水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

21C:マドモアゼル モーツァルト

2013年06月16日 | 演奏会・映画など

  音楽座ミュージカル2013年前半の公演は、池袋芸術劇場。
 銀座に比べると圧倒的に近くてありがたい。開演の1時間前に学校を出られれば、なんとか間に合う。
 なので、昨日は16時半まで合奏してから向かったけど余裕だった。はじでいいからなるべく前方の席をとお願いしてあったら、はじめて最前列を経験させてもらえた。全体像はつかみにくいが、役者さんの息づかいが伝わる。
 ルテ銀に比べれば、芸術劇場のプレイハウスは最後列でも見やすいから、もう毎回ここでやってほしい。途中、宮崎祥子さんのセクシーなお姿も一瞬あり、おそらく間近で見るはずのMO高校のS先生はきっと鼻血だして失神するのではないかと思う。
 「21C:マドモアゼルモーツァルト」は、福山庸治氏の漫画作品を舞台化したもので、神童モーツァルトは実は女だったという設定で繰り広げられる。
 主人公のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、劇中「ヴォルフィ」とよばれることが多い。高1のとき、スポーツ少年団の交流で来日し、我が家に一週間ホームステイしていったヴォルフガング君を思い出してしまった。元気かなヴォルフィ。
 自分にとっての音楽座ミュージカルは、「泣かないで」であり「シャボン玉」であり、作品の素材が「和もの」であることが、惹きつけられる大きな一つ要因だ。「赤毛もの」とよばれる西洋人を日本人が演じるお芝居は、体質的に受け付けないから、楽しめるかどうかちょっと心配していたが、杞憂だった。
 モーツァルトは今でこそ音楽の神様のように扱われているけど、当時の人たちにとっては、けっこう困った存在であり、作品をどう評価すべきかについても、受け取り方はいろいろあったのだろう。
 100年後、200年後に作品がどういう扱いを受けるかなど、同時代に人にわかるはずはない。天才と称せられる人の作品ほどそういうものなのだろう。
 「実は~」というように、歴史の設定を換えることで既成概念をゆさぶって、物事を新しい視点で見直す。
 それが荒唐無稽なものであっても、正攻法の学問的・科学的アプローチでは不可能だったものが見えてくるものだ。そこにこそ人間の真実がみえかくれする。
 これこそ、学問、科学とは異なるエンタメの大きな役割の一つだろう。
 ミュージカル自体が「実は~」的存在だとも言える(え? 意味わかんないですか。自分もです。うまく言えそうになったらあらためて)。
 でも、なぜモーツァルト? という思いは心の底にはあった。それが氷塊したのは、最後のシーンだった。
 同じ時代、同じ場所を生きた多くの人たちの心をゆりうごかし、とくに身近で関わった人たちは、まさに翻弄させられて、35年の生涯をかけぬけていったモーツァルト。
 天に召されていく姿と、再び音楽の聖たちの中から立ち上がりスポットライトがあたるシーンは、「シャボン玉」や「泣かないで」「とってもゴースト」の最後のシーンと重なってみえてきた。
 そうか、音楽座さんが描こうとしているのは、これなのか。あまりにありきたりの言葉でしか言えないのがもどかしいが、それは「命」のありようだ。「命を大切に」とかいう道徳的メッセージではない。宇宙の中にある命そのもの。大人のミュージカルを観たいと思ってここへ足を運んでいるのは、まちがいではないと思えた。
 秋の公演は新作で、浅田次郎の「ラブレター」を作品化するという。楽しみでしょうがない。
 できれば今年も部員みんなと観に行きたい。

コメント (2)
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