畑に吹く風

 春の雪消えから、初雪が降るまで夫婦二人で自然豊かな山の畑へと通います。

中越地震から10年になりました

2014-10-23 04:29:29 | 暮らし

 あの未曾有の災害「中越地震」から10年が経ちました。
十年前の今日、10月23日の夕方発生し、余震が続き近所の人たちが表に避難しています。


 不安な一夜、放射冷却現象で冷え込んだ夜が明け、朝日に裏山が照らされた。
すると、大規模な地震による、山崩れの跡が目に入った。


 急斜面の山が頂上から一気に崩壊し、線路を土砂が埋め尽くし、その崩れた土砂の一部は端が国道まで届いた。
惨状を見て、これは山が緑を取り戻すには数十年はかかると思ったのでしたが、今は既に緑を取り戻しています。


 我が家の屋内の惨状。ここはこの地震の二年前に亡くなった亡父が使っていた部屋です。
幸いと言おうか、父はこの大地震、未曾有の災害を経験する事も無く、あの世へと旅立っていたのです。


 キッチン、ダイニングの惨状。でも、少し片付けた後のようです。
私が履いていたスリッパが見えます。食器やガラスが壊れて散乱する中、足をけがすること無く脱出したのは不思議です。


 今考えると、不思議なほどでしたが、余震で山が崩れ家にまで到達すると言う事で避難指示。
批判する訳ではないけれど、あまり根拠の無い情報に踊らされた路上への避難でしたね。

 ここで、二晩自動車の中で寝る暮らしが続きます。
地震の揺れで玄関の戸が開き、内側に居てその開いた戸から逃げだしたマックスも無事に保護し、
一緒に軽トラの中で寝泊まりしていたのでした。

 少し長くなりますが、当時書いた文章を添付します。

   新潟県中越地震

 新潟県中越地震と名付けられた地震の発生から、一月近い日が過ぎた。
思わぬ事に地震の被害の当事者になってしまい、貴重な、と言うか辛い体験をした。
最初の震源地は我が家から三キロメートルの場所だという。
当時者としてはまだ何だか夢を見ているようで、時間の流れも訳の分からないような気持ちの中にいる。
 土曜日の、普段より余裕のある夕食に向かう幸せな時間、午後五時五十六分に地震は起きた。何の前触れも無く、
激しい上下の衝撃があり、横揺れが続いた。台所で夕食の準備をしていた私には、食器と鍋等が降り注いだ。
(ようだ。一瞬にして暗闇となり、事態を飲み込むのには少しの時間がかかった。)しばらく大きな唸り声のような音が続いた。
雪国独特の高床式住宅の下から野菜を持って、台所に向かっていた妻は下まで落ちてしまった。
私はすぐ「直下型の大きな地震だ。」と叫んだそうだ。
 妻は私を呼びながら再度階段を上って来た。私も妻と呼び交わしながらお互いを探し、
手を取り合って倒れたドアを踏んだりしつつ玄関にたどり着いた。次々と余震が続く中、
間隙を縫って月夜で明るい屋外に逃げ出した。
 ほぼ同時に家から逃げ出した近所の人達と、お互いの安否を確認し合った。
次に近所の家のガス・水道等の元栓を確認しながら締めて回った。
光源が足りず、スチール棚が倒れて足の踏み場も無い車庫からワゴン、軽トラックの二台を引き出して家を照らした。
ボイラー用灯油タンクの送油管が破損し、灯油が流れている。懐中電灯の明かりを頼りに応急手当をした。
 みんなが落ち着きを取り戻したが、正確な様子の分からない家には、余震の心配もありは入れない。
家の前の広場で六家族が焚き火をして夜を過ごすことになった。皮肉にも好天の月明かりで、
冬の星座もはっきり見えるがそれだけに寒い夜だった。
 私は収穫したばかりのサツマイモを持ち出し、濡れ新聞紙にくるみ焚き火に入れた。
地震発生の時刻に夕食を食べ終った人は居なかったのだ。
 寒く、不安な夜が空けた。家からわずかに離れた急斜面の山が崩れ、百メートルに亘り線路を埋め尽くし、
田の上を滑り、少し離れた国道まで届いていた。
 外で朝食を食べている所に消防団員が来た。山にひび割れがあり崩落の恐れがあるので避難してくれと言うのだ。
家から必要最小限の着物と、食事道具を持ち出し車に積み、1キロメートル以上離れた道路上に避難した。
 その後も余震を初め、色々な事柄があり自宅に帰り夜を過ごしたのは、発生から九日目の夜だった。
それまで家の中は土足で入らざるを得なかったのだ。
いや、家に入れただけでも幸せだった。近所では五軒の家が住めなくなった。
 仕事柄、線路の状態や列車が心配だった。新幹線の脱線はすぐにニュースに報じられたが、
在来線の状況は不通という簡単な報道だけである。
 地震の発生から五日後に出勤した。道路の不通情報を見聞きしながら、普段の四倍、百二十キロを走って職場に着いた。
しばらく情報を交換した後、列車ダイヤに地震発生時刻の線を入れて見た。奇跡としか言えないように感じた。
上越線は山の崩落現場の手前、二キロほどの所で停車している。信越線は線路の崩落箇所を、上り列車が僅かな差で通り抜け、
越後広田駅の構内に停車している。こんな場合に幸運という言葉など使うべきでは無かろうが、
全くそんな言葉でしか表現できない。四十人の方が亡くなられたが、
発生時刻が早くか遅くかずれていたら被害者の数はより大変な事になっていたと思われる。
 神様は突如として酷い悪戯をなさるが、僅かなお目こぼしも配慮してくれたのかも知れない。
 まだ列車運転の再開はされていない。まだまだ時間がかかりそうな気がする。
新聞報道でも列車の不通が生活に及ぼす影響について、報道される回数が増えてきた。
何があっても早期の開通を図らなければと思っているが、
トンネル内部の崩落、変状も言われておりまだまだ全通には予断を許さないところである。
 とりあえず現場からの第一報といったところである。
コメント
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