すぐ近くに住んでいた私のすぐ上の姉の三回忌法要を無事に執り行った。
若くして都会に出て色んな仕事をする中で、良縁に恵まれ結婚もした。しかし、結果的に破局となりその後長いおひとりさま生活が続いていた。故郷に戻ってからも気が向くままの優雅な生活であったが、身寄りといえば私と妹、姪っ子などで、葬送などを仕切る親族には恵まれなかった。
2年前の急逝のときにも触れたが、文字通りの眠るがごとき往生で、周囲に何の迷惑も負担もかけない、まさしく一人で生きて、周囲の多くの人に見守られ可愛がられた挙句は、たった一人で静かに旅立った。最後の最後までおひとりさまを通した一生であったのかもしれない。そんなことを思いつつ、葬儀告別式、四十九日法要、納骨、新盆供養、一周忌そして三回忌法要という一連を、喪主という形で無事に済ませて、大いに肩の荷を下ろした一日でもある。
若くして創価学会の信者となっていたため、学会の法式にのっとって全てを進めた。お陰で、という言い方が正しいかどうかは別としても、すべてが一連のルールとマニュアル通りに進行されるので、にわか喪主にとっては有難い葬送儀式の一式であった。何はともあれ三回忌法要を済ませられたことは姉にとっても私たちにとっても一つ安堵を頂くことになる。
今回携わった姉の見送り一連の中でつくづく思うのは、人の一生はまさに千人千通り、万人には万通りの生き方があるのだと改めて感じたことである。そしてどれが正解かなどというケチな話ではないということ。つまり、人の一生において不正解などというものはない。それを判定する役割を持つものもいない。ただ一つあるとすれば、その一生を生きた本人だけが良し悪しを決めること。つまりは万人すべからく幸福な一生だったといえることだと思う。言葉足らずをお叱りあるな。死生に関する個人の感情天井なし。
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