学年だより「何のために」
~ 「やりたい仕事が見つからない」というのも、大学へ行く立派な理由だと思います。やりたい仕事があれば、大学に行かずに自分で始めればいいのです。でも、まだ見つけられていない人も多いでしょう。大学4年間は、それを探すためのモラトリアム期間と位置づけられます。大学でのさまざまな経験を通じて「自分はこういうことをやってみたい」というのが見えてくるんですね。 (木村達哉『大学合格キムタツ相談所』旺文社) ~
と、木村先生も述べているが、「さまざまな経験」を積むことが大事なのだろう。
大学時代の経験は、高校時代までのそれと何が異なるのか。
同世代の、同種の目標をもつ人々による、ある意味閉ざされた、純度の高い空間が高校だとすれば、あらゆる方向に開いていく可能性をもつのが大学だと言える。
もちろん、それは「可能性がある」ということであり、大学に入りさえすれば自然と何かが得られるものではない。
しかし当事者がその気にさえなれば、つまり何かをやってみよう、出会ってみようと思いさえすれば、その行いを遮ろうとする力は働かない。
だから、いろんな人と、いろんなものと出会うことができる。
人の経験の核となるのは「出会い」であり、学ぶとはコミュニケーションの「回路」をつくることである。
友達と会話する、家族や地域の人とうまくやっていくという、日常生活のコミュニケーション能力は、家庭や地域や高校までの学校でそれなりに学ぶことができる。
しかし、ワンランク上のコミュニケーションはどうか。
たとえば外国人と、思想や価値観のまったく異なる人と、過去の偉人と、異文化を生きる人と、この世に存在しないものと。
こういった日常生活の次元を越えたレベルでのコミュニケーションは、大学でこそ経験する可能性が高まるのだ。
それは、大学が非日常的な空間だからであろう。
世間の価値観や人とのしがらみから自由に生きられる場所だからだろう。
ずっとそこにいられるわけではなく、そこで何らかの異なる自分になり、再び娑婆にもどっていかねばならないのではあるが、青年時代の一時期、4年なり6年なり、あるいはそれ以上、むき出しの世間とはちがう空気を吸うこと自体に意味があるのだ。
だとすれば、何を学ぶためとか、資格をとるためとか、将来なんらかの仕事に就くためというような手段としての大学生活ではなく、そこに身を置くことが最優先の課題であるという、それ自体が目的としての大学生活を送ることが、最も大切だということになる。
ごめん、理屈っぽいよね。何しに行くんだろうとか考える前に、まず行こうということだ。
「迷わず行けよ! 行けばわかるさ」(byアントニオ猪木)