愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

安倍政権閣僚の靖国参拝と真榊奉納は英霊と神道、そして憲法を冒涜!こんな不道徳は断じて許されない!

2013-04-22 | 日記

昨日から今日にかけて安倍政権の閣僚と安倍首相自身が、靖国神社に参拝しました。安倍首相は、参拝ではありませんが、ただ行かなかっただけでの話です。このニュースについても、マスコミをとおして、事実上の既成事実化を狙ったものであることが、菅官房長官の記者会見で、明らかになりました。「計画通り」ということです。国民の反応を窺うということでしょうか?

 安倍首相:靖国神社に真榊奉納 毎日新聞 2013年04月21日 19時55分

http://mainichi.jp/select/news/20130422k0000m010019000c.html

麻生副総理ら、靖国参拝…首相は真榊料奉納(2013年4月21日20時24分  読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130421-OYT1T00525.htm

麻生氏ら2閣僚、靖国参拝=安倍首相は真榊奉納 (2013/04/21-20:28)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date2&k=2013042100228

麻生副総理ら閣僚3人 靖国神社に参拝 4月21日 20時52分http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130421/k10014077091000.html

…古屋国家公安委員長は記者団に対し、「国務大臣、古屋圭司として参拝した。玉串料は自費で出した。国のために命を捧げた英霊に対して哀悼の誠を捧げるのは、私の国会議員という立場からして当然のことだ」と述べ…(引用ここまで

麻生、古屋氏が靖国参拝 閣僚計3人、首相は供物 2013年4月21日 20時55分

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013042101001349.html

首相、靖国神社に供え物奉納 参拝は見送る方針 2013/4/22 0:56

http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS2100R_R20C13A4PE8000/

靖国神社:麻生副総理が参拝 毎日新聞 2013年04月21日 21時15分(最終更新 04月21日 21時25分)

http://mainichi.jp/select/news/20130422k0000m010036000c.html

 

各マスコミの報道の仕方は、ワンパターンです。こうした報道の仕方がl繰り返されることで、国民にどのような印象を与えていくか、そこが問題です。

 閣僚の参拝と安倍首相の事実上の参拝は、事前に、以下のように報道されていました。しかし、こうした動きに対して、マスコミは、憲法の問題から、諸外国との関係から、何も追及すらしていませんでした。こうした状況を踏まえて、今回の参拝となったのは明らかです。

 安倍首相、靖国例大祭に真榊奉納へ 第1次内閣を踏襲 2013年3月29日17時26分

http://www.asahi.com/politics/update/0329/TKY201303290092.html

 4月21~23日に行われる靖国神社の春季例大祭で安倍晋三首相が、神前にささげる供え物「真榊(まさかき)」を奉納することがわかった。菅義偉官房長官が29日の記者会見で「(奉納の意向を神社側に伝えたとする毎日新聞の)報道の通りではないか」と認めた。

 首相は2007年の第1次安倍内閣でも、参拝を見送る一方で「内閣総理大臣」の肩書で真榊を奉納。国内向けに自らの信条を表した。政府高官は29日、奉納について「第1次内閣でもやっている」と述べ、当時の形を踏襲する可能性を示唆した。

 前回の首相就任時に奉納した真榊は、サカキの鉢植え1基。高さ2メートル近くあり、本殿に上がる木製階段の両脇にほかの真榊とともに並べられた。費用は5万円だったという。

 最近では麻生太郎元首相も、首相在任時に「内閣総理大臣」の肩書で秋と春の例大祭に真榊を奉納した。(引用ここまで

 首相、靖国春季例大祭に真榊奉納へ 2013.3.29 22:16

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130329/plc13032922170021-n1.htm

…参拝に関しては「首相は『(先の)自分の内閣の時に参拝できなかったことは痛恨の極み』と言っている。さまざまな状況を見て適切に判断するだろう」と述べるにとどめた。 真榊は、神事の際に祭壇の左右に立てられる祭具。第1次安倍内閣の下で、首相は平成19年4月の春季例大祭に「内閣総理大臣」名で真榊を奉納し、参拝は見送った。菅氏は閣僚や副大臣らに参拝自粛を求めない考えも示した。(引用ここまで

 安部首相の言い分や、「東京裁判史観」発言、今日の国会における村山談話見直し発言、憲法改悪に向けた手続きなど、一連の動きを一体のものとして捉えるのであれば、一つひとつの動きが、それなりに計算されながら行われていることは明らかです。早速、以下のような反応がありました。

 韓国外相、訪日当面見送り 安倍首相の靖国供物奉納に反発 2013/4/22 10:53

http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM2202E_S3A420C1EB1000/?dg=1

…韓国外務省は同日、安倍首相の供え物奉納や閣僚の参拝を非難する論評を発表。「歴史を忘却した時代錯誤的な行為だ」と指摘、「正しい歴史認識を基に責任ある行動を取るよう強く求める」と強調…(引用ここまで

 韓国外相、訪日中止 首相の靖国奉納に抗議か 2013年4月22日 11時22分

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013042201001480.html

…靖国神社に供物を奉納したことなどに対する抗議だと報じた。同ニュースによると、外務省当局者は「このような雰囲気の中で会談しても生産的な議論は難しい」と述べた。 日韓の新政権発足後、外相会談は一度も開かれておらず、歴史問題を理由にした今回の会談中止で、日韓関係は当面冷却期間が続くことが確実になった。…(引用ここまで

靖国神社副総理参拝:韓国外相が訪日取りやめ 毎日新聞 2013年04月22日 10時52分(最終更新 04月22日 12時22分)http://mainichi.jp/select/news/20130422k0000e010124000c.html

…当局者は「内閣のナンバー2である麻生副総理まで参拝したのは無責任だ。日韓関係を改善させようという考えがあるなら、相手国に対する配慮がもう少しあってもいいのではないか」と語った。 韓国は当初、5月の日中韓首脳会談に合わせて今月末に3カ国の外相会談を開くことで調整していた。しかし、中国が日程に難色を示して首脳会談が先送りになったため、尹外相が個別に日中両国を訪問することを計画していた。尹外相は当初の予定通り24日に訪中する。

 尹外相が訪日すれば、日韓両国で新政権が発足して以降、初の外相会談となるはずだった。両国は、緊迫する北朝鮮情勢への対応を協議するとともに、昨年8月の李明博(イ・ミョンバク)韓国大統領(当時)による島根県・竹島(韓国名・独島)への上陸を機に悪化した関係改善の糸口を探ろうとしていた。(引用ここまで

 しかし、こうした反応を見越した政権の対応がなされました。以下の記者会見です。全くスリカエです!相変わらず答えになっていません。しかも、マスコミの突っ込みもありません。どうなっているのでしょうか?

 官房長官 外交に影響及ぼすべきでない 4月22日 12時13分

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130422/k10014088571000.htm

…菅官房長官は午前の記者会見で「私人として参拝されたものと理解している。閣僚が私人の立場で参拝することは閣僚個人の私的な行動に関する事柄であり、政府として答えることは差し控えたい」と述べ…ユン・ビョンセ外相の日本訪問を取りやめたことを明らかにしたことに関連し、「それぞれの国にはそれぞれの立場があり、そうしたことの影響をあまりそれぞれの外交に及ぼすべきではない」と述べ…「真榊(まさかき)」と呼ばれる鉢植えの供え物を奉納したことについて、「私人としての行動だと思うので、政府見解を申し上げるべき事柄ではない。政府として春の例大祭に真榊を奉納することを決定したことはなく、公費で支出したとは承知していない。総理大臣の肩書きをつけるのはその地位にある個人を示すものであって、公人として真榊を納めたということではない」と述べ(引用ここまで

 

さて一連の動きを一覧してみました。そこで、以下のことを気づきました。そのポイントです。

 1.「私人」「私費」とは言え、「公人」としての「役職」を書いて、参拝しているのです。安倍首相の場合は直接参拝はしていませんが、誰が、どのように「私費」を届けたか、どのようなルートで靖国神社に打診したのか、経過に、「公人」ぶりは、全くなかったのか?明らかにすべきです。しかも、彼らの「私費」は、「一般人」のそれとは、性格が大きく異なるものです。消費税増税の際の政党助成金、国会議員「歳費」問題が、そのことを示しています。ご都合主義も甚だしい限りです。

 2.次は、神道の儀式である「春季例大祭」にあたっての行動であることです。これは、「役職」を書いているということは、憲法20条第3項 「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と矛盾していることです。本当に「私人」を強調するのであれば、単純に「個人名」を書くべきです。しかし、そのようなことはしていません。

 春季例大祭http://www.yasukuni.or.jp/schedule/shunki.html

真榊http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E6%A6%8A

神饌http://www.jinjahoncho.or.jp/iroha/matsuri/index7.html

御幣http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B9%A3

玉串http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E4%B8%B2

 しかも、「春季例大祭」には、「天皇陛下のお遣いである勅使が参向になり、天皇陛下よりの供え物(御幣物)が献じられ、御祭文が奏上されます」とあるように、これは天皇の国事行為か、公的行為か、天皇家の祭祀の一つか、何一つ明らかにしていません。マスコミも追及すらしていません。

 こうして、既成事実化しながら、印象操作によって、問題ないかのようなムードを醸成しているのです。それに反して、中韓の抗議!国内問題に干渉するな!となることは明らかです。以下の反応が、このことを示しています。

 朝日将軍の執務室http://asahisyougun.iza.ne.jp/blog/entry/3055874/

事実上の敵国である中共や韓国との外交関係を考慮する必要は無い。国のために命を捧げた英霊哀悼の誠を捧げるのは国会議員、内閣閣僚、内閣総理大臣としては当然である。


3.さて、こうした行動と反応を見て、思うことは、安倍首相の小笠原訪問、日の丸君が代口パク問題の時にも記事を書きましたが、大東亜戦争肯定論者=靖国信奉者たちの身勝手さについてです。極めて不道徳ぶりには怒り・呆れます!

 

以下、ポイントのみを述べてみます。

(1)かれらの行為は、本来の神道論から、大きくかけ離れて、神道を、自分たちの専売特許であるかのようにゴマカシテいることです。

神道とは 日本文化における神道の役割(過去・現在・未来)

http://www.shinto.org/wordjp/?page_id=2

(2)神道はもともと、「天下泰平、五穀豊穣」「命の大切」などを祈ってきたのではないのか?

(3)「国のために命を捧げる」論は、神道の考え方と根本的に異なるのではないか?しかも、他国・他民族を抑圧し、命や財産を奪うことは、神道の考え方と相容れないのではないのか?

(4)しかも「国のために命を捧げ」ない人たちに対しては「哀悼の誠」を捧げないのは、不平等であり、神道の考え方とは異なるのではないのか?

(5)「英才英断英雄育英俊英」という言葉に象徴されるように、「英霊」とは、「すぐれている。すぐれた」「霊」ということですが、死者の「霊」を差別化するというのは、神道の考え方でしょうか?「死者(屍)に鞭を撃つ」行為ではないのでしょうか?

靖国神社というのは、今 大河ドラマ「八重の桜」に登場している会津の侍たち、あの白虎隊の若者たちは「英霊」なのでしょうか?

ところで、あの「大東亜戦争」に反対し、獄中で、或いは警察で「非業な死」を遂げた「愛国者」たちは、「英霊」とは、言わないのでしょうか?勿論彼らは断ると思いますが、また抜け出したくても抜けられない「植民地の兵士、朝鮮人兵士」の「英霊」も、いるようです。身勝手なものです。あ、そう言えば、あの戦犯で処刑された人たちも、こっそり「英霊」になっていたようです。呆れます!

(6)「靖国神社」は、元々は「東京招魂社」でした。さらに、「招魂」の起源は、直近で言えば、1862年、福羽美静らが京都霊山において、安政の大獄以来の弾圧に斃れた志士たちの霊を祭ったことが起源と言います。(大江志乃夫『靖国神社』岩波新書84年3月刊)

(7)こうした「魂を招いて、霊を慰める、霊を鎮める」必要があったのは、菅原道真に代表されるように非業の死を遂げた人間の霊(怨霊)が暴れまわることを防ぐと言う意味もあったはずです。

(8)しかも、神道には「タマフリ・フリタマ(振魂)・タマシヅメ(鎮魂)などの観念はあるものの、「招魂」と言う言葉は、用いられなかったようだ」(村上重良『慰霊と招魂 靖国の思想』岩波新書74年9月刊)という見解もあります。

(9)ということは、「国のために命を捧げた英霊の怨霊を鎮める」必要性、すなわち、教育勅語によって死に追いやったという感情の裏返し、「後ろめたさ」、「怨霊」に対する「畏れ」が、ここにあるということです。それこそが、「靖国神社の本質」と言えます。

(10)それを、「英霊」とゴマカシ、次なる「英霊」づくりに利用する、という、神道の本来の考え方とは相容れない思想が、ここに浮き彫りになってきます。

(11)しかも、こうした神道捻じ曲げ論は、他民族の信仰すら否定しているのですから、八百万の神々と矛盾するものです。そもそも天皇自身が、靖国神社の「英霊=神々」に「供え物(御幣物)」をするという行為そのものが、神々の対等平等性を示していないでしょうか?ゴマカシがあるように思います。

 

以上、大まかにまとめてみました。どうでしょうか?今後さらに検討を加えていきたいと思います。

 結論は、安倍政権をはじめとした日米軍事同盟深化派=靖国神社信奉者たちの、ゴマカシは、人間の信仰心すら捻じ曲げ、ウソをつき、政治的に利用しようとする邪悪なこころであり、不道徳の極地と言えます。

 因みに、愛国者の邪論は、無神論です。しかし、信仰心を持っている方々を尊敬しておりますし、神社の祭礼には、参加もします。それは人々の共同体があるからです。中世の「一味同心」は、ムラの鎮守で行われたものです。こうした民衆の信仰心と生活の知恵、これこそが日本の伝統文化と歴史を創造してきたと言えます。

 そうした視点にたったとき、安倍政権の思想は断じて認めることはできません。


沖縄の屈辱無視、天皇の戦争・戦後責任の曖昧化、日米安保化で国体の延命を謀った裕仁とマスコミに喝!

2013-04-22 | 日記

昨日は、菅官房長官のデタラメ発言の問題点を記事にしました。今日は、この発言を追及していないマスコミの問題点を、さらに記事にしておきます。

 まず、国会で瀬長亀次郎議員が追及した内容をふまえ、瀬長氏自身がまとめた文書を紹介しておきます。非常に的確です。しかし、こうした視点で、「屈辱の日」を捉えているマスコミは、どうでしょうか?あるでしょうか?ここに、戦後自民党政権を支えてきたマスコミが果たしてきた役割があります。

 そしてまた、今日においても、日米軍事同盟を「日米同盟」とゴマカシ、さらには「絆」を深めるなどと、ウソを付きながら、偽りの大量議席があるうちに憲法を変えてしまおうという日米軍事同盟深化派の目論見を断罪することなく、追認しながら、事実上の応援団と化している姿が日々浮き彫りになってきています。

このことについて、何としても暴いていかなければならないと思い、すでにご承知のこととは、存じますが、敢えて、この資料を掲載することにしました。

 瀬長亀次郎「天皇の戦争責任、戦後責任」(『文化評論』1987年11月号 「特集 沖縄と天皇」より)

 二つは、一九四七年九月、宮内庁御用掛寺崎英成氏によってアメリカ側につたえられた「天皇メッセージ」(資料参照)と米占領軍との関係についてである。

 このメッセージは「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう日本の天皇が希望している」と明記され、それがアメリカの対日支配の政策に大きく影響をおよぼし、その後のサンフランシスコ「平和」条約、安保条約で沖縄の軍事的監獄的支配を決定づけるものとなった。この「天皇メッセージ」は、『世界』誌七九年四月号で筑波大助教授(当時)の進藤栄一氏によってその存在が公表され、日本共産党が外務省にその文書の提出をもとめ、その全容があきらかにされた。

 「天皇メッセージ」が出された当時の政治的背景を知るうえで、アメリカ国民の天皇にたいする評価の問題がある。終戦直後四五年秋におこなったギャラップの世論調査によれば、天皇にたいする米国民の意見--天皇の処刑(死刑)を要求するものが三三㌫、戦犯として裁判にかける一八㌫、終身禁固を要求するもの一一%、日本からの追放を支持するもの九㌫、これをあわせて七一㌫いう圧倒的多数が、なんらかのかたちでの天皇の戦争責任の追及をせまっている。

 また、連合国の多数は天皇の戦争責任はまぬがれないであろうとみていた。極東国際軍事裁判(東京裁判)の裁判長オーストラリアのウェッブ氏も、ソ連も、天皇の戦争責任を追及した。このような政治的状況のなかで出されたのが、この「天皇メッセージ」である。

 私は一九七九年四月二十七日の衆院沖縄及び北方問題に関する特別委員会でこの「天皇メッセージ」の事実について、とりわけ対日「平和」条約第三条にもとづく沖縄の無期限占領が「天皇メッセージ」によっておこなわれたものであるということ、憲法公布後四ヵ月もたってからの天皇の政治行為であり、憲法にも違反しているものであること、と当時の三原総務庁長官を追及したが、三原長官は一貫して「事実がつまびらかでないので、大臣として責任ある答弁はさしひかえたい」ということに終始した。

 そのすぐ後の五月三十日、衆院内閣委で園田外務大臣に同じ視点から問うと、マッカーサーに会った時に聞いた話とことわりながら、「天皇は財産目録を持ってきて、自分の財産は没収されてもいいが、国民が飢えないように援助をたのむ。戦争犯罪人は私一人で結構である、といわれた。青白い貧弱な男とおもっていたが、その途端に本当の君主の姿、自分の生命と運命を国民と民族にかえて死のうとするその姿をみて、天皇に対する考えが変わったとマッカーサーは話していた。そういう天皇が、自分の生命と引き換えに沖縄を米軍占領支配にせよとの事実は考えられない」と答弁した。昨年の三月、共産党の正森議員が中曽根首相に「天皇在位六十年記念行事」が、いかに憲法の主権在民の原則に違反するかを追及したが、その時の中曽根首相の「天皇陛下はあくまで平和主義の方であらせられ、戦争を回避するために全面的に努力された」という答弁と本質的に同じである。しかし、園田外相白身も「天皇メッセージ」そのものを打ち消すことはできなかった。

 天皇は憲法発効前後にマッカーサーに三回ほど吉田茂外相(当時)の仲介で会っている。天皇がなにを語ったか知るよしもないが、天皇がマッカーサーに取り入るような文言をつかったのではないかとの疑問をうち消すことは困難であろう。

 この「天皇メッセージ」を取り次いだアメリカの政治顧問W・J・シーボルトがアメリカ国務長官あての書簡のなかで、「疑いもなく私利に大きくもとづいている希望が注目されましょう」といっているように、自分自身の私利私欲-英文ではself‐interest、辞書によると私利、私欲、身勝手-のために、天皇の自らの生命、地位と引き換えに沖縄の占領を進言した。その結果、当時の対日政策を立案担当していたジョージ・F・ケナンらに影響をおよぼし、サンフランシスコ条約によって沖縄を本土から切りはなし、沖縄県民をアメリ力の軍事監獄的支配下におくことを許したのであった。

 私は、国会において「四分の一世紀以上にわたる沖縄の軍事占領支配、これが、復帰したとはいえ基本的にはまだ全然変わっていない。アメリカの軍事占領支配による沖縄県民の民族的屈辱、その中での想像に絶する苦しみの原因、こういったものの根源をなしておるのが天皇のアメリカGHQに対する申し出にある」と追及したが、天皇が戦前も大元帥の名で戦争を指導した戦争犯罪人だけでなく、戦後も沖縄をアメリカの全面的占領支配に追いやったこの罪を許すことはできない。引用ここまで

  

もう一つあります。「天皇メッセージ」を取り次いだ寺崎英成の評価です。

 これについては、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%B4%8E%E8%8B%B1%E6%88%90

に以下のように書かれています。東京の「特報」の解明が、極めて不十分だったこともあり、ここに資料を掲載することにしました。

 太平洋戦争開戦後は抑留され、1942年8月に、妻グエン、娘マリ子と共に日米交換船で帰国。戦争中は外務省の政務局第7課や第6課の課長を務めたが、病気のため1944年12月からは休職し、そのまま終戦をむかえた。1947年2月、宮内省御用掛(通訳)に任命され、昭和天皇とマッカーサー元帥との会見の通訳を数回務めると共に、GHQ側と戦犯関係を含む情報を交換提供した。1951年に、50歳の若さで死去。柳田邦男『マリコ』の主人公のモデルであり、この作品は、1981年にNHKでドラマとして放送された(主演滝田栄)。娘のマリコの家族が寺崎の遺品(保管していた文書類)から、昭和天皇が側近・侍従などを相手に、帝国日本の事情や開戦に至るまで経緯などが、率直に語られた記録(昭和天皇独白録)[1]が、1990年に『文藝春秋』で発表され話題を呼んだ。(引用ここまで

 

藤原彰・粟屋憲太郎・吉田裕・山田朗『徹底検証 昭和天皇「独白録」』(大月書店91年3月)より

 報告Ⅲ  吉田裕「『独白録』と『五人の会』」より

寺崎英成と松平康昌の役割

 まず、寺崎英成のほうからみていきます。彼については、柳田邦申心の『マリコ』があるイメージをつくっているのですが、柳田さんの著作をつうじて浮かび上がってくる寺崎のイメージというのは、アメリカ人を妻にもって、日米の平和のかけ橋になろうとした知米派の外交官、あるいは日米の開戦に反対した自由主義者、そういうイメージです。ところが、寺崎と同じ時期に駐米大使館に勤務していた藤山楢一―彼は戦後、外務省の高官になります―の回想が『側近日誌』の解説の中に収められているのですが、それによりますと、藤山さんは寺崎について次のように言っているのです。

    寺崎さんは太っ腹で親分肌のところがありました。頭山満を中心とした右翼団体、玄洋社の影響を受けており、大変な尊皇家でした。

  ということになると、さきほどの柳田氏の本から受けるイメージとは、ちょっと違うわけですね。

 さらに寺崎の別の顔を明らかにしたのは、『朝日ジャーナル』に連載された粟屋さんの「東京裁判への道」ですけれど、これによると、寺崎はGHQとのあいだに密接な連絡があり、IPS(国際検察局)の「極秘の情報提供者」という密命をおびていたことがわかります。

 さらに、彼はIPSのロイ・モーガン捜査課長と旧知の間柄であって、妻のグェンがマッカーサーの軍事秘書ボナー・フェラーズの遠縁にあたるという人脈もあって、GHQとのあいだに非常に太いパイプをもった人物であるということがわかるわけです。

 ちなみにぼくの調べたところによりますと、一九四六年五月に外務次官となる兄の寺崎太郎もIPSの「極秘の情報提供者」なのです。彼はIPSの尋問に応じて、とくに松岡洋右にかんする情報をIPSに提供していますが、その中では、松岡洋右を「拡張主義者」であるというように名ざしで非難しています。(引用ここまで

 

 粟屋憲太郎「報告Ⅳ 東京裁判と天皇『独白録』」より

寺崎英成の実像 

兄の太郎は、当時、外務省アメリカ局長で、英成は日本との暗号電報のキーワードに、一人娘の名、「マリコ」を用いた。(このあたりを軸にして『マリコ』という作品が書かれるわけであります。)日米間戦後、寺崎はいったん抑留されて、日米交換船で帰ってくるわけですけれど、身体を悪くし、一時期は静養している。そして戦後、一九四六年二月下旬、宮内省御用掛(通訳)に任命され、同年五月末の第二回天皇・マッカーサー会談をかわきりに、計五回、両者の会談の通訳にあたっています。宮内省は、外務省きっての知米派の寺崎を登用して、天皇問題に対処しようとしたわけです。寺崎は天皇の側近から、天皇の退位についてマッカーサーの真意をさぐってほしいとの特命を受けたと言われています。

 興味ぶかいのは、この寺崎にアメリカ側も早くから注目していたことです。機会主義者、宿命論者と言われているが、「彼は西洋の生活に通じているので、日本が敗北し占領されている現在、米国にとって有益な人材であると考えられる」とあります。海軍がまず目をつけた。

 しかし、それ以上に重要なのは、国際検察局の二代目の捜査課長で一九四六年一月末に来日したロイ・モーガンと寺崎の関係です。このモーガンと寺崎は既知の間柄だったはずです。モーガンは一九三四年から一九四四年までFBIに勤務し、太平洋戦争開始時に米国政府を代表して日独の外交官や在留民間人の拘禁と本国送還にあたっていますから、このとき、モーガンは寺崎に当然、接触して尋問しているはずであります。ちなみに太平洋戦争開戦直前の一九四一年十一月十八日付のFBIの報告全文は、こう記しているわけです。

   寺崎英成-日本大使館書記官たる同人は、米国内における日本の諜報作戦に関する調整、指導に責任をもっている。さらに寺崎は以前から必要なときに随時北米および中南米の日本人官公吏を訪れ、情報収集のため、彼らに接触するよう指示されており、その命令遂行のために十分の金員をあたえられている。同人は、メキシコ、中米、ペルー、エクアドル、その他の南米諸国を二万マイル以上にわたって旅行したことが判明している。同人の米国内の旅行は、彼がアメリカにおける日本のスパイの責任者の地位にあることを証明している。

  すなわち、FBIが、寺崎は要するにスパイであるという報告文をつくっているわけでありまして、当然モーガンは、このことを知っていますし、寺崎の弱みを握っているということであります。モーガンは、このようないきさつから寺崎に情報提供を依頼したのでしょう。

 一九四六年二月二十五日、寺崎の名が国際検察当局の文書に出てきます。モーガンがキーナンにあてた捜査課の活動報告においてです。この報告の冒頭で、モーガンは寺崎に触れています。すなわち、ここで次のように書かれています。 

   先週、日本外務省の有能な一員である寺崎英成(極秘の情報提供者)から、彼が日本の要人から個別に得た情搬を提供されたが、その内容は、主要被告に予定されている人物の多数にかかわるものであり、彼らへの尋問に十分活用できるものである。

この寺崎の情報の具体的内容は、二月十八日にモーガンが作成した「寺崎英成の陳述」としてまとめられています。これは、前に書いたことがありますが、一九三〇年のロンドン海軍軍縮条約をめぐるいきさつから始まり、その後の陸海軍の動向だとか、外務省ではだれが責任があるか、新官僚ではだれが責任があるかなどに触れ、その中で、いろいろな人物の名があげられております。…

そして、同じ三月七日にモーガンは、「松岡」と題して次のような情報を作成しております。

 寺崎英成は最近、天皇の御用掛に任命されたが、彼は私に二月二十八日ごろに宮中で天皇の昼食に陪席した際のことを報告した。この席で寺崎は天皇に、世上言われているように松岡外相が日ソ中立条約締結後のほぼ二か月後に対ソ開戦を主張したのは真実か、と尋ねた。寺崎によれば、天皇はこれを肯定したという。すなわち条約締結の二か月後、松岡が天皇のところへきてソ連への宣戦を要請したが、天皇は松岡に、この件について近衛首相と協議したかと問うと、松岡はしていないと答えた。このため天皇は松岡の願いを認めなかった。

 こういう情報が入っているわけです。ですからこの段階で、はじめて天皇の言動か寺崎をつうじてロイ・モーガン、そしてIPS(国際検察局)に伝わるようになる。これは、当然寺崎の個人プレーとはとても考えられないわけでありまして、吉田さんが言ったように、松平康昌宗秩寮総裁あたりの天皇側近の意向を受けたものでしょう。天皇問題についての占領軍側の確度の高い情報を日本側が入手するには、逆に日本側からの情報提供が必要だった。ですから国際検察局は、天皇への直接の尋問は避けたものの、間接的にでも天皇の「証言」はぜひとも入手したかった。この意味で寺崎は、両者の橋渡しをするにかっこうの人物だった。わるい言葉で言えば、ある意味では、寺崎は「ダブルースパイ」であった、「二重スパイ」であった、といっても過言ではないとぼくは思うわけです。

 さらにびっくりすることには、被告選定にあたっていた検察局の執行委員会の議事録をみると、三月十八日の項に、広田弘毅の被告選定が記されたあと、突然、「有末―天皇が、この男はなぜ逮捕されていないか、と尋ねたと言われている」との記事が出てくるわけであります。これは当然のことながら寺崎情報で、それは検察局の執行委員会の議論にまで出てきたのです。この「独白録」でもみられるように、天皇が有本をきらっていたことは歴然としておりまして、その意向が執行委員会に届けられたということです。有末は、かつては親独派であり、いまやGⅡのウイロビーとくっついているということで、天皇は、変わり身の早い有末に怒ったのかもしれません。

 寺崎は、この他にも情報活動をしたと思われるのですが、いまのところ不明です。とにかくこうした彼の非常に機微に満ちた行動は大きな収穫をもたらしたわけです。三月二十日、寺崎は妻グエンと娘マリコとともに、マッカーサーの軍事秘書ボナー・フェラーズ大佐から夕食に招かれた。フェラーズはグエンと遠縁にあたり、この席で、例の一月二十五日付のマッカーサーから米国陸軍参謀総長アイゼンハワーあての、天皇を戦犯にすべきでないとする電報の内容を寺崎に教えたわけです。こうして宮中関係者は、寺崎をつうじてマッカーサーの真意を知り、まずは胸をなでおろすこととなったのです。

 こののちも寺崎は、天皇の通訳をつとめるかたわら、総司令部に天皇の意向を間接的に伝えていたようであります。

 さっき話に出た天皇の「沖縄メッセージ」も、寺崎、総司令部政治顧問シーボルトをつうじて、米国に伝えられたわけであります。

要するに、この「独白録」が寺崎のところから出てきた、という意味はそこにあるわけでして、私の推定では、こういう積み重ねがあって、もし必要となるならば、証人には立たないけれども、裏から寺崎が情報を検察局に提供しようと思っていて作成した文書で、英語に翻訳するために手を入れたものではないか、というのが私の推測するところです。私がワシントンヘ行って調べた段階では、この「独白録」はIPSの文書の中になかったところから推定すれば、これは検察局には渡されなかったのではないか、という判断を、いまのところしています。引用ここまで