに光熱費や食費(夕食だけ出た)を月に1万5000円くらい払ってたかな。
さすがに今はこんな値段ではやってないだろうと思い、ネットで検索してみたら、なんと泉学寮のホームページがあるではないか。
部屋代は? 月額700円。倍以上になっているが、しかし7万円でも7千円でもない。
夕食は? 1食390円。100円アップしている。
じぇ、風呂が毎日入れる。昔は一日おきだったから、ない日はがまんするか銭湯だった。それはそれで楽しかったけど。じぇじぇー、各部屋に二つずつLAN完備!
時代も変わったものだ。
ひとつ言えるのは、自宅から都内に通う定期代ぐらいあれば、地方の国立大学なら最低限の暮らしはできるのではないかということだ。おそらく金沢大にかぎらないだろう。
あくまでもこれは一例で、いろんな方法はあるはずだ。
自宅から都内の大学に通う、というのが当然の前提になっているのは、この南関東一円に住んでいるかぎられた人たちだけなのだ。
固定観念を捨てると、いろんな過ごし方の可能性がみえる。
いちばん見ようとしないのが、親御さんだったりもするのだが。
大学生活のの意味は、浮き世離れすること、仙人のような暮らしを経験してみること、これじゃないかな。