産経の嘘つき浮き彫りの「建国記念の日」=「紀元節」論!
こんな大ウソを吐ける日本は「平和」ということか!
オレオレ詐欺新聞=産経
全国紙と地方紙の中で唯一、「建国記念の日」について、「社説」産経の場合は『主張』を掲載しました。産経らしいと言えば、そのとおり!です。しかし、産経には、「建国記念の日」の由来・歴史・果たしてきた役割について、身勝手な思想浮き彫りになります。以下検証してみます。
1.わが子の誕生を喜ばない親はまず、いまい。その後の子供の成長を願わない親もいないはずで、「這(は)えば立て、立てば歩めの親心」とはまことにもって至言である。
戦前天皇は「臣民」の親と言われていました。「赤子」という言葉が象徴しています。産経の、戦前の「道徳」=「修身」のデタラメさ、スリカエが浮き彫りです。何故か。「教育勅語」にあるように、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ持って天井無窮の皇運を扶翼すべし」と「天皇のために死ぬ」ことを最大の『徳目』『美徳』に収斂していくのです。
産経の言うことが、如何にデタラメか、浮き彫りになります。親である天皇のために、子どもに「死ねと。子どもを殺すのです。それを学校教育で、社会で当然視していたのです。産経は、そのことを覆い隠し、美化するのです。スリカエです。
2.「日本書紀によれば日本国の誕生(建国)は紀元前660年で、その年、初代神武天皇が橿原の地(奈良県)で即位した」「日を現行暦にあてはめ」「『2月11日』を紀元節と定め、日本建国の日として祝う」「紀元節の制定は」「西欧列強による植民地化の脅威が迫るなか」「建国の歴史を今一度学ぶことで国民に一致団結を呼びかける意義があった」が、このこととで、国民に、そしてアジアの人々に、欧米に、何をやったか、いっさい語っていません。
「紀元前660年」に「初代神武天皇が橿原の地(奈良県)で即位」などということはあり得ないのに、あたかも「事実」であるかのようにスリカエるのです。しかも何故紀元前660年なのか、全く明らかにしません。
辛酉革命https://kotobank.jp/word/%E8%BE%9B%E9%85%89%E9%9D%A9%E5%91%BD-82671
辛酉http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E9%85%89
明治時代の学者那珂通世は、神武天皇の即位の年代について、「革命勘文」にある鄭玄の注「天道不遠 三五而反 六甲爲一元 四六二六交相乗 七元有三變 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」を挙げ1260年に一度(干支一周の60年(1元)×21元=1260年=1蔀)の辛酉の年には大革命があるとし、推古天皇9年(601年)がその年に当たり、この年の1260年前である西暦紀元前660年に神武天皇が即位したとされたとする説を立てた。(引用ここまで)
推古天皇の601年から1260年後に、神武天皇即位に匹敵する歴史的事件はどうだったか!と、明治の人たちは考えなかったのでしょうか。それとも、そのような疑問を持つことは許されなかったのでしょうか。産経は黙殺です。因みに、それは1861年です。残念でした。大変革は1867年でした。大政奉還です。では1861年から1260年後はどうでしょうか。
もう一つ。「対中脅威」論を、その強固な思想として持って煽っている産経が絶対に口にしないことです。それは、この「建国思想」の拠り所は中国思想だということです。
もう一つ。「天皇」号の由来はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87
「天皇」という称号の由来には、複数の説がある。古代中国で北極星を意味し道教にも取り入れられた「天皇大帝」(てんおうだいてい・てんのうたいてい)あるいは「扶桑大帝東皇父」(ふそうたいていとうこうふ)から採ったという説。唐の高宗(在位期間649年-683年)は道教由来の「天皇」と称したことがあり、これが日本に移入されたという説。5世紀頃には対外的に「可畏天王」、「貴國天王」あるいは単に「天王」等と称していたものが、推古朝(593年-628年)または天武朝(672年-686年)に「天皇」とされた等の説。(引用ここまで)
どうでしょうか。紀元前660年が、如何にゴマカシか!しかも、「中国生産」なのです。しかも「紀元節」を「2月11日」にしたのも、曖昧です。それはそうです。記録がありません!http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%85%83%E7%AF%80
3.「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」したと日本国憲法前文にあるように、どのようにして「政府の行為によって」「戦争の惨禍」が引き起こされたのか、全く無視・黙殺です。それは都合が悪いからです。身勝手です。戦争で殺された人々に対する不道徳極まりない暴挙です。
4.だから「先の敗戦で紀元節は廃止されたものの」とゴマカスのです。侵略戦争を正当化する産経・安倍首相が浮き彫りになります。何故「紀元節」が廃止されたのか、語らないのです。
5.しかし、「昭和41年、2月11日は「建国記念の日」に制定され、祝日として復活した」とありますが、「憲法記念日」などという言葉があるのに、また「日本建国の日として祝う」日だったのに、何故「建国記念の日」となったのか、その経緯も黙殺です。
強固な反対があったため「建国記念日」とすることができず、「建国を記念するという日」と曖昧にしなければならなかったのです。この事実についても、産経は沈黙・黙殺です。
そうしておいて「国家誕生の歴史に思いをはせる大切さは、今ももちろん変わっていない」などと情緒的に表現してスリカエ、ゴマカシ、デタラメで、大ウソをつくのです。
6.「誕生以後の日本を少しでもよい国にしようと、先人らが血のにじむ努力を重ねてきたことである」などと、「日本」という言葉が、一般的に使われていたかのようにゴマカスのです。この場合「先人ら」とは、いつごろの「先人ら」なのか。全く無視です。
「紀元節の制定は、建国の歴史を今一度学ぶことで国民に一致団結を呼びかける意義があった」とあるように、明治期においても、「日本」という『自覚』は、どこまで「国民」に浸透していたのか、明瞭です。産経自身が語っているのです。「日本」の「歴史」について、全く判っていない人間が書いていることが浮き彫りになります。
そのような人間が、「現在を生きる国民もまた、さらによい国にして次の世代に引き継がねばならないなどと説教を垂れるのです。呆れます!バカにしています。
7.そして突然「慶応義塾の塾長を務めた小泉信三は昭和33年、防衛大学校の卒業式で祝辞を述べた」と、飛躍させるのです。でも、これが一番言いたかったことなのです。
しかし、小泉がこのような言葉を防衛大学で吐いたのは何故か。全くスルーしているのです。
以下を視れば明らかです。産経は、このことを語れません。何故か。アメリカに、日本を売り渡した事件だったからです。産経の言葉をそのまま、この事実と重ねると、安倍首相や産経の言葉が、如何にデタラメか、浮き彫りになります。自らに、「説教」をしろ!ということです。
伊達判決とはhttp://datehanketsu.com/toha.html
1955年に始まった米軍立川基地拡張反対闘争(砂川闘争)から、1959年3月30日、伊達秋雄裁判長は「米軍が日本に駐留するのは、わが国の要請と基地の提供、費用の分担などの協力があるもので、これは憲法第9条が禁止する陸海空軍その他の戦力に該当するものであり、憲法上その存在を許すべからざるものである」として、駐留米軍を特別に保護する刑事特別法は憲法違反であり、米軍基地に立入ったことは罪にならないとして被告全員に無罪判決を言い渡しました。最高裁では田中耕太郎長官自らが裁判長を務め同年12月16日、伊達判決を破棄し東京地裁に差し戻しました…。そしてこの判決の1ヶ月後の60年1月19日、日米安保条約の改定調印が行われ、現在までつながっているのです。(引用ここまで)
8.後は、お決まりの「脅威」論です。「脅威」を煽るのです。「脅威」が事実とするならば、それを取り除くために憲法9条を使って「対話と交流」を多様に具体化すれば良いのです。そんなことはしません!それは、夢をもう一度だからです。
9.「紀元節制定時に倣って今こそ、国を挙げ『日本人自身が日本を衛る』覚悟を決めなければならない」とマジに思っているからです。
「紀元節制定時」とは、どういう時代であったか、そしてその後はどうだったか。全く判っていません。国民とアジア諸国を苦しめたことなど、頭の中には微塵もありません。
イヤ意図的です。ゴマカスのです。物凄い思想・思考回路です。時代錯誤も甚だしい限りです。こんなデタラメで、国民をだまそうとしているのです。これはオレオレ詐欺と同じです。偽装・偽造の国家像と歴史像で、国民を扇動していこうとしているのです。
しかも、対中「脅威」論を煽りながら、中国思想を使って!こんな連中に日本を語る資格はありません!愛国心を語る資格なし!
紀元節=「建国記念」の日と真逆の思想は日本国憲法だ!
憲法制定・公布・施行日、これこそが日本国の建国記念の象徴日だろう!
産經新聞 建国記念の日/「よりよき国に」の覚悟を 2015/2/11 6:00
http://www.sankei.com/column/newslist/../../column/news/150211/clm1502110002-n1.html
わが子の誕生を喜ばない親はまず、いまい。その後の子供の成長を願わない親もいないはずで、「這(は)えば立て、立てば歩めの親心」とはまことにもって至言である。
国家についてもまったく同じことが言えるのではなかろうか。
日本書紀によれば日本国の誕生(建国)は紀元前660年で、その年、初代神武天皇が橿原の地(奈良県)で即位した。明治6年、政府はその日を現行暦にあてはめた「2月11日」を紀元節と定め、日本建国の日として祝うことにしたのである。
西欧列強による植民地化の脅威が迫るなか、わが国は近代国家の建設に乗り出したばかりで、紀元節の制定は、建国の歴史を今一度学ぶことで国民に一致団結を呼びかける意義があった。
先の敗戦で紀元節は廃止されたものの昭和41年、2月11日は「建国記念の日」に制定され、祝日として復活した。「建国をしのび、国を愛する心を養う」と趣旨にうたわれているように、国家誕生の歴史に思いをはせる大切さは、今ももちろん変わっていない。
ただ忘れてはならないのは、親心と同様に、誕生以後の日本を少しでもよい国にしようと、先人らが血のにじむ努力を重ねてきたことである。現在を生きる国民もまた、さらによい国にして次の世代に引き継がねばならない。
慶応義塾の塾長を務めた小泉信三は昭和33年、防衛大学校の卒業式で祝辞を述べた。その中で小泉は、先人の残したものをよりよきものとして子孫に伝える義務を説いたうえで、こう続けた。
「子孫にのこすといっても、日本の独立そのものが安全でなければ、他のすべては空(むな)しきものとなる。然(しか)らば、その独立を衛(まも)るものは誰(だ)れか。日本人自身がこれを衛らないで誰れが衛ることが出来よう」(小泉信三全集から)
57年前の言葉がそのまま、目下の国防への警鐘となっていることに驚かされる。中国の領海侵入などで日本の主権が脅かされているばかりか、国際的なテロ組織によって国民の命が危険にさらされてもいる。
だが、わが国の現状は、自らの国防力を高めるための法整備も十分ではなく、その隙をつかれて攻撃される恐れもある。紀元節制定時に倣って今こそ、国を挙げ「日本人自身が日本を衛る」覚悟を決めなければならない。(引用ここまで)