「怒り心党」の「新3大~」で「牛丼を食べる名シーン」があったなら、「モテキ」で麻生久美子さんが大盛りを平らげるシーンと、「箱入り」で夏帆ちゃんが食べながら泣き崩れるシーンの二つは、まちがいなく選ばれることだろう。
牛丼。
これほどシンボリックな役割をはたす食べ物が他にあるだろうか。
食費の節約のために毎日職場から家に戻って昼食を食べていた健太郎が、親とのいさかいでそれをしづらくなった時、彼が足が運んだのは吉野屋だった。
食べることにどの程度のお金と時間をかけるかは、その人の暮らしぶりを端的にイメージさせるし、この映画では、親から自立しようとする健太郎の第一歩が吉野屋だったとも言える。
健太郎に連れられて吉野屋に入る菜穂子は、初めての体験だ。
八歳で視力を失う病気になり、裕福な両親のもとで大事に育てられてきた菜穂子は、吉野屋を、いや牛丼という食べ物の存在を知らない。それほど世間から隔たって生きてきたのだ。
一瞬にして二人の立場をここまで表現してしまえる食べ物って、ちょっと他に思いつかない。
二人が勝手につきあいはじめたのをとがめられ、別れさせられたあと、菜穂子は一人で吉野屋に向かう。
ここで始めて菜穂子が白い杖をついて歩くシーンが描かれる。
本格的に街を一人で歩くのは初めてという設定なのだろうが、一人立ちさせることを考えないといけないことを父親も意識したのだろう。
健太郎と同じように、菜穂子にとっても、世界を広げていく第一歩が吉野屋だった。
泣きくずれる菜穂子のまわりには、「何なんだ、この娘は」と思いながら、かかわろうとしない客たちが席を埋めている。
これも、目の見えない女の子が街中に出てきたときの光景として象徴的だ。
社会への第一歩を踏み出そうとしながら、そのきっかけを作ってくれた人、一緒に歩むことを期待していた人がそばにいない切なさ。
これが号泣せずにいられようか。
「山月記」で、「月は何の象徴か」的話をこれからする予定だが、映画でも小説でも、具体物の果たす役割はほんとに大きい。
そんなこんなで、昨日の夕方、久しぶりに吉野屋行ったけど、おいしいっすね。
ていうか、公開二日目に行ったので、先着何名様にもらえるという牛丼並盛りサービス券がまだもらえたのです。
なんといい作品だろう。