学年だより「野心」
「今でしょ」の林修先生が、テレビの「不良を相手に授業する」企画の中で、「努力は裏切らない」という言葉は正確ではないと述べられていた。
たんに努力するのではなく、「正しい方向で」「十分な量なされた」努力があってはじめて、裏切られないだけの結果になるのだと。
間違った努力は時間の無駄だし、不十分な量の努力はもはや努力と言いにくい。
量と大きさ。前にも一度書いたけど、努力をベクトル量としてとらえる必要がある。
ただし、今のみなさんに圧倒的に不足しているのが「量」であることも否めない。
今の太さや長さでは、目標のはるか手前でとぎれる→にしかなってない。
方向性はおそらくそんなに間違ってないが、勉強の技術もまだまだ身についてないと思う。
もっと「小手先の技術」のこだわりながら、量を増やしていこう。
そして、ベクトル量を大きくしようとする原動力になるもののチャージも必要だろう。
努力の原動力は、やはり「こうなりたい」「こんな人生を送りたい」「○○を手に入れたい」という欲望だ。もっと素直に欲望に向き合って、やるだけやってみようかという意気込みを、若いうちはもつべきだと思う。
自分のやりたいことがやれる大学を探すのもいいけど、実際問題、できるだけ難関校に入った方がかっこいいではないか。みんなも正直そう思ってないか。
ばかなことやってても、ばかふうに見えても、実は勉強できた方がふつうにかっこいい。
女の子も、現実問題としてそこはまちがいなく評価の対象にしているから。
いい大学に入ってやろう、将来金持ちになってやろう、いい女とつきあってやろうというのは、健全な欲望だ。それがわれわれ男子の行動の原動力だ。
~ 自分はこういう人生を送りたいという目標を決めたら、歯を食いしばってでも頑張ってみることです。野心が山登りだとすると、少し登り始めると、頂上がどんなに遠いかがわかってくる。少しタラッとするような場所まで来て、下を覗いてみると、登山口の駐車場ではみんなが無邪気にキャッキャッ楽しそうに群れている。でも、自分はぜったいその場所にはもう下りたくないと思う。自分はこの先、あの高いところまで登れるんだろうかという不安を常に抱えながら、ズルズルと下に落ちたくないから常に手を抜けない。
… 平地で遊んでいる人間には一生見えない美しい景色、野心を持って努力をした人間だけが知る幸福がそこにはあります。もちろん辛い試練だって待っているかもしれないけれど、野心という山を登ろうとする心の持ちようで、人生は必ず大きく変わってくる。チャレンジしたからこそ初めて手に入れることのできる、でっかい幸福が待っている。 (林真理子『野心のすすめ』講談社現代新書) ~
チャレンジした人にしか見えない世界がある。それを知らないまま一生を終えるのも、ある意味幸せではあろう。かりに結果は残せなくても、「こうなりたい」ともがき苦しんだ経験は、自分の「かっこよさ」をつくる源として蓄積される。