達磨
一月の最終日、台所で趣味を兼ねた昼食を作っていると、来客の応対に玄関に立った妻が大きな声で私を呼ぶ。
「達磨屋さんがいらっしゃったよー」と。
上州から雪の越後に、大きな振り分け荷物にした、天秤を担いで「達磨屋さん」が来るようになってから、
何十年もが過ぎた。
経済的余裕の無かった我が家に、「達磨屋さん」が立ち寄ることは無く、別の世界の事と思っていた。
しかし、父が勤めていたタクシー会社を定年になり、自分一人で小さな鉄製品加工の下請けを始めた時に、
縁起を担ぎ始めて達磨を買い求めた。
翌年からは名入りになり「○○加工所」という名前が正面に入った、特注品が届くようになった。
耳が遠くなり、怒鳴るような大声を出さないと、用が足りなくなっても、
大きな達磨の包みを担いで我が家を訪れてくれた。
そんな達磨屋さんに、縁起だからと母がコップ一杯の冷酒を振舞うようになったのは何時の頃からだったか。
野沢菜の漬物などをつまみ、本当に美味しそうに、一杯のコップ酒を飲み、機嫌よく別れを告げた。
何時の日からか、若い一人の男が益々耳の遠くなった、達磨屋さんの通訳よろしく付いてくるようになった。
聞けば、達磨屋の娘婿だという。おじいさんの自慢の婿でもあったようだ。
ある年、訪れてきたのは婿さん一人だった。
最後まで稼いだ達磨屋さんは、大往生を遂げたという。わずかではあるが香代を仏前に託した。
それから共働きの我が家では、その婿さんに対面することは、ほとんどなくなった。
留守の玄関先に達磨が置いてあり、代金は後日振り込む、ということが多くなっていたのである。
久しぶりで会った、若い達磨屋さんは人が違ったようにも見えた。
毎年、玄関先に置いてあった達磨に、必ず添えられていた、生の「椎茸」があった。
その礼を言うと、「いやー、爺さんがお世話になったから。」と言う。
初耳だったが、私の父がタクシーの運転手をしていた時、
帰り車にただでそのおじいさんを度々乗せていたのだと言う。
昔の事でもあるし、田舎のタクシーは規則もうるさくなく、父は一人で歩く商人やら、
中学生やらに気軽に声を掛け、乗せていたようだ。
後に大相撲で三役にまで昇った力士さえ、中学生時代によく乗せていたようだ、
一昨年九十二歳で亡くなった父だが、いまだに聞いたことも無い、エピソードが出て楽しませてくれる。
(亡父の13回忌を何年も前に済ませています。10年以上も前の文章です)