古典演習2、現代文1、古文1、ミーティング1、会議1の、まあまあ忙しい日なのに、ちゃんと教育実習生の研究授業を見にいく自分のなんと偉いことか。
でも行って、その堂々たる授業ぶりに感動してしまった。
そうか、遺伝の本質ってそういうことか、なんてこともわかった。
これは国語における「セントラルドグマ」だな、とすぐに使ってしまいそうな気がする。
言うことないっしょ。
そりゃあ、細かい技術の問題を指摘しようと思えば言えないことはないけど、そんなのは普通に勉強する姿勢さえあればどうにでもなる。
昼休み、彼が職員室内を歩き回って指導を受けている。
自分のところにも来たので、一言二言会話する。
すごいよかったよ。だめな点を指摘されたりした? 誰がどんなこと言ったの? へえぇ、そういうことね。そんな枝葉末節を言う人いるんだぁ、とかけっこう大きな声で言ってしまった自分は大人げなかっただろうか。
何より、生徒の顔をしっかり見て語っていたのがえらい。
それができない現役の先生は日本中に山ほどいる。
自分だって、予習不足で教室に入ってしまった時は、生徒さんの顔を見ないようにして、おどおどと進めてしまうから。
野球で言えば、とりあえず速い球が投げられるとか遠くへ飛ばせるとか、楽器なら普通に吹いたときの音色なんてのは、持って生まれた部分も大きくて、教員の仕事でもそういうのはあるような気がする。
生徒の前に立ってニコっとできるかどうかも、それに近いものかもしれない。
向山先生も、堀裕嗣先生も、笑顔になれることの大切さは第一レベルで設定されていたと思う。
それは教員の仕事が根本的に未来を目指しながら行われるものだからだろう。
性格自体は本当は暗くてもいいと思う。
明るさを装えるなら。
なんかあった時にとりあえず笑える自分に無理にでもなれるなら。
そういう人は先生やってていいと思うが、それができない人にはきびしい商売だろう。
あってない仕事についてる人もいるけどね。
たとえば飲食店で、この人はどう考えても接客にはむいてなくね?と思える人とか。
今日、堂々たる授業をくりひろげた実習生も、将来現場に立てば早い段階で壁にぶつかるとは思う。
それを乗り越えられる前向きさを感じられるところが、天性のものを感じた理由かもしれない。
もちろん天分が不足していても、この私めのようにわずかばかりの才能を専一に磨き、刻苦勉励することによって、ぎりぎり一人前に近づけることもありうる。何事もそうなのかしれない。