水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

到達度テスト

2013年06月07日 | 日々のあれこれ

 センター試験の見直しが検討されているという。
 「センター試験という一発勝負の合否判定はよくない」「生徒の負担も大きい」という問題意識から話ははじまっているみたいだ。
 そのかわり、「到達度試験を年に何回か実施する、高校2年受験可」という案が浮上しているようだが、何のために、そうするのか、何のためにそう変えたいのか、現場教員としては、それがわからない。
 だめなの? 一発勝負じゃ。それって普通じゃね?
 たしかに問題そのものに疑問を抱くことがないわけではない。
 毎年、簡単になったり難しくなったり、同じレベルの問題をつくることさえできない先生方のお仕事ぶりには、もう少しなんとかならないものかと思うことはある。
 でも、システムとして今のセンター試験以上のものを新たに作るのは大変な手間がかかるし、逆に問題点もあるからこそ、いいシステムだとも言える。
 かりに、一人一人の能力を完璧に測るシステムが構築できたとしたら、どういうことになるか。
 「運良く」も、「たまたま」もなくなる。
 結果として、○○大学に入った人と、△△大学に入った人とでは、客観的に能力差が厳然とあることが可視化する。
 今以上にランキングが明確化するにちがいない。

 高校2年生から受験可能な「到達度テスト」は、それに受かれば、そのまま大学に進学する道も開けることを意味する。
 なんか、こういうことを考えている人たちって、オウム真理教的だな(おっと、不穏当な発言になりそうな雰囲気がただよってないか)。
 あの「宗教」に偏差値エリートたちがずいぶんたくさん「入信」し、核となって活動していたことは記憶に新しい。「教義」を学び、実践し、自らのステージをあげていく教団内のシステムが、偏差値エリートたちの心性にもマッチしていたのが原因だという分析をしていた方があったが、なるほどと思う。
 「到達度テスト」が実施されるとどうなるのか。
 身につけるべきだと設定された内容を学び、試験をクリアすれば、どんどん上のステージにあがっていくことができる。クリアできた生徒は、高校の最終学年をすごさなくていいという。
 これが、センター試験の代わりに想定されている「到達度テスト」のシステムだが、きわめて少ない要素のみを人間の価値に置き換えようとしている点で、オウム真理教的システムと似ているといってさしつかえないのではないか。

 到達度テストやってもいいと思う。
 高校生ならこれくらいは身につけよう、それがない人は卒業できないとか大学に進ませないとか、そんな目安はあっていいかもしれない。だとしたら、次のような項目を試験でチェックすべきだろう。

 元気よくあいさつできる
 電車に静かに乗れる
 部活に休まず出た
 部活をやめようかと悩んだことがある
 ノートを毎時間きちんととっている
 友達の相談にのってあげた
 おとなの人にあいさつできる
 敬語で話すべきときは話せる
 徹夜で本を読んでみた
 告って断られた
 突然学校をさぼって海を見にいってみた
 能年玲奈のファンクラブに入ってしまった
 突然チャリで秩父の奥までいってみた 
 すごい練習したのに銅賞に終わって号泣した
 やらないといけないと思いながら、悶々とした夏休みを送ってしまった

 古典演習の時間に、「連用形+なむ」の「なむ」は「強意+推量」、「未然形+なむ」の「なむ」は願望の終助詞、この二つの見分けって大事だよ、大学と名のつくところへ行きたいなら、最低限の知識だよ、と今日2クラスで力説してきたけど、上記の到達度チェックの方が、むしろ大事かもしれない。
 教育なんとか会議の先生方の発想とは、自分は考え方が異なる。
 あ、だから公立の先生になれなかったのか。

コメント (2)
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