若い先生の研究授業で指導案をみたら、けっこう未熟なもので、教科でちゃんと指導した方がいいよね、でも他教科のおれが口に出すのもどうかと思ってだまってた。授業のおしゃべり自体はそれなりにできていて、若いころのおれよりよほどしっかりしているから、まいいかなとも思う。
研究授業の指導案ってほんとに必要なのだろうか。
メモ用紙をもっていかなくてすむから、あっても邪魔にはならないけど。
ただ、教育実習生とかが、指導案を書くこと自体にけっこう時間をとられているのを見ると、むなしい気分におそわれる。
授業そのものの勉強はいくらしてもいいし、しないといけない。
かりに国語の実習生が来たとして、「山月記」を二週間寝ないで勉強し続けても、おれが今までにしてきた勉強量にはおいつかない。それは、そうだろう。歌ばかり歌っているように見えても、何十年かの蓄積はあるから。
多けりゃいいのか、というご意見があるかもしれないが、たぶん多い方がいいと思う。
われわれ凡人レベルにおいては。
基本的な勉強法としては、向山先生が提唱されていたように、教科書の見開き2頁で100の問題をつくってみるという作業は効果的だ。
なかなか100問はきびしいけど。
教科書をコピーして、大判のノートに貼り付け、問題をつくっていく。ほとんどすべての単語を辞書でひいてみる。いきづまったら立ち上がって歩きながら本文を音読する。
国語だと、こんな基礎作業をやれれば、少しは形になっていくだろう。
そういうのには、いくらでも時間をかけていい。
その結果、よし、「この発問をメインにしよう! というのが見つかったら、たぶん大丈夫。
それを指導案に書いてくれればいい。
「指導観」とか「教材観」とか「生徒観」とか、ほんとどうでもいい。
その授業で何をするか、なぜそれをするのか。
「何をするか」は授業見ればわかるから、「なぜそうするのか」は書いてあると興味深い。
心ある指導教官は、指導案書かせないわけにはいかないだろうから、形式的なとこはサクっとひな形を与えて書き込むだけにし、本質の部分を十分に時間かけて勉強できるようにしてあげたらいいんじゃないだろうか。
実習生の指導もまわってこない年になってしまったので、むなしく吠えてるみたいになってしまった(李徴かっ!)。