愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

徴兵忌避者三國連太郎さんの思いを正確に伝えないマスコミに大喝!安倍政権にも!思いを伝え憲法をこそ!

2013-04-16 | 中国侵略と戦争責任

俳優の三國連太郎さんが亡くなりました。愛国者の邪論は、80年代中頃、「朝日」に連載された「息子を売った母」を読み、感動し、三國ファンになったものです。それまでは、あの迫真性故に、怖い、恐ろしい俳優ぐらいにしか、思っていませんでした。その後、川名紀美『女も戦争を担った』(冬樹社刊)の中の「息子を『売った』母」としてまとめられていたのを読み、いっそう感動したものです。

 この文章を読むと、三國さんと息子さんの浩市さんとの関係も、ある程度理解できる、と言ったら、浩市さんに失礼かもしれませんが、三國さんが、浩市さんが父親である三國さんに「俳優になる」と早稲田の駅で話した時、親子の縁を切ると話したそうですが、三國さんの俳優論と生い立ちと、その後の人生を考えると、何となく判るような気がします。

 ご夫婦が離婚され、お母さんに育てられ、父親と同じ職業に就くという告白の際に、いきなり縁切り宣言、相当のショックであったことは、想像できます。このことは、市川猿之助さんと香川照之(市川中車)さんのことを考えると、表れ方は逆ですが、根本的なとことでは同じような気もしてきます。

 浩市さんにしてみれば、大きなお世話でしょうけれど、家族制度を否定してまで、追い込む父親、父親を乗り越えようとする息子、そうして父親を俳優としても、実際は凛としていたと語った息子、病院に見舞った最後の別れのシーンは、想像すると感動的です。

 体調を崩していた三國さん、すでに90歳になっていた三國さんの死に、向き合った時の感情を、率直に語っていた浩市さんを視ていて、親子の深い絆を感じました。浩市さんがどのような家庭を築いているか、判りませんが、50台、60台、70台と、歳を重ねていくなかで、どのような俳優、人間になっていくか、これまで同様に、期待し応援していきたいと思いました。

 

さて、本題です。三國さんの「息子を売った母」から、読み取るべきことは何か、です。極めて現代的課題といえます。

 以下の記事に掲載されています

追悼・三國連太郎さん:徴兵忌避の信念を貫いた(特集ワイド「この人と」1999年8月掲載) 2013年04月15日

http://mainichi.jp/select/news/20130415mog00m040003000c4.html

 かつてNHKでも、三國さんの人生を特集した番組がありました。しかし、天皇制、軍国主義、徴兵制、靖国神社、家族制度、反戦運動、侵略戦争など、最も議論しなければならない問題について、マスコミはスルーしているのです。三國さんの考え方とま逆の日本をつくろうと必死になっている菅官房長官に、鋭い質問もしない、一般的な俳優としての感想しか述べさせないマスコミの問題意識の欠如!本当に呆れるばかりです!

 ここに、現在のマスコミのジャーナリズム精神を放棄した、戦争責任問題と真摯に向き合わない「犯罪的役割」を指摘しないわけにはいきません。その点で、この川名紀美『女も戦争を担った』(冬樹社刊)の方が、三國さんの言いたいことを正確に伝えていると思います。

 息子を売らねばならない母親はどのような社会システムの中でつくりだされたか。そのシステムは、戦前も、現代も、進行形です。どうすれば、克服できるか!大いに考えていかなければなりません。

 以下、関係する部分を掲載しておきます。した部分、その他のものについては冬樹社刊をお読みください。

  

西へ西へと貨物列車がひだ走っていた。

その貨車のひとつに、青年が身をひそめていた。荷物と荷物の谷間にうずくまり、息を殺して……。

列車が駅で止まるたびに、青年はいっそう身を縮め、祈るように目を閉じる。

再び列車が動き出し、はるか後ろに駅がかすむころになると、ようやく目をおける。

「ああ、無事だった―」

安堵の吐息とともに足を伸ばした。

青年が恐れたのは無賃乗車、という理由ではない。徴兵忌避の旅だったからである。

 

徴兵忌避。それは当時なによりも重い。“大罪”であった。

「国を守るために軍隊へ入るべし」と期日を指定した国家からの召集令状。それに応じないで逃亡するという行為である。「非国民」、「国賊」というレッテルが容赦なく貼られた。その多くは銃殺などの極刑に処せられた。

青年は名前を佐藤政雄といった。一

いま個性的な演技で知られる俳優・三国連太郎さんの本名である。

大阪で召集令状を受けとったとき、最初にひらめいたのは、

「死ぬのは怖い」

ということだった。

はっきりした反戦の意志があったわけではない。ただ、こんな紙切れ一枚で戦場へ狩り出されて死なねばならないことが納得できなかった。

大それたことをしているという意識は、不思議になかった。

このまま郷里の静岡へ帰れば、死ぬほかない。とにかく正反対の西へ逃げよう。九州から朝鮮、そして大陸へと姿を消せば何とかなる―。

そんな想いだけで、すべて無我夢中のうちに選んだ道だった。

 

召集令状を受けたのは一九四三年(昭和十八年)十二月。

ところは、大阪市の綱島察署だった。

東淀川区の賃貸アパートにいるとき、いきなり刑事に踏みこまれ、逮捕された。

誘拐罪だという。

全く身に覚えがない。よく調べてくれといったが相手にされず、市内の警察署をタライ回しにされた。

つかまってから八十七目。

 

「もうこのまま出られないのじゃなかろうか」

怒りと恐怖に蒼ざめていたとき、担当の刑事に呼び出された。

「おい、喜べ。おまえのような男でも、お国の役に立つときが来たぞ」

すでに封を切った一通の手紙を、刑事は無雑作に突きつけた。

中から出てきたのは、召集令状と、母親からの手紙だった。

 

   おまえもいろいろと親不孝をしたが、これで天子様にご奉公ができる。とても名誉なことだ。しっかりお役にたってもらいたい。

 

律気そうな文字が並んだ、簡単な文面たった。

『死ぬのはいやだ』

とっさに思った。そんな内心を見すかすように、刑事が大声をかぶせてきた。

「命を捨てて、お国のために働いてくるんだぞ!」

 

自分のしていることを振り返るゆとりが持てるようになったのは、広島を過ぎてからだった。

大阪駅を離れてから四目目。

山口県の小郡へ着いたとき、ふと家族のことを思った。

あすは、もう九州だ。そんな気のゆるみも手伝って、佐藤青年はちょっと迷ったすえ手紙を書いた。

あて先は母親であった。

 

   ぼくは逃げる。そちらでは、みんなから白い眼で見られて、いろいろと大変だろう。弟

   や妹たちにも、先へいって苦労をかけることになると思う。しかし、これが最後の親不孝

   だ。なんとしても生きたい。生きなきゃならんのだから。

 

 こんな文面に、九州から朝鮮半島を経て中国大陸へ行くつもりと書き添えた。

 数日後。佐賀県の唐津で船の段取りをつけようと走り回っていた。そのとき、尾行されているのに気づいた。

 すぐそばの芝居小屋にまぎれこもうとしたが、あっけなくつかまった。たちまち故郷へ連れもどされた。

 徴兵忌避という。“大罪”にもかかわらず、なぜか処罰は受けずに済んだ。みんなと同じように赤だすきをかけさせられ、静岡の連隊に入れられた。一つ星の二等兵だ。

 中国大陸の東北部へ出兵が決まっていた。

 以後の面会の日。姿を見せた母は、ふだんよりいっそう無口だった。どこかおどおどして、視線をそらしてばかりいた。

 別れの時間が目前に迫ったとき、母は目をそらせたままで一気にいった。

 「お兄ちゃん。お兄ちゃんにはきついことかもしれないけどね、一家が生きていくためには涙をのんで、戦争に行ってもらわなきゃいかんのだよ」

 声が、小さくふるえていた。

 青年は、このときすべてを悟った。

 『そうか。憲兵に知らせたのは、おふくろだったのか』

 警察で読んだ、母からの短い手紙を思い出した。

 

   天子様にご奉公ができる。とても名誉なことだ―。

 

 青年は工業学校を出て以来、十代から職を転々とした。

 ペンキ塗り、皿洗い、旋盤工……。家にもほとんど寄りつかない息子だった。

 そんなわが子にも赤紙が来た。これでやっと人並みにお国の役に立つことができる。おそらく母親は、重荷をおろしたような気持ちになっていたのではないか。

 なのに、その息子が兵隊になるのはいやだ、逃げる、という。

 期待を訳切られてばかりいた母親は、うちのめされた。

 家の近くに左翼運動をした男がいた。その家族が近所の人だちからつまはじきに合い、息をひそめるようにして暮らしているのを長年、見てきている。

 母親は、「家のために」黙って戦争に行くことを息子に迫り、逃亡先からの手紙を憲兵隊に差し出しだのに違いない……。

 万年の胸の奥で、何かが崩れた。

 

 抽まって何のおとがめもなかったことも、合点がいった。おそらく母親が以前から顔見知りだった憲兵に頼み込んだのだろう。

 

 短い面会のあと、帰り際に母親は初めてふりかえった。息子の目を、ひたととらえた。

 『やすやすと命を落とさんでおくれ』

 そう語りかけているように思えたが、青年の昂ぶりは、まだ消えなかった。

 遠くなる母親の背中に声をかけようとした。だが、くちびるがこわばって、ことばにならなかった。

 

 映画やテレビで個性的な人物を生き生きと演じている俳優、三国連太郎さんに徴兵忌避の体験があると知ったとき、しかも、ほかならぬお母さんに。“密告”されたとわかったとき、この「母と息子」から直接、話が聞けたらという気持ちをおさえることができなかった。

 ごくふつうの母親にとって、息子が徴兵忌避などという、当時としては殺人にも劣らぬ大罪を犯そうとしたとは、どれほどの驚きと嘆きであったことか。

 逃亡中の息子からの手紙を手にして、母親の気持ちは激しく揺れつづけたにちがいない。

 このまま逃がしてやりたい、しかし、見逃がせば、家族にも厳罰がくだる。まだ一人前にならない弟や妹もいる……。

 つらい、つらい選択だっただろう。

 こんな手紙なんか、いっそ来なければよかったのに、黙って逃げてくれればよかったのにと、恨みのこもったまなざしで手紙をみつめたひとときもあったのではないか。

 結局、母は息子を戦場へ送る道を選んだ。

 

 その息子は生き抜いて、無事に帰ってきた。そして、戦後ずっと、母と息子は同じ屋根の下で暮らしてきた。

 それぞれ胸の深いところにどんな想いを抱いて歳月を重ねてきたのか。

 激動の時代をくぐりぬけてきた一人の母親の胸をたたいて、聞いてみたいことがいっぱいあった。

 ひとがひっそりと胸の奥に仕舞いこんできたことをあばき出す権利は、だれにもない。何日も迷った末に、おそるおそる三国連太郎事務所の電話番号を回した。

 母、はんさんは数年前、すでに世を去っておられた。七十五歳の寿命をまっとうしてのことだった。

 それを知って、私はなぜかホッとした。

 

 東京都港区西麻布にある三国連太郎事務所を訪れたのは一九八〇年十一月十一日。

 「お電話をいただいてから、当時のことをいろいろと思い出してみたのですけれど……」

 何枚ものメモ用紙を手にした三国さんは、画面で見るよりずっと柔和なまなざしをしていた。

 生きて帰って、再び母親と共に暮らすことに、なんのためらいもなかった、と三国さんはいう。

 はんさんも、無事を心から喜んでくれた。亡くなる前の何年間かは、母と息子だけの水いらずの生活。

 「おふくろが私の手紙を届けたんだなとわかってからも、おふくろを責めたことは一度もないし、おふくろもあの一件については死ぬまでなにもいいませんでした」

 平和な暮らしのなかで、出来事自体も、いつしか記憶の奥深くへ沈んでしまっていた。

 「しかし……」

 三国さんはゆっくりとソフアから上半身を起こした。

 二十歳前後のとき自分は母親に裏切られたんだ。そういう気持ちが潜在意識のなかになかったとはいえないんです」

 次のような三国さんの“告白”に、私は改めてごの母子の傷の深さを知らされた。

 

 ある日、トイレで物音がした。

 『あ、おふくろだ』

 三国さんはあわててかけつけた。

 はんさんがくずれるように隅っこにうずくまっていた。

 三国さんは、はんさんを抱きあげた。寝室へ運ぶうち、寝間着を通して母親の体のねくもりが伝わってきた。

 なぜか、急に三国さんの全身がとり肌立った。

 

 それは、思いがけない肉体の反応だった。寝床に寝かせ、ふとんをかけながら、三国さんはとまどっていた。

 『いったい、これはどういうことなんだ』

 晩年になって老母が脳軟化症で倒れてから、かいがいしくめんどうをみてきたつもりだ。もちろん、下の世話もした。ときには部屋や寝床を便で汚す。それを始末することを苦痛だと感じたことは、ただの一度もなかったのに……。

 『どうして、あんなにゾッとしたのだろう』

 自問自答している三国さんの頭に、なんの前ぶれもなく「あのこと」がよみがえった。

 すっかり忘れたつもりでいた。なのに、戦後三十年余りたってもなお、心のどこかにひっかかっていたのだろうか。

 自分を戦場へ“売った”のは、この母親なんだ、という思いが―。

 そう気付いて、三国さんはハッとした。

 

もし、おふくろがあのとき手紙を焼き捨ててくれていたら―。

 ことによると、大陸へ逃げきれたかもしれない。その後、どういう生き方をしたかはわからないが、少なくともいまの自分とは違う自分になっていたはずだ。

 「ぼくのどこかにウラミめいたものがこびりついていたからこそ、おふくろを抱きあげたとき、理屈ぬきにゾッとしたんでしょう。それに……」

 口ごもりながら、きちんとそろえた両膝を大きな二つの手で包んだ。視線をその手の甲にあてたままで、三国さんの口から意外なことばがもれた。

 「親父のいのちが危いという知らせをもらったときは、仕事を全部投げてしまって飛んで帰りました。息をひきとるまで三日間、ずっとそばにいたのですけれどね……」

 「おふくろのときは……仕事先から帰ろうとしなかったんです」

 どんな相槌をうったらいいのか、わからなかった。

 息苦しくなって、窓の外に目を向げた。

 秋の短い陽がいつの間にかすっかり落ちて、ネオンが空を染めていた。

 では、はんさんはどうだったのだろう。

 いつもやさしい息子が、心の奥底にどうしても捨てきれずにいた。“わだかまり”。それに気づいていなかったとはいいきれない。

 「そういわれてみれば、ずいぶん遠慮してたなあと思い当たる節々がありますねえ」

 「おふくろは、まるでぼくを亭主のようにしていました」

 「おふくろは、ほんとうにかわいそうな女だったと思います」

 「こどもを生む能力は、女性にしかないのですもの。女性というのは、もともと平和を愛し、命をはぐくむことに喜びを見いだすはずのものだと思うんです。その感覚を徐々に狂わせていったのは、明治以来の軍国主義の政治や教育です」

 はんさんは、かつては網元だった没落漁師の家に生まれた。

 十四、五歳のとき、広島県呉市に女中奉公に出た。

 小学校は三年生までしか行っていない。字もあまり読めないまま、十八のとき結婚した。

 網元としての誇りを捨てきれずにいた実家では、財を失ってからも父親は絶対の存在だった。

 女中奉公に出て身につけたのは、あるじのいいつけに逆らうことは許されないということ。

 主人にはどんなことがあっても従う。これを女の美徳として生きたはんさんに、徴兵忌避を黙って見逃すなど、思いもよらなかったのではないか。

 

 はんさんは近所で反戦活動をした“非国民”の家族が村人だちからいじめられるのを見ていた。

 息子がうまく逃げおおせるとは考えられない。万一、徴兵忌避者として発見されればで死罪は決まっている。むしろ、黙って戦争に行っても、必ず死ぬとは限らないのだから―。

 こんな結論に達したとしても、当然かもしれない。

 「時代が、ぼくのおふくろのような女性の生き方を強いたのです。おふくろだけではなく、日本中の女性が、本来もっているすばらしい感覚をマヒさせられていたのです」

自分の母親に対する複雑な感情に、ようやく結着をつけたのだろうか。三国さんの口調は穏やかだった。

 

 はんさんは、非情の母でも何でもない。むしろ息子思いのやさしい人だった。つまり、ごくふつうのお母さんだったのだ。

 召集令状がきたとき、ほとんどの息子たちは逃げないで戦地に赴いた。

 だから母親たちもまた、自分の手でつらい選択をせずにすんだだけなのだ。

 

 意地悪な質問だとわかっていても、はんさんに代わってぜひ聞いてみなげればならないことがあった。

 逃亡の途中で、なぜ手紙を出したのか。

 「そうなんてすねえ。逃げ出したら、家族はどうなるんだろうと、ふとねえ。で、判断が狂ってしまったんです」

 「若いころから家を出て、八割がたは抜け切ったと自分では思っていたんだけど、結局は〈家〉

という意識に足をとられたんですねえ」

 「そういえば、最近、とても気になることがあるのです。日本の家族制度ですね。あれを讃美

するような空気がまた出てきましたね。先日もテレビを見ていたら、タケノコ族にインクビュ一一をしていまして、話が親のことに及んだとき、なかの一人が将来、親をみたくない、といったんですね。すると番組は、嘆かわしい風潮だ、みたいに締めくくるわけです」

 三国さんは、平和を守り抜く条件として、日本の家族制度というものを考え直さないといけない、と力をこめた。

 「日本の家族制度がもっている危険性は、祖先崇拝はあっても、現在や未来に対する祈りがまったくないということではないでしょうか」

魂は生き残る―。

 こう強調することは、未来の庶民の犠牲を強いることになりはしませんか。

 ものやおらかな、淡々とした話しぶりとは裏腹に、視線は鋭かった。

 「靖国神社なんか見てますとね、戦争の犠牲者の魂はこんなふうに祀られ、生き残るんだと。

そういう考え方のなかに、とっても危ないものを感じるんですねえ」

 そこで、いきなり「天皇制」ということばが三国さんの口から出た。

 二人の間で、さっきからもう何時間も、テープレコーダーが回っていた。

 こんなことまで話してもらっていいのかしら、と戸惑っているのにかまわず、

 「天皇制にしてもですね、頂点から見てうんぬんするのではなく、核となっている家、ぼくならぼくの家のあり方から見直していくことが、これからの歴史をつくっていくことにつながるのではないか、なんて考えているんですよ」

 三国流のやり方では、〈家〉を持たないということになるらしい。つまり、女性と共に暮らしても、入籍という形をとらないことなのだ。

 「AとBが結婚した、ということであればいいのですが、結婚したとたん、どちらか一方の名前が変わっていくということが、すごく気になるのです。入籍のシステムそのものが、多くの場合、男性が女性を所有するという構造をもっているのですよね。ほら、オレのものだ、というような……」

 「ぼくなんかもね、いま一緒に棲んでいる女性に対してですが、前夜、遅くなって疲れているということを知っていても、仕事に行くんだからと、朝つい起こしてしまうんです。で、あわてて反省する。もう、毎日そうなんですね。だから、入籍という制度に守られるようになったら、自分がどういうふるまいをするか、全然、自信が持てない。いまは、一緒に生きているし、支え合ってるんだ、という実感があります。こういう感じ、大切にしたいんです」

 驚いた。

 三国さんは女性解放論者でもあったのだ。

 それを裏付けるように、こういった。

 「だからですね、女性の側も自分の夫や恋人との関係でおかしいと思うことがあれば、どんどん相手にいっていかなければ」

 現在は俳優としてめきめき頭角を現している息子さんに対しても、従来の枠組の中で、親であるということを主張することだけはやめたい、といい切る。

 自分の家族から、そして役者という職業を通じて交わった人たち、演じた人物たちのすべてから得た、これが一つの到達点なのであろう。

 

 「三国連太郎さんは徴兵忌避をしようとしたことがあるんですって」

 こういうと、周囲の人たちは一様に驚く。

 とくに、おとなとして敗戦を迎えた人たちは、

 「あの時代に、よくもまあそんなことが……」

 と信じられないといった顔をする。

 同じ時代を生きていた三国さんが、徴兵忌避をすればどんな目にあうか、まるっきり知らなかったはずはない。

 にもかかわらずやってのけたのは、父親、正さんの生き方に影響されたからだという。

 「オヤジは腕一本、スネー本で生きた職人でしてね。いまから考えれば自由人でした」

 正さんは代々の職業が棺柚づくり、という家に生まれた。

 一九一八年(大正七年)のシベリア出兵に応じたのも、ほかの職業に就く手段を求めてのことだった。

 正さんも数年間のシベリア滞在中に、電気の技術を身につけた。

 帰ってからは電気工事人として一本立ちし、何人かの工夫をひきつれ、仕事を請負っては工事現場から現場へ、渡り歩いた。

 そのうち恋人をつくり、家を棄てた。

 「家を棄てても、こどもの教育には神経を使っていましてねえ」

 なぜか父親への反感は、わかなかった、と三国さんはいう。

 無学で、無口な父親。その人が、上からの押しつけには純粋に抵抗しつづけた。

 満州事変から日中戦争へと戦火がひろまり、配下の若い工夫たちが次々と出征するときも、一度も送りに行こうとはしなかった。

 階級制度のきびしい軍隊のなかで、正さんはその出身ゆえに普通の兵士が味わう以上の辛苦をなめたはずだ。それはシベリアの大自然以上の苛酷さだったかもしれない。

 

 正当な理由もないのに他国へ押しかけて、数年間も居すわり続けている日本の軍隊、その一員であることは、いくら新しい仕事を手にするためとはいえ内心、紐促たるものがあったのではなかろうか。

 「シベリア出兵という体験が、おやじに戦争の本質を見抜かせたんだと思います。戦後たまに上京して東京見物なんかしましてもね、靖国神社には見向きもしませんでした」

 父、正さんのことを語るとき、三国さんは懐かしさを隠そうとはしない。

 正さんも、はんさんと前後して亡くなった。八十五歳。差別をはねかえし、自由を求めつづけた一生だった。

 そんな父親のもとで、軍国少年は育だなかったのである。

 三国さんは一九二三年(大正十二年)生まれ。

 時代は戦争へ向かって、少しずつ、しかし確実に傾斜しつづけていた。この世代の多くはピカピカの軍国少年、あるいは少女に仕立てられていった人が多い。

 佐藤政雄少年(三国さんの本名)は、少しちがっていた。

 なぜ『教育勅語』を暗記しなければならないんだろう。

 校庭の入口から、ずっと向こうの御真影に向かって深々と頭を下げねばならないのはどうしてか。

 写真の人、天皇陛下にだけ苗字というものがないのはなぜだろう―。

 理屈はわからないが、押しつぶされるような圧迫感のなかで、毎日をすごしていた。

 こんなところでは生きられない。

 小学校六年になったとき、思いつめて中国大陸をめざして家出を企てたこともある。

 やがて仲の良かった友人の何人かは陸軍士官学校や海軍兵学校へ進んだ。

 とくに海兵の学生はモダンな制服だったせいか、女学生にもてはやされた。

 が、ふつうの中学校へ進学した政雄少年は、陸士や海兵組と親しくする気になれなかった。

 つき合いの悪いやつ、と変人扱いもされた。

 しだにいに無口になっていった。

 

 一枚の、茶色くなった写真がある。

 二十三人の兵隊が並んでいる。手前には一面に野の花が咲いて、後ろには屋根の低い、土で造った中国の民家。

 一九四四年(昭和十九年)、応山というところで撮ったもの。

 中国大陸前線の兵士たちにもひとときの平和が許されたのだろうか。

 が、どの兵士もむっつりと黙りこくった表情だ。

 後列右端に、ひときわ体の大きい美青年がいる。それが三国さんだ。

 「私か戦争というものに決定的な疑問をもったのは、一緒に中国へ行った仲間が千数百人もいたのに、たった二、三十人しか帰れなかったということです。これは、大変なショックだった…。

 文字通り、九死に一生を得ての復員だった。

 俳優という職業に就き、さまざまな人物を演じた。戦争に関するものも、少なくなかった。

 あるテレビのドキュメンタリー番組のため、半年間にわたって戦争体験者の話を聞いたり、資料を読む機会があった。

 そのときに、自分が参加したのは目本の侵略戦争のゆきつくところだったのだと、はっきり認識した。

 「私はこれまでの人生にいろんな汚点を残しましたがね、あの戦争に加担したことがしちばん大きな汚点だったというふうに感じているんです」

 そして、三国さんはこうつけ加えた。

 「もっとも、戦場にいた一年八ヵ月の間、一発も鉄砲を撃てなかったいちばんダメな兵隊でしたけれど」

 長い長いインタビューのなかで、初めてのほほえみがゆっくりとひろがった。(引用ここまで


対米従属国日本の目線は米国脳病に侵され、疑問すらもてない哀れな日本!日本独自脳はどこへやら!

2013-04-16 | 日記

15日もミサイル発射はありませんでした。最初は、10日、その次は15日、大騒ぎした挙句に、今度は又、恥も外聞もなく、日程をづらしてきました。どこまで、恥を晒すつもりでしょうか?マスコミは、事実に対して真摯に向き合うことも、疑問をもつことも検証もせず、日米韓政府の情報を垂れ流すのみです。これぞ、大本営発表ということでしょうか?

 そこで、また考えてみました。

 北ミサイル、4月下旬~5月上旬か…不意打ちも (2013年4月16日01時34分  読売新聞)http://www.yomiuri.co.jp/feature/20080115-899562/news/20130415-OYT1T00981.htm?from=blist

日韓両政府関係者や北朝鮮問題専門家は、次に発射可能性が高まるのは「4月下旬から5月上旬だろう」と話す。4月25日は朝鮮人民軍創設記念日で、前後なら軍の士気高揚につながる。4月下旬に発射に踏み切り、米韓合同野外機動訓練「フォール・イーグル」が予定通り4月末に終わった時点で、「北朝鮮の力の前に『米韓はなすすべなく撤退した』と宣言することを狙ってもおかしくない」(防衛省幹部)との指摘もある。(引用ここまで

 「日韓両政府関係者や北朝鮮問題専門家」とは誰でしょうか?読売は明らかにすべきです。適当なことを言いふらしているしか思えません。しかし、事実は雄弁です。米韓合同野外機動訓練が、今回の「緊張」の主な原因であることは、最近テレビに出演している「専門家」も言うようになってきました。だったら、これを直ちに止めて撤退すれば、静かになると思うのですが、アメリカ脳に侵された日本のメディアと「専門家」たちは、絶対に言いません。

 最近は、こうした状況について、怒りから、可笑しさから、哀れになってきたように思います。これほどまでにやらないと、安倍政権が持たないのではないか、と。

 昨日の「クローズアップ現代」は、金正恩体制の脆弱性を特集し、危機を作り上げることで、金正恩体制の強化を狙っていると見方です。しかし、このことは、安倍政権にも言えるのではないかということです。以下の記事をご覧ください。

 日中関係:「靖国問題解決が必要」と自民・野田氏毎日新聞 2013年04月15日 18時55分

http://mainichi.jp/select/news/20130416k0000m010017000c.html

安倍首相:靖国 秋参拝に照準2013年03月29日

http://mainichi.jp/select/news/20130329mog00m010004000c.html

首相「国益に反すれば自民党解散」 政界再編の軸?2013.3.18 23:31TPP

 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130318/stt13031823320009-n2.htm

 

安倍政権の危機を救ってくれる北朝鮮という構図です。最近の支持率の高さが、このことを示しています。

 しかし、この北朝鮮の「脅し」と危機は、アメリカ仕込みであることが、アメリカ自身が認めるものとなっているのです。しかし、アメリカ脳に侵された日本のマスコミには、そのような視点、疑問、問題意識、検証は全くありません。タブーになっているのかもしれません。そこに、哀れさを感じるのです。以下ご覧ください。

 米 弾道ミサイル発射実験を延期  4月7日 13時19分http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130407/k10013737611000.html

北朝鮮が挑発的な言動を続けるなか、アメリカ国防総省は、今週予定していたアメリカ本土でのICBM=大陸間弾道ミサイルの発射実験について、北朝鮮を刺激し言動をエスカレートさせかねないとして、延期することを明らかにしました。アメリカ国防総省の高官は6日、NHKの取材に対し、今週、アメリカ本土で行う予定だった、アメリカ軍の大陸間弾道ミサイルの発射実験を延期することを明らかにしました。この高官は、「今回のミサイル発射実験は、北朝鮮を対象にしたものではなく、もともと以前から計画されていたものだが、実験を行えば北朝鮮を刺激し、挑発的な行動をエスカレートさせかねないことから、急きょ延期を決めた」と話しています。北朝鮮は、中距離弾道ミサイルの発射に向けた準備ともみられる動きを北朝鮮東部で見せるなど、挑発的な言動を続けています。アメリカ国防総省はこれまで、先月から朝鮮半島周辺で行っている米韓合同軍事演習に高性能の爆撃機や戦闘機を投入したことを公表するなど、北朝鮮への圧力を強めてきましたが、朝鮮半島情勢が緊迫の度合いを増すなかで、これ以上、北朝鮮を刺激しないよう配慮したものとみられます。(引用ここまで

 こういうニュースを平然と流しておいて、NHKは、相変わらず反省していません。以下の放送は、形相を変えての発言、余りに酷かったと思います。冷静さを欠いた番組でした!

2013年4月16日放送 0:00 - 0:20 NHK総合時論公論出演者島田敏男

http://datazoo.jp/tv/%E6%99%82%E8%AB%96%E5%85%AC%E8%AB%96/636083

今や、「北朝鮮が挑発的な言動を続けるなか」は枕詞です。「米韓合同軍事演習に高性能の爆撃機や戦闘機を投入したことを公表するなど、北朝鮮への圧力を強めてきました」ってことは、脅してきたってことです。何故これが判らないのでしょうか。それはNHKがアメリカ脳だからです。

 「今回のミサイル発射実験は、北朝鮮を対象にしたものではなく、もともと以前から計画されていたものだ」という弁解は、詭弁です。だったら、北朝鮮が発射する「人工衛星」を「事実上のミサイル」などとは言えません。

 「挑発的行動を続けるアメリカに北朝鮮を刺激しないよう、日本政府はアメリカに節度ある行動を求めるべき」というのが、スジではないでしょうか?

 金正恩氏は若い、経験もないので、何をするか、判らないと、危険視するアメリカ政府や日本政府、マスコミも、実は、それが正しい判断だとすれば、同じレベルと言えます。以下の記事が雄弁に語っています。

 日米連携で北朝鮮に自制要求 首相、米国務長官と会談 2013年4月15日 13時40分

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013041501001637.html

…首相は北朝鮮について「極めて挑発的な言動を繰り返し、緊張を高めていることは容認できない。国際社会が冷静かつ断固とした対応を取ることで、挑発行為は利益にならないと理解させることが必要だ」と指摘。(共同)(引用ここまで

 「冷静かつ断固とした対応」で挑発的行為は利益にならないと理解させることが必要だ」とは、穏当ではありません。この言葉そのものが、「冷静」さを欠いています。先に記事に書きましたが、砂川違憲判決に容喙させておいて、米軍や自衛隊を合憲とさせておいて、「密約」まで結んでおいて、アメリカの核の傘の下にいて、アメリカに従属していて、「何様だと思っているのだ」と言われているでしょう。しかし、日米政府やマスコミは、全く気づいていません。それは日米軍事同盟を是としているからです。

 以下の毎日に記事は、ケリー国務長官が、北朝鮮問題を通じて、TPPや沖縄の普天間基地問題でも、安倍政権に圧力をかけにきたことを示しています。勿論安倍首相やマスコミは、そのような脳はありません。

 安倍首相:米国務長官と会談 対北朝鮮で緊密に連携  2013年04月15日 12時59分(最終更新 04月15日 13時40分)http://mainichi.jp/select/news/20130415k0000e010138000c.html

…首相は冒頭、「国務長官のアジア太平洋地域を重視するというメッセージは日本をはじめアジアの国々への勇気を与えるものだ」と述べ、今回のケリー氏のアジア歴訪を評価。名護市辺野古沿岸の埋め立て申請について「(沖縄県知事から)承認されるように努力したい」とした上で「在沖縄海兵隊のグアム移転も進めていくことが大事で、特に(米)上院の理解増進に向け、長官のリーダーシップに期待する」と述べ、日米双方の取り組みが重要だと指摘した(引用ここまで

 沖縄県民の要求や願い、「苦渋」に「思いを致す」などと、硫黄島で語った舌の根も乾かぬうちに、こんなことを平然と言ってしまう安倍首相です。しかし、日本のマスコミは、このことを指摘しません。

 しかも、以下のような「敵基地攻撃能力」発言についても、何らの批判的見解は聞こえてきません。「『万一、日本が一瞬でも動けば戦争の炎は日本に最初に飛び掛かるだろう』と威嚇した」(12日時事)。その点では横須賀、沖縄、三沢など米軍基地を攻撃するぞと脅した北朝鮮と同じレベルとなります。以下の記事をよく読めば、どっちもどっちなのに、悪いのは北朝鮮!俺たちは悪くない!ということになります。まるで子どもの言い分です。

 「滅亡の運命にあるのは日本だ」 北朝鮮、安倍氏発言に反発 2013.3.23 12:36 安倍首相 http://sankei.jp.msn.com/world/news/130323/kor13032312370004-n1.htm

労働新聞は23日、安倍晋三首相が「このままでは北朝鮮は間違いなく滅亡への道へと進む」と発言したことを受け、「滅亡の運命にあるのは定見もなく米国に従う日本だ」と非難する記事を掲載した。 同紙は「日本はわが革命武力の標的になっている。日本が(北朝鮮)敵視を続ければ、到来するのは破滅だけだ」と主張し、植民地支配に関する「過去の清算」を重ねて求めた。拉致問題には触れていない。 安倍首相は15日のNHK番組で、北朝鮮の核・ミサイル開発を強く非難し「(北朝鮮は)政策転換し繁栄の道に進む決断をすべきだ」と述べた。(引用ここまで

 「敵基地攻撃能力」早急に検討を…石破幹事長  (2013年4月15日10時34分  読売新聞)http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130414-OYT1T00382.htm

…北朝鮮の弾道ミサイルによる攻撃などを未然に防ぐための「敵基地攻撃能力」の具体的な検討について、政府・与党で早急に行うべきとの考えを示した。 石破氏は敵基地への攻撃について、「(自衛隊は)実際にその能力を持っていない。抑止力の議論はきちんとやらないといけない。それは安倍政権の課題だと信じている」と述べた。 政府は他に手段がない場合、相手基地を攻撃することも憲法が認める自衛の範囲に含まれる、との見解を示している。(引用ここまで

 こうした主張の本質的要素であるアメリカ脳の枠内にあるのは、沖縄も例外ではありません。以下の社説をご覧ください。

 琉球新報社説 安倍・ケリー会談 北朝鮮は対話へ戻る時だ  2013年4月16日

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-205374-storytopic-11.html

安倍晋三首相とケリー米国務長官が会談し、弾道ミサイルを発射すると挑発を繰り返す北朝鮮に対し、日米が連携し自制を求めると確認した。外交的解決へ向け、日米のぎりぎりの努力を支持したい。弾道ミサイルや核開発をめぐる問題で、国際社会は一貫して北朝鮮に自制を促している。北朝鮮は挑発行為は何の利益もなく、国際孤立を深めるだけだと自覚すべきだ。平穏な国民生活と経済再建を望むなら国際社会と協調すべきだ。ケリー長官は就任後初のアジア歴訪で先週末から日本、中国、韓国を訪問し、各国首脳らと北朝鮮の核開発阻止で協調を確認した。日米韓の連携により北朝鮮の核保有を認めない方針も再確認した。
 留意すべきは、オバマ米政権が米韓軍事演習の縮小などで北朝鮮の挑発に対する圧力を弱め、朝鮮半島の緊張緩和を目指す方向へ軌道修正したことだ。北朝鮮もこの機会を逃さず、対話のテーブルに戻るべきだ。朝鮮半島の非核化を目指す6カ国協議は2008年末以来開かれていない。再開に向け日米韓と中国、ロシアは調整を本格化させたい。北朝鮮も核放棄を確約した同協議の共同声明を「死滅した」としてきたが、一方的主張を撤回し対話に応じる姿勢を示してほしい。一方、米軍普天間飛行場返還問題について、安倍・ケリー会談は県内移設を既定方針通り進めるとの確認にとどまった。移設反対の沖縄の民意は考慮せずといわんばかりの不誠実さで、極めて遺憾だ。…北朝鮮の問題は、あくまで外交的解決を目指すべきだ。北朝鮮を発火点とする戦争も、沖縄、日本を出撃拠点とする戦争も断じて反対だ。紛争を武力による威嚇や武力行使で解決することは国連憲章で禁じられている。国際法の精神をいま一度、思い起こしたい。(引用ここまで

 さて、この社説、北朝鮮政府とその国民はどう思うでしょうか?共感するでしょうか?否と言えます。「ぎりぎりの努力」の中身について、北朝鮮にしてみれば、押し付けとなるのではないでしょうか?その「ぎりぎりの努力」は、米韓合同軍事訓練の中止と撤退、北朝鮮敵視政策の廃棄、そのための保障としての米軍基地の日本からの撤退ということになるでしょう。その点では、沖縄の要求と一致するはずです。しかし、そこまで沖縄はきっぱり要求できるでしょうか?

 愛国者の邪論も、この社説については、概ね賛同します。しかし、しかし、です。

一つは、「北朝鮮の挑発に対する圧力を弱め」とありますが、この「圧力」こそが、朝鮮戦争休戦中の北朝鮮にとってみれば、「脅し」となるのではないでしょうか?

 二つは、北朝鮮が、「平穏な国民生活と経済再建を望む」というのであれば、アメリカは、北朝鮮に対する「脅し」政策を止め、休戦協定から平和条約の調印を実現すべきと主張しなければなりません。

 三つは、「紛争を武力による威嚇や武力行使で解決することは国連憲章で禁じられている。国際法の精神をいま一度、思い起こしたい」という一般論では説得力はありません。これは北朝鮮にも、アメリカにも要求すべきことです。

 四つ目は、従って、核保有国としてアメリカに認知させ、アメリカと対等の話し合いを求める北朝鮮に対して、朝鮮半島の非核化を求めるのであれば、朝鮮半島の非核化だけを求めるのではなく、韓国における米軍はどうなのか、日本の米軍はどうなのか、はっきりさせるべきです。さらに言えば、中国・ロシアを含めた東アジアの非核化をも要求していかなければなりません。

 さらに言えば、琉球新報は、日本国の非核三原則の立法化、乃至沖縄の非核条例化を推進すべきです。琉球新報や沖縄が核兵器を容認しているとは思いませんが、日米軍事同盟を容認しておいて、事実上核密約を容認しておいて、他の国には核兵器の保有を認めないというのは、説得力はありません。北朝鮮にしてみれば、「脅威」と映り、「それなら俺も」となるのは当然です。

 しかも、今や非核地帯条約は、世界各地に拡大し、残るのは、核兵器保有国とその周辺のみという歴史の流れがあるのです。日本で言えば、非核平和自治体宣言の日本化です。神戸非核条例の具体化です。しかし、日米政府と日本のマスコミは、こうした視点に立っているとはとても思えません。

 これまでに署名された非核兵器地帯条約 平成21年9月

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku/n2zone/sakusei.html

核兵器廃絶へ国際会議すぐに”中南米カリブ海首脳会議が声明 2011年12月5日(月)

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-12-05/2011120501_04_1.html

非核地帯条約へ交渉再開核の脅威ない東南アジアへ ASEANと保有5カ国 2011年8月10日(水)「しんぶん赤旗」

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-08-10/2011081006_01_1.html

安全・平和な世界を保証国連総会 軍縮・安全保障の第1委討論 核兵器廃絶 各国強調 2012年10月10日(水)

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-10-10/2012101007_01_1.html

米国に反戦団体が書簡中東非核化会議 開催努力を要求賛同募り送付へ 2012年10月19日(金)

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-10-19/2012101906_01_1.html

シリア代表に反体制派アラブ連盟首脳会議決定アサド政権 孤立さらに 2013年3月28日(木)

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-03-28/2013032807_01_1.html

 さて、最後に、愛国者の邪論として、述べておきます。

1.北朝鮮に望むことは、国際法の理念にたって、核兵器廃絶と国連憲章に則った東アジア政策の実現を6カ国に求めていくしたたさを打ち出してほしいものです。35年間も植民地支配を強要された国として、二度とそのようなことのない歴史の創造を世界の先頭に立つと言う歴史の道義をわが物にするのです。それこそが、北朝鮮と韓国の平和的統一の近道であると思うのです。

 2.マスコミに望むことは、憲法の平和主義を尊重するコメンテーターを登場させるべきということです。登場する「専門家」は、日米軍事同盟容認派の日米政府の側に立ったとしか言いようのないコメントばかりです。日米軍事同盟廃棄派のコメンテーターを登場させ、その違いを国民の前に明らかにし、選択を国民に委ねる。さもなければ、この国の表現の自由は、極めて強力に制限されている、北朝鮮を批判する目線が、自分のところに木霊のように返ってくると言えます。自由と民主主義の国、ニッポンにあるまじきことと言えます。正々堂々と、論じるべきです。