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巨大ブラックホールの衝突が新宇宙を形成⇒循環宇宙論、有機物質から人間への進化メカニズム(循環論理の評価)⇒戦略的進化論

日本人は大変優秀で真面目だがいくつか欠けるものが有る 3+1

2013年06月12日 22時15分40秒 | 思考空間

 優秀で真面目とは日本人の代名詞で、世界広していえども、日本人ほど該当する民族はいない。その優秀で真面目な日本人(日本)がバブル崩壊以降、ずるずると相対的な地位を下げている。韓国や中国の躍進が目立つ。しかし、日本人が韓国人や中国人に劣っている訳ではない。

 アメリカ人と比べても平均的には日本人の方が優れているだろう。現実に、バブル絶頂期、日本は巨大なアメリカを経済で打ち負かしつつあった。為替の問題が無かったら、中国や韓国も日本には及ばない。

 大変優れている日本人だが、特に21世紀に入り負け続けたのは何かが足りなかったに違いない。何か?私は3つを挙げたい。一つめは「勇気」、次に「マクロ感」と「論理」かな。

 徳川時代、日本人は85%が農民だった。村のみんなが同じ時期に同じ方法で田圃を耕し、まわりを見ながら自分が全体の中心付近の立ち位置にいるのを確かめて安心した。自分だけが外れることを極端に恐れた。目立ちすぎると村八分にも遭った。

 一方で、優れた文化、技術は海外からもたらされた。日本人は優れた文化や技術を巧みに取り入れ、創意工夫して完成度を高めた。世界の技術は日本に到達した後、多くがその極致を迎えた。

 つまり、日本人は自ら大きな一歩を踏み出す必要が無く、与えられた環境や条件の中に自分を収め、波風も起こさず上手にふるまってゆく術を身につけた。創造するのではなく、海外の技術などを取り入れ、自らのものとし、究極の造形物とした。それらを日本文化のDNAに刻み込んでいった。

 だから、目標、方向性とそれを実現する方法が明確に与えられている場合には、日本人は比類の無い力を発揮できる。一致協力して、力を束ね高みへと押し上げたのだ。とりわけ、戦後の復興からの立ち上がり、バブルの頂点まではその特性が顕在化した。

 歯車が狂い始めたのは、日本が頂点に立ったことで目標や方向を喪失し(先生や教科書が無くなった)、かつアメリカが日本(アメリカにとってソビエト以上に脅威であった)を叩き始め、経済のシステムを大きく変更してからだ。

 日本が短期間に焼け野原から立ち上がり、先進国へ駆け上った仕掛けは「キャッチアップ」と言われる、コピーであり、ある時は盗みでもあった。(中国は日本を研究し更にバージョンアップさせた)

 日本は悪く言えば、イージーに発展した。そこには戦略も構造改革も反省や見直しも無かった。だから暴走し(ルールやモラルが乱れ、良き民主主義も根付かなかった)、歯止めが効かなくなり、破裂した後は回復力が無かった。

 官僚や大企業の横暴さが際立ち、官僚機構や大企業を頂点とした統制管理が強まり、経済規模は拡大したのにも拘わらずあらゆる組織で悪しき村社会を形成するに至ったのである。

 村社会化したあらゆる組織では、多くの本質的な問題を抱えながら現状の体制を維持することが暗黙の鉄則となり、改革はおろか事実を発言することも許されず、心ある人々は排除され続けた。特に若い世代にこの傾向が強いことは救われない。

 日本は一貫して相対的位置を下げており、ちょっとした手直し程度では助からない。そのことは国民も分かっている。然しながら、一般的に、まずは自らを安全な場所に位置を確保し、その上で正しい事を言う、あるいは改革を試みる者を叩いて自分をより安全な状態に保っているのである。

 私の歴史認識では、日本人の精神文化を大きく変えたのは江戸時代である。徳川家康と言う忍耐強い天才が自らの子孫の永続的な支配を願って敷いた統治・管理体制は、日本全体を強く徹底的に管理し、この統治を脅かすものを弾圧するものだった。

 歴史家は徳川支配の封建制度に対して、ヨーロッパに対しても同じ単語を使うが、日本とヨーロッパの封建制度は異質のものだった。日本では、上に対して従属することをモラルに訴えている。つまり精神的従属だが、ヨーロッパでは契約関係である。契約とはお互いに対等な関係を示す。

 契約社会では上に立つものに対して対等に発言し、間違いを指摘できる。ところが、精神的従属社会では無条件に上を立てなければならないし、逆らうことはできない。上に立つものが下に対して責任を問われる事は無い。

 為政者にとって、事実はしばしば不都合なものである。正しい事を発言する人間は排除しなければならない。精神的な従属と相まって、管理は国全体に浸透し、弾圧を恐れる臆病さが命を守り、平和な生活を約束する。

 一国を収める君主でさえ自由は少なかったようであり、地位の高い武士も理由のいかんにかかわらず命令有れば見事に切腹しなければならないという究極の不合理さと精神的圧迫を常に抱えていた。長い徳川支配は日本人から正しく発言し実行する勇気を奪ったのである。

 日本の家屋では生け花を飾り、自然を巧みに生活に取り入れているとされている。木造の家屋は湿度の高い条件にも合い、自然とも調和している。ところが、密度の高い住居で音を遮断しない障子やふすまが非自然の人工的環境を作り出している。人間は自然の中で育つことにより、自然の力を受け本能を呼び覚ますが、その機会が少ない。

 動物は視野が開けるとまず全体を見て、大まかな様子を掴む。第一は危険、次に食糧であろう。日本人は、自然の中で生きるマクロ感覚より、狭い社会で生きるミクロ感覚が身についているとみられる。例えば、日本人にはミクロを積み上げると全体になるとの感覚が有る。協力関係が強い日本では間違いではないが、全体の方向性を見誤りやすく、優先順位の概念が希薄になる。

 窮屈な生活環境では自然との対話、自分自身との対話が少ない。お互い同士の気づかいとかリズムが重要になるし、同じ考えを持たないと生活が成り立たないから、テーマを深く考え追求するチャンスが少ない。

 論理とは言葉で表される対象や状況に関して、個を厳密に定義し、個々の関係や仕組みを明確にすることだ。日本人には生活の力である常識を強く理解し取り入れてはいるが、未知の分野や見えない世界を深く探求し解明するのは苦手であろう。

 日本人に足りないものとして、勇気、マクロ感、論理をあげた。これらは全般的な傾向であるが、トップに立つ人間の反省の無さを加えたい。日本ではより上位の者に対する無条件の従属が常識になっている。優れた人物か、リーダーシップを備えているか有るかどうかは問われない。しかも、日本の最上位管理組織である官僚には責任が無い。このため、日本のトップやリーダーは反省しないのだ。

 先の大戦で、アメリカ軍は真珠湾攻撃後に自らの劣勢を率直に認め反省をしている。同じ状況がバブル絶頂期のアメリカ経済界でもあった。その後、日本を分析し、反転攻勢に出たのである。アメリカはかれこれ大きな過ちを犯している。日本とそん色ない。戦いや競争の中でアメリカに有って日本に無いのは反省ではないか。

 この無反省の傾向は、明治以降次第に鮮明になってきた。トップやリーダーに反省の無い事が事実を明らかにするチャンスを失わしめ、同じ過ちを繰り返し続けるほか、日本を誤った方向に導きやすく、発展を阻害している。

 現代の日本を無反省にしている原因の一つは官僚組織、あるいは官僚的組織だろう。官僚は東大法学部卒業者をトップクラスとして、知識詰め込んだ偏差値の上位者を採用している。彼らは教科書を暗記し、クイズ同様間違えない訓練をしている。

 従って、あらゆる場面で間違えたくないし、間違えたと認めたくない。まず間違えないために、従来の方法を踏襲し、せいぜい実績のある新しい方法を採用する程度だ。新しい課題は先送り、棚上げ、封印する。

 次に、過去の間違いを封じるため、総括も反省もやらない。先の大戦の総括が実施されていない事が歴史的な問題になっているが、政府が率先して実行することは無いだろう。都合の悪い書類も廃棄される。そもそも、都合の悪い議事録も残さないし、書類は悉く機密情報扱いになっている。

 最終的には教育や環境の問題である事に気付く。人間も、自然界の動物も間違いをしながら学習して、より安全で合理的な方法を知る。また、新たな課題への対処方法も身につけてゆくのだ。

 知識エリートは情報の詰まった箱の中から、適切な答えを引っ張り出して対処しようとする。ところが情報は単なる厚みの無い記号のようなもので、それ自体が解決力を持っているわけではない。指示を受けた担当者が底辺で具体的な作業し初めて解決する。

 失敗した経験は苦痛を伴い五感に響き、数々の反省を要求する。具体的、立体的な記憶となり、未来の同様な場面の対応を考えざるを得なくなるのだ。失敗を奨励するわけではない。成功を目指した経験のなかで失敗は確かな力強い解決への道を形成するのだ。

 失敗を悪とした教育は生命体が歩んだかつての進化のプロセスをも否定するものだ 。失敗から学ぶことなくして発展はあり得ない。

 優秀真面目な日本人にとって何が一番不足するかの筆頭に「勇気」を上げたのは、勇気が有れば、あらゆる困難を乗り越え、不都合な障壁を改革で打ち破れるが、この勇気が日本人には不足している。また、若い世代では顕著な傾向だ。

 日本人の社会的DNAには勇気が危険であることが刻印されている。勇気あるものが排除され続けてきた。屍累々と積みあがった上にカビの生えた情報を頭に詰め込んだエリートが君臨する。

 要は、マクロ視点を持って論理的に判断し、勇気を持って正しい事を言い、積極的・果敢に正しい事を実行する事であり、間違ったら率直に反省して方向修正することだ。