つづき
前号で、昨年の「閣議決定」に基づく安保法制の「争点」を明らかにした社説を検証してみました。そこで、今回は中国新聞が、昨年集団的自衛権行使論について、どのようなことを言っていたのか、社説を中の一文を掲載して、その思考回路の問題点を明らかにしてみることにしました。そこには何があるか、ポイントをまとめてみますと、
1.憲法9条の原点まで踏み込んでいないことが判ります。これが現在の日本の大方の考え方ではないかということが判りました。すなわち、憲法9条は、紛争の火種をなくしていく絶好の手段であること、また紛争を解決する手段として非軍事的手段を使うということですが、このことに踏み込んで、安倍式集団的自衛権を論じていないことです。
2.戦後憲法9条を変質させてきた歴史から学んでいないことです。立法改憲を断念した自民党政権が解釈改憲に世って、9条を使うのではなく、形骸化させ、ボロ雑巾のようにズタズタにしてきたことです。
3.それでも、自民党の憲法9条改憲の野望を挫いてきたことを、評価しつつも、本来の憲法9条の価値を具体化することをサボってきたことを曖昧にしていることです。
4.ソ連脅威論、中国脅威論、北朝鮮脅威論、テロ脅威論を口実にして、憲法9条の解釈改憲と自衛隊の海外派兵を既成事実化してきたことを曖昧にしていることです。
5.マスコミが支持をしてきた自民党の専守防衛論と集団的自衛権行使否定論を否定する安倍政権に戸惑いながら、憲法9条の立場から否定・批判することができないことを浮き彫りにしました。
6.その最大の要因は日米軍事同盟を容認していることです。米英仏豪の「有志連合」に参加することの意味は、「軍事同盟」を基軸にした集団的自衛権を行使することを意味しているのですが、このことを憲法9条の理念を使って明確に批判できないことを浮き彫りにしています。このことは中国新聞でさえも、ということですから、大方の日本の新聞が陥っている最大の欠点と言えます。これで、国民をミスリードしているのです。
9.だから「手続き」論から、安倍政権を批判しているのです。だから、その視点からの「撤回」論は、極めて弱いものとならざるを得ません。憲法9条の「根幹」を一応述べてはいますが、徹底して「撤回」論に基づいて批判を展開していません。「歯止め」論からしか批判できないのです。
10.それは「脅威」論に対抗するためには「軍事抑止力」論を優先するからです。徹底して「非軍事抑止力」論の立場に立たない、立てないのです。ここに歴史の教訓に立っていない欠点があります。核抑止力論を前提とする日米軍事同盟を容認していることに象徴的です。
以下、中国新聞が社説で述べている言葉を分類しながら、まとめてみました。前号の社説と比較してご覧ください。
中国新聞が語っていたことは何か!
そもそも憲法9条の原点とは何か!
憲法の理念に立ち返らねばならない。9条は1項で戦争を永久に放棄し、2項で戦力の不保持を定める。戦後の日本が一貫して平和を維持し、経済的な発展を続けてきたのは、この最高法規を国民が支持し、平和を愛する国家として国際的な信用を得てきたところが大きい。
被爆地が最も心配するのは、集団的自衛権の行使が抑止力になるという安倍首相の姿勢そのものだ。いくら非核三原則を堅持し、核兵器廃絶の先頭に立つと強弁したところで、米国の核抑止力に自国の安全保障を頼る姿勢は何ら変わっていない。しかも、抑止力にたのむ考えを強調すればするほど、その延長線上に自国の核武装があるのではとの疑念も膨らむ。多くの被爆者や市民が違和感を拭えないのは、その点が大きい。長い時間をかけて被爆者が体得したのは平和を希求する理念であり、対立より和解を求める精神だった。それを踏みにじる被爆国の振る舞いが許せない。被爆地が最も心配するのは、集団的自衛権の行使が抑止力になるという安倍首相の姿勢そのものだ。いくら非核三原則を堅持し、核兵器廃絶の先頭に立つと強弁したところで、米国の核抑止力に自国の安全保障を頼る姿勢は何ら変わっていない。しかも、抑止力にたのむ考えを強調すればするほど、その延長線上に自国の核武装があるのではとの疑念も膨らむ。多くの被爆者や市民が違和感を拭えないのは、その点が大きい。長い時間をかけて被爆者が体得したのは平和を希求する理念であり、対立より和解を求める精神だった。それを踏みにじる被爆国の振る舞いが許せない。
戦争と戦力の放棄を掲げる日本国憲法の平和主義が、大きな曲がり角に差し掛かったと言わざるを得ない。自衛隊が発足して60年のきのう、政府は集団的自衛権の行使を可能とする憲法解釈の変更を閣議決定した。わが国はこれまで、先の大戦でアジアや国内に数多くの犠牲を強いた反省から、憲法で武力行使を禁じ、戦争を放棄した。今回の閣議決定はこの精神を骨抜きにするものだ。
米軍を違憲とした伊達判決を覆した砂川違憲判決を悪用する安倍首相!
憲法9条違反の自衛隊を「合憲」とスリカエる!
最近も、高村正彦自民党副総裁が55年前の砂川事件最高裁判決を持ち出してきた。これもまた、首をかしげざるを得ない。しかも判決が、安保条約という高度な政治に司法の審査権はなじまない、と言及した点は見過ごせない。さらに最高裁長官が米高官と密談し、裁判官の評議の内容に立ち入るような事前説明をしていたことも近年、米公文書から明らかになった。この国の司法権は憲法76条に定めがある。裁判官は良心に従って職権を行い、憲法と法律にのみ拘束されるという。最高裁の評議に外圧があったとすれば、憲法と法律以外の何ものかに拘束されたことになろう。この国の在り方を根本から揺るがすような解釈変更の根拠にするのなら、「切り貼り」ではなく論点を全て洗い出して国民に説明すべきだろう。
その根拠として自民党の高村正彦副総裁は、在日米軍の合憲性が問われた砂川事件の1959年の最高裁判決を挙げた。「自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置」を認めた判決が、既に集団的自衛権を想定したものという主張である。あまりに強引ではないだろうか。そもそもこの判決は、集団的自衛権が論点ではない。その証拠に判決後、歴代の自民党政権はずっと集団的自衛権を認めない判断を堅持してきた。今頃になって、自説に都合よい文言だけ切り取り、見直しの論拠とするのは説得力を欠く。
9条を変質させた「専守防衛」論の「効力」が安倍首相によってボロ雑巾に!
あらためて条文を読んでみよう。9条は1項で、戦争と武力行使を放棄した。さらに2項は「戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と続く。政府は、自衛に必要な最小限度の実力を持つことまでは禁止していないと解釈してきた。個別的自衛権は認められ、自衛隊は戦力には該当しないというわけである。ところが集団的自衛権を行使すれば、その必要最小限度の範囲をゆうに超えてしまう。だから認められない—。1970年代から一貫してきたこの政府解釈は、二度と戦争を起こしてはならないという憲法の根本理念から考えても、至極当然だったといえよう。
憲法第9条は武力の行使を「国際紛争を解決する手段としては永久に放棄する」と定めている。集団的自衛権に基づく武力の行使を、たとえ最小限であれ認める閣議決定は、まっとうな解釈には程遠い。国是としてきた「専守防衛」や、憲法3原則の一つ「平和主義」を逸脱する危険性が拭えないからだ。わずか1カ月余りの密室協議で、戦後日本が歩んできた道を百八十度ひっくり返していいものだろうか。
9条を変質させてきた日米軍事同盟の存在を容認する思考回路の矛盾浮き彫り!
国際法に違反したアフガンイラク戦争加担を容認するトンデモ思想!
日米軍事同盟に基づいて協力加担したことの犯罪的役割を黙殺!
無辜の民をどれだけ殺し財産を破壊したか、想定すらできないのか!
憲法9条は「自分だけが良ければ」というものではないぞ!
これまでの自衛隊の海外派遣の歴史を忘れてはなるまい。1991年の湾岸戦争後、ペルシャ湾の機雷除去に海上自衛隊が出動したのを契機に、国連平和維持活動(PKO)、アフガニスタンやイラク戦争での後方支援と広がっていった。首相は「日本が再び戦争をする国になることは断じてあり得ない」と強調している。だが今後の政権でも、同じことがいえるだろうか。いったんたがを外せば、なし崩しになる恐れは否めない。将来の国の在り方を大きく変える安全保障政策については、時間をかけ国民的な議論を深めることが不可欠だ。時の政権が重大な政策転換を、思うように憲法解釈を変更して実現しようとすることは許されない。
自衛隊の海外派遣が拡大してきた現実は否定できない。湾岸戦争後、中東のペルシャ湾に始まり、国連平和維持活動(PKO)につながった。アフガニスタンやイラク戦争では後方支援を担った。とはいえ、米国と同盟国にありながら、戦争に直接は巻き込まれずにきた。9条が存在したからこそ平和国家が成り立ってきたのもまた、歴史的事実であろう。東西冷戦が終わっても各地で国家間の緊張は続く。人類はテロや核拡散の不安から逃れられないでいる。だからこそ私たちは、戦争の痛みを忘れず、9条を手に平和外交を究めていく。それこそが真の「積極的平和主義」ではなかろうか。
そもそも安倍晋三首相が常々語る積極的平和主義は、自衛隊の海外展開を念頭に世界の平和と安定に貢献するという考え方である。憲法解釈の変更で容認を目指す集団的自衛権の行使とも密接に関係している。
日米軍事同盟を容認しながら憲法9条を使わない政治が国民を惑わす!
自衛隊は発足して先月で60年を迎えた。違憲論もあったが、多くの国民が肯定し、信頼しているのは確かだろう。しかし海外派遣など、憲法の平和主義の理念とのずれはあいまいなまま、国際情勢の変化に合わせて、なし崩しに役割を拡大してきた側面は否めない。自衛隊にどの範囲まで役割を担わせるか、歯止めがないまま、安保政策を急激に転換させては国民が戸惑うばかりである。現に先日、共同通信が実施した世論調査では、閣議決定の説明について84%が不十分だと答えている。国を守るための活動だと国民から信頼されてこそ、自衛隊員は士気を保てるのではないか。国民の理解と活動にギャップがあるようでは何より現場が困る。いま一度、国民的な議論があってしかるべきではないか。
首相は衆院で過去の政府答弁書にも異を唱えた。異例のことだ。集団的自衛権行使が認められなくても不利益は生じない—という1981年の答弁書について「紛争国から逃れる邦人を輸送する米艦船を自衛隊が守れなくていいのか。これは明らかに不利益だ」と述べた。歴代政権はあくまで憲法9条の縛りを前提に、自衛隊の国連平和維持活動(PKO)などを憲法解釈によって可能にしてきた。その積み重ねが安保法制懇報告や閣議決定だけで覆るとすれば、立憲主義の危機と言わねばなるまい。首相はきのう参院外交防衛委員会に臨み、集団的自衛権の行使容認に向けた憲法解釈変更について、年末の日米防衛協力指針(ガイドライン)改定までに閣議決定して反映させたいとの意向を表明した。スケジュールありき、が透けて見える。
安倍首相の集団的自衛権行使論と国民の反応
先月の共同通信の世論調査では6割が行使容認に反対と答えている。今になって、ガイドライン改定も関連法の整備も急がないと政府が言い出して、それで済む話ではない。ここは国民的議論を抜きにした閣議決定を白紙に戻し、一から出直してはどうだろう。
閣議決定後の共同通信社の世論調査によると、内閣支持率は47・8%と4・3ポイントも下落。集団的自衛権の行使容認への反対は54・4%と半数を超えた。安倍政権はこの変化を甘く見ていたのではなかろうか。
安倍政権の行き過ぎにどう歯止めをかけるのか。今後の選挙で大きな争点になるのは間違いない。世論調査ではここまで安全保障政策を転換するなら政権が信を問え、という声が68%を占めた。少なくとも来年は統一地方選がある。
徹底した話し合い・議論を要求していながら
偏狭な「野党」論に基づく「野党だらしない」論を吹聴して「政治不信」扇動!
集団的自衛権の行使容認は、日本の将来を左右する重要局面にほかなるまい。その中で野党は何をしているのか。自信満々の安倍晋三首相を見るにつけ、首をひねりたくなる。自民党と公明党の議論の拙速さがこれほど露呈したのに、野党側は待ったをかけるどころか存在感すら示せなかった。民主党など5党の党首らは閣議決定に合わせた都内の街頭演説で首相を批判したものの、形ばかりの印象も拭えない。
野党は、憲法解釈を変更する閣議決定に対して日本維新の会は賛成するようだが、民主党などは反発している。国会での議論が必要という声は強まっているものの、具体的な対抗策は浮かんでいない。
「だらしない野党」を吹聴するからこそ公明党ブレーキ役論で期待を持たせる
ブレーキ役は何らの役にも立たなかった!なのに・・・
これまでの協議を振り返ると終始、自民ペースで進んだように映る。公明がブレーキ役を果たせなかったのは、「連立与党からは離脱しない」と見くびられていたためではないか。これまで公明が訴えてきた「加憲」とは、無理を通した解釈を憲法に加えることではなかったはずである。きょう地方組織の声も聞くようだが、「連立ありき」で党内意見を集約すれば、禍根を残しかねない。
公明党は一方で、憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認については、慎重姿勢を崩していない。認めれば平和の党としての存在意義が失われかねないからだ。ただ、連立の解消は考えていまい。来春の統一地方選が近づけば、自民党も世論が割れるテーマは議論しにくくなるとみて、先延ばしを狙っているとの見方もある。
公明党の北側一雄副代表はきのうの番組で「スケジュールありきではない」とくぎを刺した。行使容認を認めない憲法解釈を尊重してきた姿勢を貫けるのか、正念場であろう。
「脅威」を煽る安倍首相に憲法9条の「非軍事抑止力」論の対抗軸を示せない
しかし安倍首相はこれまで通り自らの考えを語ることに終始し、議論はかみ合わなかった。真っ先に首相が強調したのは、海洋進出を強める中国や、核・ミサイル開発を続ける北朝鮮の動きだ。日本を取り巻く安全保障の環境が厳しくなっているのは確かだろう。だが首相の前のめりの姿勢には危うさを感じずにはいられない。首相は「必要最小限度」の集団的自衛権の行使として、「近隣国」の紛争で避難している日本人を運ぶ米艦船を自衛隊の艦船が守る事例を挙げた。「国民の命を守るための憲法が、その責任を果たさなくてもよいと言っているとは思えない」と強調し、いまの憲法でも認められるとの考えを示した。
閣議決定撤回を要求している!しかし・・・
安倍政権は今後、関連する法整備を進めるという。憲法や安全保障の在り方を議論することは当然必要だが、このまま将来に禍根を残していいものか。閣議決定は撤回し、議論を白紙に戻すべきである。閣議決定後に記者会見した安倍晋三首相は「日本に戦争を仕掛けようとするたくらみをくじく」ことにより、「戦争に巻き込まれる恐れは一層なくなる」と述べた。詭弁(きべん)ではなかろうか。自国だけでなく他国も守るのが集団的自衛権の行使であり、第三国の攻撃にさらされる可能性は広がる。たとえ武力行使を「他に手段がない時に限られ、必要最小限度」としても、戦争に巻き込まれる危険性は増えこそすれ、なくなるとは考えられない。ほかにも閣議決定の文章は随所に、曖昧さと危うさが潜む。その典型の一つが、新たな武力行使の要件である。国家の存立や国民の権利が根底から覆される「明白な危険」がある場合などに限られるというが、あまりに抽象的だ。いくらでも拡大解釈でき、武力行使の範囲が広がる余地が残る。
「話し合いで明らかにしろ」式「説明責任」論で既成事実化を容認する
話し合えば憲法9条は変えても良いのか!その程度のものか!9条は!
本紙が先月末に中国地方選出の議員に実施したアンケートでは、8割が行使容認に賛同し、大半が限定的容認を支持している。衆参に憲法審査会はあるが、これまでに十分議論したとはいえまい。与野党の議員は、国会で審議を尽くすすべを探るべきである。
国民の命と平和な暮らしを守る手段が、なぜ集団的自衛権でなければならないのか、国民の多くも納得できないはずだ。まずは国会審議や与党協議で議論を尽くしてもらいたい。
憲法の根幹をなす9条の解釈を変えようという主張だ。安倍政権は主権者である国民への丁寧な説明と、議論を尽くすことを優先すべきではないか。与野党は論争を通じて問題点を洗い出す役割を果たすべきだ。
協議では、焦らずに問題点を洗い出してほしい。
民意を置き去りにしたまま、自公協議だけですべてを決めるとでもいうような進め方は許されまい。憲法解釈の変更が絡んでいる。国民のためというのなら、いっそのこと協議の場を公開してはどうだろうか。
安倍首相の大ウソ浮き彫り
首相はおとといの衆院予算委員会で、憲法解釈で禁じている「他国の武力行使との一体化」の制限緩和を検討していく方針を表明した。「判断基準をより精緻にし、何が一体化する行為なのかを明確にする」という。これはかつて政府が、イラク戦争などの際に定めた自衛隊の支援活動を認める地域、すなわち非戦闘地域の見直しを意味すると受け取れよう。首相は「武力行使を目的に戦闘行為に参加することはしない」とも明言した。いわゆる海外派兵はしないという。当然のことだろう。むしろ世論が危惧するのは、戦闘行為に巻き込まれる事態ではないのか。その疑問に答えたとはいえまい。
安倍政権の基盤脆弱性の大本にあるのは民意切り捨てではないのか!
「脅威」論に対抗する9条の本質が判ってない!
安倍式「脅威」論と集団的自衛権論に9条を対置できていない!
安倍政権が解釈変更を急ぐのには理由があるのだろう。アベノミクスで企業の業績は上向き、春闘でも賃上げの機運が広がった。内閣支持率は一定に高い。片や、野党はいずれも支持率の低迷にあえいでいる。しかし今後、消費税増税の影響による景気次第では、政権の勢いが一転しかねない。だからこそ今のうちに、集団的自衛権の行使容認に道筋を付けたいのかもしれない。とはいえ、時の政権がその勢いに乗じ、解釈改憲で国の生命線ともいえる針路を定めてしまうやり方は、国民を危うくすると言わざるを得ない。東アジア情勢は変化しつつある。日本の防衛体制を不断に見直すことは欠かせない。ただ集団的自衛権をめぐるスタンスを変えれば、戦後日本の平和主義が揺らぎかねない。
アベノミクスの神通力に陰りが出始め、景気の行方に不透明感が強まってきた。さらに来年の統一地方選を視野に入れれば、国民の反発が強い集団的自衛権論議は棚上げし、当面は景気対策に専念するのが政権浮揚に得策というのである。これでは、ご都合主義と言われても仕方あるまい。日本が今後も防衛力を高めていくならば、その分、米軍への依存度は下げられよう。在日米軍基地の在り方、ひいては日米安保条約や地位協定を根底から見直す時でもあるはずだ。
国民が説得していないのは手続きに問題があるからか!
拙速でなければ、安倍式集団的自衛権行使論は容認するのか!
武力行使への歯止めが十分でなく、解釈変更による行使容認にはいまだ異論が強い。勇み足といえないか。
国の安全保障の形を大きく変える集団的自衛権の行使を容認するのであれば、憲法の改正が筋であるとの意見は根強い。それをあと2週間足らずの間に、閣議決定で済ませようというのは、あまりに拙速である。
首相自身の強い思いは伝わってくる。しかし、自分の考えと近い専門家を集めた懇談会や、反対意見を聞く国会審議を避けるかのような進め方をみると、民主主義の手続きを踏もうという姿勢は感じられない。このままでは、憲法解釈を変えてまで集団的自衛権の行使を認める必要があるか、国民にとって判断材料が乏しい。国際情勢の変化があるとはいえ、安全保障で切迫している状況とは具体的に何なのか。それは現行の憲法解釈や法律で対処できないのか。そもそも国の在り方を変えるというなら、どんな国を目指すのかも問われよう。
武器輸出禁止三原則否定閣議決定によるなしくずしに対して批判もせず
そもそも憲法9条のある国が武器を生産し所持し販売するのは、妥当か!
従来の三原則でも「例外」が積み重ねられてきた。しかし原則禁輸の政府方針が、野放図に輸出が増えることへの歯止めになっていたのも事実だろう。武器輸出がなし崩しになるのをどう防ぐのか。新たな三原則を決めた安倍政権には、その運用が厳しく問われよう。新原則の前文は、積極的平和主義を掲げている。だが武器輸出の拡大がなぜ平和につながるのかと、首をかしげる国民は多いだろう。
新原則は禁輸の対象として引き続き「紛争当事国」を盛り込んだものの、従来の原則にはあった「紛争当事国になる恐れのある国」との文言を外した。文面上は、これまで控えてきたイスラエルや中東諸国へも武器を売ることができると読める。だが日本が紛争に巻き込まれないためには、そうした道を開くことがあってはならない。
新原則についても中国や韓国など周辺国から厳しい視線が注がれていることを忘れてはなるまい。日本が引き続き平和国家をうたうのであれば、武器輸出には努めて抑制的な姿勢が求められよう。(引用ここまで)
集団的自衛権行使の閣議決定を前提として、「イスラム国」を口実として、予てから画策していた中東政策を表面的には「人道」だと言いながら、「侵略」的な政策に発展させていくことが、いっそう浮き彫りになってきました。
それは米英仏豪の仲間入りとなることで証明されます。何故か。いわゆる軍事中心の「有志連合」に参加するからです。「後方支援」「人道支援」も大ウソです。しかも昨年の閣議決定の際の安倍首相自らの言い分すら否定するのです。
ここに、安保法制を遅らせた理由がハッキリしてきました。昨年1月砂漠を想定した日米軍事合同訓練を経て、閣議決定に持ち込み、「イスラム国」を挑発して日本人を虐殺させ、これを口実に、米英仏豪同盟に日本を持ち込むのです。これがネライでした。少なくとも、どのようにして、この有志連合に参加できるようにしるか。安倍首相の言動を関連させていけばこの野望が浮き彫りになります。
このことは、軍事同盟によって第一次・第二次世界大戦の原因となった歴史の教訓を否定する暴挙に出たというべきです。
日米軍事同盟と米豪軍事同盟とEUをリンクさせ、中東やアフリカ、中南米など、まさに地球儀を俯瞰している中国の戦略に対抗する対中包囲網作戦の一環として行われていることは、安倍首相の地球儀を俯瞰する外交政策と機を一にしていることが、何より示しています。
そのような暴挙に出るのは何故でしょうか。それは地球儀を俯瞰する安倍外交に同行している日本の多国籍企業、財界の思惑があるからです。彼らの利益を守るために自衛隊と米英仏豪の軍事力が必要不可欠と考えているからです。そのためにもアベノミクス成長戦略の成功が必要不可欠なのです。軍事力には、カネが必要だからです。
しかし、この野望が、必ず失敗することでしょう。何故ならば、国民生活を切れ目なく守ることはしないからです。ここに根本的矛盾があります。