芥川は作家として完成するために自死をしたのではないか。
芥川は漱石門下として、大正5年に「鼻」「羅生門」を書いて世間に認められた。20代前半で文壇のトップになった、そして30歳の半ばに死ぬ。絶えずトップにいた芥川は「死まで平凡では済まされない」芸術的な自殺、書物的な自殺でなければならないとしたら。
多くの隣人や証人たちの芥川の死の理由を、清張は丹念に拾っている。
この著作は1964年11月から65年の1月までの「週刊文春」の連載なのである。
連載であるから、多角的な考察ができた理由であろう。
ともかく天才作家として、後世からも文句の出ない完成された自死を自ら創ったのではないか。
首吊りは排泄が汚いし、有島武郎のような情死も避けて、一時はプラトニックな関係の心中も画策したが、ついに女に逃げられて、結局、薬による自死を選んだのではないか。
芥川は養父・養母と伯母に育てられた。彼は自分の家庭を中流下層階級と言った。また養父は芥川の死後も戸主であった。
だからか、絶対に、他人に、他者に、文句を言われないように、そして自死が前提にあって「死ぬ為に死ぬ」。
そんな若くして認められた小説家の短い生き方に、大正ロマンの近代的な個人の自覚者が、昭和前期の全体主義の中で自己を封殺されていく戦争の時代を迎える前に、この世から旅立った運の良さをせめてもの一つの得として贈りたい。