今年の正月三が日を過ぎた翌早朝に「彼」が亡くなった。
昨年九月に体調を崩してから、獣医さんに様々な治療を施して頂いた。しかし次第にまっすぐ歩くことさえ困難になり転倒ばかりするようになり、支えながらの朝夕の散歩に加えて、深夜早朝に排泄で外へ連れて行く回数が増え、その都度妻と交互に外へ連れて行き、息子は自ら昼休憩時間には自宅へ戻って「彼」の世話をすると宣言し、夫婦での外出は控えてどちらかは家に居るようにした生活が4ヶ月続いていた。昨年末に娘家族が上京し、正月に恒例の家族の集合写真を撮り、前日に入浴、孫とも初めての散歩、前夜の食事も残さず食べ、排泄物もしっかりと済ませた数時間後の突然のお別れだった。
時間の経過と共に硬直して行く「彼」の亡骸であったが、いつものベッドの上での見慣れている寝姿なので、なかなか実感が湧かなかった。さらに自宅には「彼」を連想する様々なグッズがあるので目につく度に思い出し、朝晩のご飯の用意と散歩、出掛ける時の後ろめたさ、散歩用のビニール袋の確保、散歩後の浴槽のお湯と足拭きの準備などしみ込んでいた毎日の習慣の必要がないんだな~の日々を繰り返していた。数日後の火葬前夜に家族で「彼」の動画を観て、翌朝にペット霊園で火葬して、お骨と共に帰宅。小さな体がさらに小さな骨壺に収まると不思議と少しだけ気持ちの整理が出来た。
後日供花を頂いた獣医さんへ妻が挨拶に訪れた際、先生がじっと妻の顔を見つめながら「後悔はない?」と訊ねられ、妻ははっきりと「はい」と答えられたそうだが、最期の四ヶ月の介護を始め、飼育する際に家族の約束事で「ペットホテルに預けてまでは旅行へ行かない」は守って来たので、妻の「はい」は家族の全員総意でもあった気がする。ペットと別れた際に「こんな悲しむならもう二度と飼わない」と言う飼い主さんがいるが、悲しみはもちろんではあるものの、「彼」との散歩のおかげでそれまで通ることすらしなかった近所の知らない道をたくさん歩いたし、ご近所さんとも面識が出来たのは「彼」との散歩のおかげでなので、一緒に過ごした楽しい時間に感謝の気持ちの方が大きかった。小型犬の寿命である15年をきっちり全うし、2014年に手術をした以外は大病もなく、おむつをしたのは最期のわずか1、2ヶ月で実に潔い最期であった。私が歩むべき20年先をしっかりと示してくれたね。
「彼」が亡くなってから、妻と夜に出掛ける回数が増えた。気持ちを紛らわせる意味もあるのだが、その度に「彼」がくれた時間について二人で思い返している。そして昨日の四十九日。初七日では気持ちの整理を、四十九日には清らかな気持ちになるように、その区切りの期間にちゃんと意味があることを改めて実感した。ようやく少しずつストーブの前にいないことにも、予定のないひとりの休日にひっつきあって過ごせない生活にも慣れ始めて来たけど、換気扇の前で喫煙していると足元を鼻でつんつんされそうな気がするし、こたつの中に入ってる気もする・・・
Facebookでは数年前の今日の画像が表示されるのだが、非常に高い確率で「彼」が登場するのでほぼ毎日再会出来る。まだ気持ちの整理まで時間が掛かるだろうが、それは15年もの楽しかった時間をゆっくりと思い出せる素敵な時間でもあるので無理に整理することもないだろう。天国で視界良好な状態で元気にぴょんびょん走り回ってね。本当にどうも有難う。また会おうね。
まだ書いているだけで鼻の奥がつーんとするよ。