畑に吹く風

 春の雪消えから、初雪が降るまで夫婦二人で自然豊かな山の畑へと通います。

92年前の尾瀬紀行(その7)

2023-08-12 04:26:02 | 登山
    五十年前の尾瀬紀行(その7)

 よもや、こんな所にこんな軽装で、而も女性を連れた山男に出会うとは思わなかった。それが何と小出小学校の教員、星野徹次郎夫妻であった。呆れたりたまげたり、後で聞くと彼等は新婚旅行のコースを此の尾瀬に求め、而もこの難コースの鷹之巣須原口から栃尾又に出ようとしているのだという。

 流石に変わり者の変わった行動には開いた口が塞がらない。奥さんも偉いもんだ。下りの道とは言え、あの三条の滝の手前の急な坂は角度六十度はあろう。坂を木の根、藤蔓につかまり乍ら、あの靴でよく下りたものだ。偉いものだ。
 星野氏は翌年の六月女の子が生まれたので、記念に「ぎん子」と名付けたと、小出の人から聞いた。良い記念であったろう。
 
           (続く)
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92年前の尾瀬紀行(その6)

2023-08-11 08:33:25 | 登山
    五十年前の尾瀬紀行(その6)

 さてこれからが大変、道のような道はない。只見川の川辺に沿って上り始めた。右岸から左岸に渡る橋もない。暫く進むと山毛欅の大木が流木になって、橋の形よろしく左岸に架かっていた。長さは凡そ十間はあるかと思われた。それを橋にして向こう岸に渡るという具合で、余程天候に恵まれないと危険此の上なし。

 幸いに桜井儀八郎氏が一、二回通ったことがあるというので、それが頼みで約三里の道を背丈の笹を分け、千古斧鉞を入れない山毛欅林、済々と天を覆う許り、この大木が所々倒れて行く手を塞いでいる。此の障害物一本越すのに十数分はかかるという始末。茲で熊にでも出られては大変、何となく薄気味が悪くなった。
 幸いに大勢の集団であった為、出ることもなくがやがやと賑やかな音がするので熊よけには適当、熊は斯うした音には避けて近寄らぬ習性があるそうだ。

 私は昨夜のぶざまな様子とは打って変わって、今日は終始先頭グループで桜井氏と一緒だった。暫く行くと。五十米程の前面に、白い丸い異様のものが木の間に揺れ動いてこっちに近づいて来る。
 これには驚いた。流石の桜井氏もたまげて、二人は傍の笹薮に身を潜めてじっと見入った。漸く近づいて来て二度びっくり仰天、思わず「オー」と声をはずませて、大きくうなった。後方部隊の連中も此の物音に何事かと急いで近寄ってきた。

 三度びっくり、それは何と妙齢の女性が而もハイヒールの靴に白い日傘という出で立ち、それに寄り添うように登山姿の男と二人連れ、所もあろうに秘境銀山の而も三条の滝の近くである。

            (続く)

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大干ばつの朝仕事

2023-08-11 04:16:22 | 

 経験したことの無いような暑さが続きます。朝から雲一つ見えない空。
平成6年も同じように雨が降らなかったけれど、気温はきっと今年の方が高い。
 あの年は、樹齢数10年と思われる立ち木さえ枯れた。
そして、当時は請負会社に出向中で、現場第一線で監督作業。唇まで日焼けしました。

 梅雨明け以来、雨らしい雨は全く降っていません。
それでも大豆、早生種の「湯上り娘」は健気に実を膨らませる。

 邪魔になる根は切り取って集積し軽トラへ。
粒々に見えるのは大豆類独特の根粒菌。これで、空気中の窒素を取り込むのですね。

 軽トラには400ℓのローリータンクとエンジンポンプ。
朝夕、畑に向かう前に、300ℓほどの水を汲み入れ、着いたらまず潅水です。

 毎日の潅水作業は、発熱した日に一日休んだのみです。
ナス類を収穫。上の紫色のナスはイタリアナスの「ヴィオレッタ・デ・フィレンツェ」。
 その下には山本ナスが入っています。他にはズッキーニとピーマン類を収穫。
この日は、久しぶりのスズキチさんの仕入れ日。張り切って収穫した「湯上り娘」は枝付きで10キロありました。
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92年前の尾瀬紀行(その5)

2023-08-10 14:17:46 | 登山
     五十年前の尾瀬紀行(その5)

 此処から鷹之巣迄二里半、道は細いが好い。一里歩くと昔の鉱山跡に来た。谷合の梢、広地に鉱石の吹き殻がうず高く今は風雨に晒されて、一面草におおわれている。右手の山の腰根には、昔そのままの坑道の入口の穴が幾つも不気味にあいている。近づいてみると可成り大きなもので、坑道は皆繋がって、長さや深さは知る術もないが、流れる只見川の下をくぐって延びていると言うことだ。入口の付近には無数の無縁仏の墓が立ち並んで、往時を偲ばせるものがあった。

 最盛期にはどれ程の人が此処に集まったものか、未だに骨投沢、傾城沢の地名も残っていた。所謂銀山の名称は、ここからつけられたものかと思われる。

 ここから一里半、鷹之巣部落に来た戸数は、十二、三戸か立派な部落だ。この部落は隣の福島県桧枝岐の部落と交流があり、縁組も行われていると言う。此の部落の人達はぜんまい取りやわらび等、山の幸を採集し、又年中家内工業のくり木細工をしていた。我々一行を温かく迎えて、いろいろと山の生活の話をしてくれて、情愛の細かな雰囲気が如何にも嬉しかった。

          (続く)

 第一回にも書きましたが、昭和55年時の文章で、本文と題名の経過年数が違います。
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昭和レトロの温泉旅館

2023-08-10 04:02:35 | お出かけ
 そうだよねー、こんな電話機なんて見たことないもんねー。
赤電話、公衆電話の下には、これまたダイヤル式の黒電話です。

 別の和室にはインベーダーゲームも。
スベルべ以降ですね。こんなゲーム機が登場したのは。スベルべりも知っている孫。

 「ねーねー、これって何のゲーム機?」
これはねパチンコと言って、ジーちゃんが泣かされたか泣かした機械!

 これを知っていたら年齢も分かってしまう代物。
手回し計算機ですよ。電卓が出るまでは掛け算割り算はこの機械頼みでした。

 三馬印のゴム短靴!
汗を掻いたり、水が入ったりするとぬるぬる滑って困った。でも、捕まえた小魚を入れたり。

 前にも紹介しましたが、ここは市街地に遠くない六日町の駅裏。
スベルべが六日町に5年間勤務していたのは50年以上も50年五時前のことになりました。
 送りに出てくれた男性従業員にそのころの話をし、駅裏は水田ばかりだった。
と、話しかけ「あなたが生まれる前の話でしょうね」と言うとうなづかれたのでした。
何はともあれ、喜寿を娘たちと孫たちに祝ってもらい、最高の一日でした。
          (終わり)
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