愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

あら、あら、またしても九条外交で独自性を見せず、日本国民を思考停止に導く軍事外交に

2012-03-20 | 日記
野田首相が防衛大学で思考停止の「祝辞」を送った。自衛隊の最高指揮官になることを約束されている「幹部候補生」も同じだろうか?

だとするならば、旧参謀本部・軍令部と同じだな。偽りの「エリート」集団だ。恐ろしい限りだ。

北朝鮮、中国の動きに懸念…防大卒業式で首相(2012年3月18日19時00分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120318-OYT1T00454.htm
防衛大学校卒業式で訓示する野田首相(18日、横須賀市の防衛大で)=高橋美帆撮影
 野田首相は18日、神奈川県横須賀市の防衛大学校の卒業式で行った訓示で、日本の安全保障を取り巻く情勢について「厳しさを増すと同時に複雑さを呈し、不透明感が漂っている」と強調した。
 懸念される動きとして「核・ミサイル問題を含む北朝鮮の動き」を挙げたほか、中国についても「軍事力を増強し、周辺海域において活発な活動を続けている」と指摘した。
 首相は自衛隊の東日本大震災での活動にも触れ、「長く歴史に刻まれる」と高く評価した。
 2011年度の卒業生は留学生12人を除き、372人(うち女性32人)。自衛官にならない任官拒否者は4人で、1972年度の5人以来、最も少なかった。

互いに「挑発」を繰り返し、無批判に報道する日本のマスコミは、国民に何を求めているのだろうか?

ミサイル発射予告、「重大な挑発的行為」と韓国
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20120319-OYT1T00339.htm
 【ソウル=宇恵一郎】韓国の李明博大統領は19日、外交安保関係閣僚会議を開き、北朝鮮の長距離弾道ミサイル発射予告問題について対応策を協議した。
 韓国大統領府によると、会議では、北朝鮮が「実用衛星打ち上げ」と主張していることについて、「弾道ミサイル技術を利用して核弾頭の長距離運搬手段を開発する重大な挑発的行為」と結論づけた。韓国政府は、26、27日にソウルで開かれる核安全サミットを機に訪韓する米国、日本、中国、ロシア、欧州連合(EU)など主要国・地域の首脳と、この問題を協議し、国際社会と協調して対応していく。
(2012年3月19日11時10分 読売新聞)

北朝鮮「無言の宣戦布告」と反発…米韓軍事演習 (2012年2月27日13時01分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20120227-OYT1T00519.htm

 【ソウル=門間順平】朝鮮半島有事を想定した米韓合同軍事演習「キー・リゾルブ」が27日、韓国全土で始まった。北朝鮮での金正恩(キムジョンウン)新体制発足後初めての米韓合同軍事演習で、並行して野外機動訓練「フォール・イーグル」も行われる。
 米韓連合軍司令部によると、キー・リゾルブは朝鮮半島有事の際の韓国防衛を目的とした定期的な指揮訓練で、北朝鮮との全面戦争のほか、工作員侵入などによる局地戦も想定。3月9日までの期間中に在日米軍を含む米軍約2100人が参加する。
 フォール・イーグルは3月1日から4月30日までで、米軍約1万1000人が動員され、期間中に兵力1万人規模の米韓合同上陸訓練も行われる予定。上陸訓練は1989年の米韓合同軍事演習「チーム・スピリット」で実施されて以降、最大規模。韓国軍は、これらの演習と訓練に計約20万人を投入する。
 両国は、米韓協調と軍事力の優位を北朝鮮に見せつけ、新体制下で予想される軍事挑発を抑止する狙いだ。韓国軍は、レーダーや偵察機による監視を強め、南北軍事境界線付近の部隊に自走砲などを増強配備するなど、警戒態勢を強化した。
 これに対し、北朝鮮は「無言の宣戦布告」などと強く反発。朝鮮中央通信は27日も論評で、金正日(キムジョンイル)総書記の死後まもない「哀悼期間を狙った戦争」などと非難した。同通信によると、27日付の朝鮮労働党機関紙・労働新聞も、「戦争という火遊びに無慈悲な懲罰で答えるだろう」との記事を掲載した。

「軍事的挑発は破局的結果もたらす」 北朝鮮、米韓合同軍事演習重ねて非難2012.2.27 11:36 [韓国]
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120227/kor12022711390001-n1.htm
 北朝鮮の朝鮮中央通信は27日、同日始まった米韓合同軍事演習「キー・リゾルブ」を非難する論評を配信、米韓は「無分別な軍事的挑発がどんな破局的結果をもたらすのか、熟考すべきだ」とあらためて警告した。
 論評は米韓が3月から実施する野外機動訓練「フォールイーグル」にも触れ、一連の動きは「われわれの自主権と尊厳に対する容認できない侵害行為だ」と強調。核問題をめぐり先週、高官協議を行ったばかりの米国を「朝鮮半島の平和の破壊者」だと非難した。
 北朝鮮は25日、米韓の演習について「無言の宣戦布告。聖戦で粉砕する」との国防委員会報道官声明を出している。(共同)

「人口衛生」か「ミサイル」か?って日本の人工衛星は「ミサイル」に転用できない?
北朝鮮上空を「人口衛生」は飛んでいない?

北の「人工衛星」、田中防衛相が破壊命令検討(2012年3月19日19時35分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120319-OYT1T00917.htm
 田中防衛相は19日の参院予算委員会で、北朝鮮が人工衛星を打ち上げると発表したことについて、「自衛隊法第82条の3第1項に基づき、首相の承認を得た上、破壊措置を命ずることを考えている」と述べ、日本飛来に備え、自衛隊に破壊措置命令を出すことを検討する考えを表明した。
 質疑で田中氏は「危険があると判断したら手続きを取るということで準備している。IMO(国際海事機関)と緊密に連携を取っている」と語った。自民党は、破壊措置命令を出す基準についての答弁があいまいだとして反発し、審議は何度も中断した。

金正恩体制に対するあれこれの解釈がマスコミによって行われて、軍事脅威を煽っている。、そうして自衛隊の対応を容認。米軍の行動を免罪。この狙いはただ一つ。

橋下式「憲法9条が悪い」観のスリコミだな。

すりこ木で力任せにまわしたり平和の基を粉々にせむ
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あまりに単純すぎる橋下市長は現代社会の思考の典型?それとも特異な持ち主?沈殿物を吐き出させたら・・・

2012-03-18 | 日記
大阪府教育委員会、「朝日」に噛み付く橋下市長の狙いは、まさに「ルールオブロウ」を利用して市長の意のままに動く組織と人間をつくろうとしている。
批判者に対して浴びせる極端な言葉と、繰り返されるウソ、スリカエ、ネジマゲが、そのことを示している。

だが、橋下市長の腹の中の奥深い所に沈殿しているすべてのものをできるだけ早く揺れ動かし衆目にとまるようにしていかなければ。

マスコミは、彼の化けの皮が剥がれることをこれまでと同様にできるだけ妨害するだろう。だからこそ国民的メディアが必要になってくるのだろう。その中でこそ、自民もダメ、民主のダメ、維新もダメ、国民の政権ができるのだろう。瑞穂の国の春が到来することになる。

そこで、3月17日と18日の「橋下市長のつぶやき」と朝日の社説「大阪の卒業式―口元寒し斉唱監視」(16日付)について、検討してみた。今日は、昨日とは違ったまとめ方をしてみた。長くなったのは、とんでもないことを色々とつぶやいているからだ。仕方ない!次は短くなるようにしたいものだ。

1.橋下式「民主主義」「ルール」観について、橋下語録から

(1)民主主義の原理原則は、議論を尽くした上で多数決で決める。そして反対論者もそれに従う。
(2)ルールを守っていくのが行政組織。そのためには、とことん細かなチェックをするのが当然の使命。行政はルールをしっかり守っていく、守らせていくことが使命である。
(3)入試は、他人の答案を見てはいけないというルールだ。だから学校側は監視する。当り前だ。ルールが決まった以上、それを監視するのは当り前。教育の場で監視そのものがおかしいなら、なぜ入試では子どもたちを監視するのか。
(4)一部メディアが勘違い批判をしているだけで、有権者の多くは、ルール違反の教員を非難している。
(5)もしそのチェックが悪いと言うなら、ルール自体を変えなければならない。それは監視の問題ではない。監視が悪いと言うなら、世の中、行政など成り立たない。

問題点の検討は以下のとおり
(1)手続き一辺倒の民主主義だな。橋下式民主主義はジャンケン型民主主義と呼んでおこう。橋下式民主主義観は「小学生的」民主主義観だ。こういう発想を堂々と言える、支持されるという現状そのものが、日本の教育の弱点を浮き彫りにした。
(2)だが、大いなるごまかしがある。民主主義は決定に至るプロセスが重要だが、「議論を尽くした上で」「正当な手続き」の内容がいっさい語られていない。ここに「民主」の入る余地はない。形式重視だからだ。
(3)思想信条を問わない入試のカンニングを禁止する「監視」と「ルール」をわざわざ引き合いに出して、「ルール違反」の人権侵害を「多数決」で条例化(=ルール化)し、それを厳守するための「監視」を正当化している。この発想に橋下市長の論理矛盾、思想の本質が滲み出ている。
(4)橋下市長の正当化の最大の拠り所・根拠は、「議会」で「議論を尽くして」成立した「ルール」だから「行政」は「細かなチェックをする」「守らせていくことが使命」だと正当化している。これは「批判は許さない」ということだ。意見表明権、表現の自由などの人権侵害を拒否する権利などはいっさい認めないというのだ。
(5)行政の「監視が悪いと言うなら、世の中、行政など成り立たない」と飛躍させ、正当化。行政の「使命」は「とことん細かなチェックをする」と行政の仕事を一面化し矮小化し、「世の中、行政など成り立たせるためには監視が必要」と恐るべき論理と思想を述べている。
(6)橋下式民主主義観は地方自治の本旨を都合よく解釈し、住民の人権と要求すら無視するのだ。
・「住民の福祉の増進を図ることを基本」「地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする」(地方自治法第1条)とあるように行政の「役割」は多様なものだ。
・「住民は、法律の定めるところにより、その属する普通地方公共団体の役務の提供をひとしく受ける権利を有し、その負担を分任する義務を負う」(地方自治法第10条)という「ルール」があるように、行政は住民要求を政策化し、議会に提案し、執行するのが最大の「使命」だ。
・行政が「住民の福祉の増進を図ることを基本として」いるかどうかを「監視」するために選挙に参与する権利(第十一条)、条例の制定又は改廃を請求する権利(第十二条1)、事務の監査を請求する権利(第十二条2)、議会の解散を請求する権利(第十三条1)、議会の議員、長、副知事若しくは副市町村長、選挙管理委員若しくは監査委員又は公安委員会の委員の解職を請求する権利(第十三条2)、教育委員会の委員の解職を請求する権利(第十三条3)などの「権利」を「ルール化」して橋下市長の言うように「決まったルール」を絶対視していないのだ。
(7)だが、逃げ道も用意している。「チェックが悪いと言うなら」、また「ルール」を変えたければ、「議会」で変えろということだ。変えていないのだから「ルールに従え」「監視は当然」なのだと、「問題アリ」とする声に耳を傾けることを拒否して人権侵害を正当化している。

2.マスコミによって育てられた橋下民主主義観を「処分」によって世に問う傲慢さ~橋下語録から~
(1)2002年に起立斉唱の職務命令も既に出していた。にもかかわらず教育現場が教育委員会の決定、職務命令を守らないから大阪維新の会が条例で後追いしたのである。
(2)今回の口元チェックの問題は、つまるところ、君が代起立斉唱条例、教育委員会の職務命令の是非となる。
(3)その条例を府議会で正当な手続きで成立させ、大阪府教育委員会が府立高全教員に起立斉唱の職務命令を出した。命令です。
(4)そして府教委は全府立高校長に、起立斉唱の状況確認の報告を求め・・・中原校長はそれを忠実に守っただけであるし、彼のブログにもあるように卒業式の雰囲気が乱れない最大の工夫をこらした。中原校長の監視がおかしいという議論は、完全に間違っている。おかしさを言うなら起立斉唱条例、教育委員会の職務命令である。

問題点の検討は以下のとおり
(1)橋下市長は重大なミスをしてしまったな。
(2)何故ならば「職務命令を守らないから大阪維新の会が条例で後追いし」したと述べ、「国旗」「国歌」になった「日の丸」礼拝と「君が代」斉唱が貫徹しているかどうかを「チェック」したのだな。「つまるところ」と言ってホンネを吐露しているのだが、「口元チェック」によって条例と命令の正当性(「是非」と言っているが)を世に問いかけたのだ。
(3)ということは、橋下式ルール観からすれば、起立斉唱しないで、条例と命令の正当性(是非)を世に問うこともあり得るということになるな。
(4)国旗である「日の丸」と国歌である「君が代」は橋下市長の「命令」のための「踏絵」に使っているのだな。
(5)そもそも「日の丸」「君が代」なんか、どうでも良いのだ。では「口元チェック」の前の卒業式はどうだったかだ。「国旗」礼拝、「国歌」斉唱なんてなくても「卒業式の雰囲気が乱れ」ることなんかないのだ。今の学校現場は。

3.橋下式民主主義観にみる処分優先政治のカラクリ~橋下語録から~

(1)政治の場は前者(決定できる民主主義で51%を尊重する)。多数の意見を尊重するのが原則だ。
(2)司法の場は後者(戦後の自称インテリたちのファッションであった49%の反対を永遠に尊重しろ)。最近の最高裁、司法の場は頼もしい。徹底して被告人・個人の権利を擁護する。
(3)もちろん個人は司法で救われる機会がある。日本の司法は付随的審査制。
(4)このような政治行政と司法のバランスで世は統治を維持できる。
(5)不起立教員が司法で争える機会を与えるためにも、きっちりと処分をしなければならない。
(6)多数決に従わなくて良いと言うなら、それは消費税論議でも同じだ。民主党の49%は従わなくてもよいはずだ。もちろん、教員と政治家は異なるが、消費税に反対する国民は多数に従わなくても良いことになる。

問題点の検討は以下のとおり
(1)多数の意見を尊重する政治には、決定できる民主主義が必要で、少数者の意見は司法が担当するので、政治行政は、少数者の意見は尊重しなくても良い。このような政治行政と司法のバランスが取れて世の中は統治を維持できる、成り立つと驚くべき論法だ。
(2)不起立教員など、「ルール違反の教員」を「処分」するのは「司法で争える機会を与えるため」だと言ってしまった、しかもしかも政治の分野では「きっちりと処分」をして「司法に救われる機会」に送り込む。この「バランス」で「世」の「統治を維持」するのだと。呆れる!
(3)また「監視がおかしい」なら、校長ではなく、それは条例であり、教育委員会だと校長を弁護する。だからこそ、世に問うために不起立不斉唱をやっているのだとしたら、どうか、だな。
(3)政治結社である民主党の49%は分裂する自由をもっている。事実分裂しているし、「維新の会」に集まってきた輩も、自民党などから抜け出してきた政治家(や)だったのではないか?
(4)「消費税増税に反対する国民は多数」なのに、国会で「議論を尽くした上で多数決で決」まれれば、消費税を拒否することはできない、支払わなければならない。「支払いたくなければ物を買うな」ということになるな。橋下式民主主義観では。

4.朝日批判を通して狙うもの~橋下語録から~

(1)君が代起立斉唱を決めたのは、朝日新聞が礼賛する大阪府教育委員会である。
(2)朝日は(大阪維新の会の起立斉唱条例が成立する前に)教育委員会が出していたこの(2002年に起立斉唱)決定や(不起立教員に)職務命令には何も批判しない。
(3)朝日新聞は起立斉唱がおかしいと言うなら、2002年に府教育委員会の決定とその後の職務命令を徹底批判したらいい。しかしそれはできないはずだ。それこそ教育の専門家の集団である教育委員会が決定したことだから。
(4)教育委員会の決定を批判し、府議会の条例をひはんしたら、それこそ民主主義でなくなる。朝日新聞の独裁社会になる。
(5)住民の代表者である府議会が条例を制定したら猛反発。教育委員会と言う行政機関がやることは全て正しい。しかし政治家が決めることは間違っていると言う、政治が大嫌いの朝日らしい。朝日新聞は、世間が味方に付いてくれるであろう府議会批判、政治家批判にターゲットを絞った。
(6)民主党は消費税はマニフェストに記載していなかった。そして党内で反対論が強い中、51%の賛成でも突破せよと言う。維新の会はマニフェストに君が代斉唱条例のことは書いていなかったからおかしい。もっと議論せよ。反対会派がある。
(8)朝日新聞は教育委員会を一切批判せず条例だけを批判。では大阪維新の会の起立斉唱条例を朝日新聞は批判する資格があるのか。
(10)朝日新聞は、結局のところ、自分たちの価値観に合うもの(消費税)は51%の賛成でも突破せよ。そして自分たちの価値観に合わないもの(君が代条例)は49%の反対を尊重せよと言う論。
(11)昨日の社説では51対49の覚悟を示せと、決定できる民主主義に賛同する。議論を尽くしてもそれでも結着が付かない時には51%での賛成で突破せよと言う。そして朝日の大転換と言える昨日の51%の賛成で突破せよの社説。しかし朝日もぐらついていますね。君が代条例になれば今度は少数を尊重せよとなる。
(12)決定できる民主主義で51%を尊重するのか。戦後の自称インテリたちのファッションであった49%の反対を永遠に尊重しろか。

問題点の検討は以下のとおり
(1)消費税増税推進派の「朝日」、日の丸・君が代強制に対して憲法に基づく人権問題として論を展開する点で甘い「朝日」の曖昧な姿勢の部分を批判するのは、正しい。
(2)だが、「政治家批判にターゲットを絞っ」てきた「維新の会」をこれまで持ち上げてくれていた「朝日」が「口元チェック」を社説で批判したので、今度はお得意の悪罵を投げつける攻撃に転じたとしか言えない内容だ。
(3)朝日は社説で「君が代の起立斉唱は、良心や歴史認識の問題ではなく、公務員として守るべきルールであり、マネジメントのあり方だという主張を繰り返している。しかし、そもそも卒業式で口元を監視することが優れたマネジメントといえるのだろうか」と橋下市長の手法に疑問を投げかけ、「個人の歴史観で見解が分かれる君が代をめぐり、最高裁は職務命令で起立斉唱を強制することに慎重な考慮を求めている」と最高裁判決を紹介し、対策を提起しているが、橋下市長の本質がわかっているのだろうか。
(4)職務命令を出してきた教育委員会を批判しなかった朝日が今回の「口元チェック」を批判したことがよほど気に食わなかったのだろう。「政治が大嫌いの朝日らしい」「朝日新聞の独裁社会になる」など、お得意の乱暴な言葉をつかってスリカエ朝日を攻撃している。これが橋下市長の本質だ。
(5)少数の人間の心を侵害することに何の疑問を持たない多数決優先主義者の橋下市長にとって、朝日の提起を、消費税は多数決主義を主張し、君が代条例は少数意見尊重主義と解釈し、「結局のところ」「自分たちの価値観」に「合うもの」「合わないもの」と歪曲している。
(6)「良心や歴史認識の問題」「個人の歴史観」を多数決で決めるという多数決優先主義に凝り固まった橋下市長には、少数意見の尊重を「自称インテリたちのファッション」と揶揄することしかできないし、「49%の反対」を「永遠に尊重しろ」などとスリカエテながら「朝日もぐらついて」いるという程度の認識、解釈しかできないのだ。

5.橋下市長の教育観と「ルール」について、その狙いは~橋下語録から~

(1)日本は世界に誇れるほどの価値多様な社会。教員の思想も色々あるだろう。色々な考えを子どもに教えるのは良い。
(2)教育現場こそ一般社会から距離がある世界。しかも教員も社会経験が少ない人も多いし、一般の価値観とは全く異なる価値観が蔓延している世界でもある。もちろん立派に頑張っている教員も多い。
(3)しかし独り善がりの価値観はダメだ。教員の独り善がりの思想で子どもが毒される危険が非常に高い。だからこそ一定のルールを設けなければ、子どもが不利益を受ける。教育現場こそ、子どもを扱う場であるがゆえに一定のルールが必要。校長はそのルールを守らせる責任がある。
(4)昔のように教員に全てを任せるという時代ではない。教員にルールが必要なのだ。教育の現場だからということで治外法権になってしまう今の教育行政。子どもを管理するのではない。
(5)世の中にルールがなくなるのは理想の世界だ。皆が他人に不利益を与えず、皆が同じ価値観で生きていける桃源郷。しかしそんな世界はあり得ない。教育現場になると急に関係者皆が理想の神のような存在であるという前提に立つ。そんなわけがない。人が集まればルールが必要。そしてそのルールを守らせる監視が必要。このアホみたいに当然の原理原則は教育現場にも当然当てはまる。
(6)だからこそ最低限のルールはしっかりと定めて、校長中心にしっかりとマネジメントをしてもらわなければならない。校長は教育者でありながら教育行政を司る行政職員の一員である。だからこそ、ルールを守らせる監視役も負う。校長はそのルールを守らせる責任がある。校長が教員の口元監視を式に影響しない方法で数秒確認し、後から本人が斉唱していなかったことを認めた一名のみを教育委員会に報告した。どこに非難される点があるのか。まず監視がやり過ぎだ!との声が多いが、悪いのはルールを破った方だ。監視をした方ではない。監視をしなくても良いように皆がルールを守れば良いだけだ。
(7)ルール自体の責任者である教育委員会の委員長が監視方法を非難したと言うのは全く理解できない。大阪府の教育委員会は、大阪府の条例を守れなかった自分たちの責任を痛感すべきなのに、全くその認識がない。教育委員会が行政の当事者の認識がなく、外部有識者の感覚なのだろう。今の教育委員会制度の問題点がはっきりと浮き彫りになった。そして教育の現場でそこまで監視しなくてもという反対意見。現在の教育委員会は当事者意識がなく行政を仕切れる機関とはなっていない。
(8)今回の口元監視の議論は、子どもたちへの監視はいくらやっても良い。しかし教員への監視は一切ダメだという、教員絶対的自由論の流れ。これは評価問題でも同じ。教員を相対評価しようとしたら、教育現場は猛抵抗。教員を輪切り評価なんてできないと。1万人に1人しか最低のDが付かない今の教員評価が機能していると言えるわけがない。
(9)そのくせ、大阪の子どもたちは、内申書できっちりと10段階評価を受ける。それこそ、8と7の違いは?7と6の違いは?基準なんてあるわけないし、テストの点数だけで評価していたら、それこそ教員が自分たちの相対評価で文句を言う「点数だけで評価するな!」がそっくりそのまま当てはまる。4と3の違いは何か。何を基準に5段階で評価するのか。まあ教員は自分たちの身分のことになれば必死になって反発して、今の一般常識では考えられない甘い評価を守ろうとする。

問題点の検討は以下のとおり
(1)「ルール」「ルール」というが、その中身をいっさい語らないのが橋下型民主主義観だ。「悪法も法」だな。
(2)朝日には「府教育委員会の決定とその後の職務命令を徹底批判できないはずだ。それこそ教育の専門家の集団である教育委員会が決定したことだから」と言っておきながら、「口元チェック」を批判した「教育委員会は当事者意識がなく行政を仕切れる機関とはなっていない」「外部有識者の感覚なのだろう。今の教育委員会制度の問題点がはっきりと浮き彫りになった」と攻撃するのだ。この手法は橋下市長にとって一貫したスタンスだ。
(3)「教育現場こそ一般社会から距離がある世界」「しかも教員も社会経験が少ない人も多い」「教員の独り善がりの思想で子どもが毒される危険が非常に高い」「一般の価値観とは全く異なる価値観が蔓延している世界」だし、「教育委員会は当事者意識がなく行政を仕切れる機関とはなっていない」から「独り善がりの価値観はダメ」「だからこそ一定のルールを設けなければ、子どもが不利益を受ける。教育現場こそ、子どもを扱う場であるがゆえに一定のルールが必要。校長はそのルールを守らせる責任がある」として「世界に誇れるほどの価値多様な社会」と日本を評した言葉の裏腹に教育現場を短絡的に評価している。全く事実を見ない暴論だ。
(4)万歩譲って、教育現場が橋下市長のような状況であったとしたら、それはどのような要因があったのだろうか?全く事実を見ていない。「校長中心にしっかりとマネジメント」優先主義のものさしであるが故からくる決めつけと言える。逆に言えば、「校長中心にしっかりとマネジメント」ができれば、「子どもが不利益を受ける」ことはないのか?ウソだろう!
(5)橋下市長のウソは、さらに上塗りされていく。「口元監視の議論は、子どもたちへの監視はいくらやっても良い。しかし教員への監視は一切ダメ」「基準なんてあるわけない」「10段階評価」を「大阪の子どもたちは、内申書できっちり」とやってきた。「そのくせ」「教員が自分たちの相対評価で文句を言う」「点数だけで評価するな!」「教員は自分たちの身分のことになれば必死になって反発して、今の一般常識では考えられない甘い評価を守ろうとする」と「立派に頑張っている教員も多い」と言いながら、教員を攻撃するのだ。
(6)このウソの目的は何か。「監視をしなくても良いように皆がルールを守れば良いだけだ」といっさいの批判を認めないのだが、逆に言えば、橋下式民主主義的ルールを守れば、教育現場の問題は改善できるのか、子どもに利益を与えることができるのか?子どもに最善の利益を与えるのであれば「子どもの権利条約」をすべての学校現場に具体化しなければならないのだが、橋下市長の発想には国際法である「子どもの権利条約」は、全く想定できていない。
(7)この子どもの権利条約を想定していない証拠がある。それは「教育の自由」「教育の政治的中立」の原則を「治外法権ではない」として、「維新の会」の政治思想を、いや「維新の会」の後ろ盾になっている「勢力」の思想と既得権益を「ルール化」し、その「ルール」を守らせるため、校長の監視を正当化・強化し、橋下市長にひれ伏す公務員をつくろとうしていることだ。まさに近代の教育史を見ぬアホな思想だ。

口汚す言繰り返し攻撃すますます浮かぶ史の惨害
やうやくに梅の花咲く難波ムラ民の反撃花の嵐に
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意図的に仕組まれた「ルール違反」の「口元チェック」を正当化する橋下市長の論理を分析してみた!

2012-03-17 | 日の丸・君が代

橋下市長のツィッターを観てみた。http://twilog.org/t_ishin
彼の論理は明解だ。以下まとめてみた。「結論」は彼の言いたいことをまとめてみた。

1.今回の口元チェックの経過と正当性について
(1)命令を出すには法的な権限が必要
(2)大阪では議会の正当な手続きによって起立斉唱の条例が成立
(3)起立斉唱条例について批判があることは承知している。それを引き受けても実行していくのが政治や行政
(4)教育委員会は、府立高校の全教員に、卒業式において君が代を起立斉唱することを命じ
教育委員会が「斉唱」の確認を校長に求め
(5)教育委員会は府立高校の全校長に、卒業式において起立「斉唱」が行われたかどうかの状況報告を求め
(6)中原校長は教育委員会からの職務命令が実行されたかどうか、まさに求められる報告を行うために教員の口元チェックをしました。
(7)口元チェックがおかしいと言うなら、それを命じた教育委員会とその委員を任命した元知事である僕に責任がある
(8)行政が出す命令は重い。他人に嫌なことでも強いる権力行使そのもの
結論
(1)ところが、口元チェックの「責任」は「僕」にはない。
(2)何故ならば、正当な手続きで成立した条例に基づいて「命令」が出されているからだ。
(3)「起立斉唱」だけでは命令が徹底できているかどうか判らないので、「起立『斉唱』」を求めたのだ。

2.口元チェックがおかしいと批判した教育委員会批判について
(1)起立斉唱の職務命令を出し、そして校長にその状況確認を求めた教育員会の最高責任者である教育委員長と委員が、校長の口元チェックを批判した。
(2)府教育委員会の委員長と一部委員が、中原校長の行動がおかしいと批判
(3)教育行政の最終責任者は教育委員であり、それを任命した知事である。口元チェックがおかしいなら、その責任は教育委員にあり任命した知事にある。
(4)もし中原校長の行動がおかしいと言うのであれば、それは、それを教員に起立斉唱を命じ、校長に状況確認を求めた教育委員会がおかしい
(5)中原校長の口元チェックがおかしいと言うなら、起立斉唱を求める職務命令を出さなければ良い。この条例を教育委員会は守らないと宣言すれば良い。これまで教育委員会が言ってきたこととの整合性はどうなる?
(6)全教員へ起立斉唱を命じる職務命令を出し、そしてその状況報告を全校長に求めながら、実際校長が斉唱の確認をやったら校長を批判する。こんなトップの下で現場が動くはずがない。組織として完全に成り立っていない。これは大問題だ。
(7)結局、教育委員は、自分が責任者だという認識が皆無。これが今の教育委員会制度の最大の欠陥
(8)教育委員会は自分たちが行政の責任者であることの認識が全くありません。コメンテーターの気分
(9)教育委員会の事務局は委員会の補助機関。委員の考えと違うことを事務局が勝手に言っているのであれば、それは適切な対応を執らなければなりませんが、委員にはその覚悟はない
(10)教育委員会の末期症状、僕が指摘し続けたことが露呈
(11)「斉唱」の確認は口元チェック以外にどうやってやるのでしょうか?
(12)府教育委員会に問いたい。どうやって斉唱の確認をするのだ
(13)府教委の事務局は、中原校長の行動は間違っていないと言っています。
結論
(1)行政手続きを踏まえない口元チェック批判は教育委員会制度の「末期的症状」
(2)「現在の教育行政が府民の感覚を紛失していることの原因は制度の問題・・・『現在の教育委員会は形骸化している』というのが圧倒的多数の世間の意見」だから、こんな組織は「リセット」すべきだ。

3.中原校長弁護論の展開について
(1)口元チェックがおかしいなら、その責任は教育委員にあり任命した知事にある。職務命令がおかしいのか、条例がおかしいのか、そこを検討する権限は校長にはない。ゆえに校長には責任はない
(2)メディアが本質を伝えていない所は、中原校長の慎重な手続きである。まず式を乱さない形での数秒のチェック。
(3)中原校長は卒業式の雰囲気を乱さないために、教頭を通じて遠目に数秒間チェックを行い、そして式が終わってから別室で教員に確認をした。式には一切影響を与えていません
(4)斉唱していないと思われた教員3名を別室において確認
(5)2名は斉唱したと答えたので、それで良しとした
(6)残る一名が、「起立だけで良いと思った。斉唱はしてない」と答えた。
(7)そして教育委員会に報告をした
(8)口元をチェックして、動いていないと一方的に非難しているわけではない。
(9)中原校長も弁護士。あやふやな証拠であることも十分承知していて、本人確認を行った。
結論
(1)中原校長の慎重な手続きから見ても口元チェックは間違っていない。
(2)式を乱していない。
(3)本人確認を行っている。

4.口元チェック批判の批判について
(1)口元がどうであれ、斉唱したと本人が言うのであれば、それは問題ないとしたのが中原校長の判断。
(2)ただし本人が斉唱していないと認めたのであれば、それは教育委員会への報告事項でしょう。当り前でしょ。
(3)このやり方がおかしいと言うのであれば、教育委員会はやり方を示すべきだ。

結論
(1)本人の意思を尊重しているのだから問題はない。
(2)教育委員会は条例に沿って出された「命令」である「起立『斉唱』」の方法について対案を示せ。

5.橋下市長は「確信犯」的行為を自ら表明、主語に注目!
(1)教育委員会は、府立高校の全教員に、卒業式において君が代を起立斉唱することを命じ
(2)教育委員会は、卒業式において起立「斉唱」が行われたかどうかの状況報告を求めた
(3)中原校長は僕と松井知事宛てに、卒業式での状況と教員とのやり取りをメールで報告してきました。
(4)僕は、このメールを情報公開対象のシステムに乗せて敢えて公にしました。
(5)中原校長は世に問題提起し、批判を受ける覚悟で公にすることを了承してくれました
(6)まずこの事案を公にしたのは、僕と中原校長の合意に基づくもの
(7)中原校長は僕の大学時代からの友人で、公募校長に合格した民間人校長
結論
(1)中原校長は、僕と松井知事にメールで報告してきた。
(2)僕は、敢えて中原校長のメールを公にした。
(3)大学時代からの友人である中原校長は公にすることを了承してくれた
(4)口元チェックの事案を公にしたのは合意である。
(5)その事案の本質は「職務命令の達成度チェック」=「口元チェック」だった。

以上、橋下市長の述べる「正統性」、論理展開を整理してみたがどうか。さらに検討が必要だ。

そこで長くなるが、以下、実物を掲載しておこう。「つぶやき」の各項目の後に「問題点」を記しておいた。

Permalink - 2012年03月16日
2012年03月15日(木) 17 tweets
君が代起立斉唱条例について、大阪府立和泉高校の中原校長が行った教員の口元チェックについて賛否両論が起きています。まずこの事案を公にしたのは、僕と中原校長の合意に基づくものです。中原校長は僕の大学時代からの友人で、公募校長に合格した民間人校長です。posted at 15:43:40
問題点
1.「賛否両論が起きて」いるとあるが、その内容は全く触れていない。
2.形式論のみで、中身がないのが最大の特徴だ。
3.形式論理をお得意とする橋下市長にとって、人権問題を論じる視点は、恐らくないのだろうな。
4.この「つぶやき」がどこで行われたか、だ。「勤務中」「執務中」ではないのか?
5.そうだとすれば、サボり?職員や組合に言えるか?

中原校長は僕と松井知事宛てに、卒業式での状況と教員とのやり取りをメールで報告してきました。僕は、このメールを情報公開対象のシステムに乗せて敢えて公にしました。普通の校長なら公になることを嫌がるでしょうが、中原校長は世に問題提起し、批判を受ける覚悟で公にすることを了承してくれましたposted at 15:47:04
問題点
1.「大阪府立和泉高校の中原校長」「僕と松井知事宛てに、卒業式での状況と教員とのやり取りをメールで報告」って、何故「校長」が「大阪市長」と「大阪府知事」に「報告」?
2.府立和泉高校の中原校長の任命権者は?
3.中原校長は橋下大阪市長と松井大阪府知事に「卒業式での状況と教員とのやり取りをメールで報告」って、大阪市役所の職員が、「任命権者」の「市長」とは別の人間、「友達」に「市政の問題」を「メール」でやりとりをしたら、橋下市長はどうする?
4.しかも、校長がメールしたのは「何時」だったのか?橋下市長は「情報公開の対象のシステムに乗せ」なければならない。
5.ここでも自分に甘く、他人に厳しい市長独特の人格が垣間見えてくる。

まず中原校長の行動が批判を受けているようですが、これは全くの誤りです。もし口元チェックがおかしいと言うなら、それを命じた教育委員会とその委員を任命した元知事である僕に責任があるのです。教育委員会は、府立高校の全教員に、卒業式において君が代を起立斉唱することを命じました。posted at 15:48:29

そして教育委員会は府立高校の全校長に、卒業式において起立「斉唱」が行われたかどうかの状況報告を求めたのです。中原校長は教育委員会からの職務命令が実行されたかどうか、まさに求められる報告を行うために教員の口元チェックをしました。posted at 15:50:52
問題点
1.橋下市長の今回の狙いが「確信犯」的なものであることは、「起立斉唱」から「起立『斉唱』」に変えていることで明瞭だ。
2.彼は「起立」しても「斉唱」していない教員がいることを把握し、「起立斉唱」の「命令」が徹底していないことをハッキリさせるために「口元チェック」を「敢えて」「世に問題提起」した。
3.「他人に嫌なことでも強いる権力行使そのもの」の事例として口元チェックを行い、「世に問題提起し、批判を受ける覚悟で公」にしたのだ。
4.世論は、必ず味方してくれるとの思い上がりがある。

教育委員会が「斉唱」の確認を校長に求めています。「斉唱」の確認は口元チェック以外にどうやってやるのでしょうか?しかも中原校長は卒業式の雰囲気を乱さないために、教頭を通じて遠目に数秒間チェックを行い、そして式が終わってから別室で教員に確認をしたのです。式には一切影響を与えていませんposted at 15:53:20
問題点
1.教育委員会=「悪者」論、校長弁護論と居直り、反対論者を攻撃し、正当化するのだ。
2.「卒業式の雰囲気を乱さない」「式には一切影響を与えていません」と言うのであれば、「不起立」だって同じだ。まして「起立不斉唱」だってそうだろう。
3.「口元チェック」方式が個人の尊厳、人権を踏みにじる行為であるという本質をスリカエテいるのだが、彼にはそのようは人権感覚的「発想」は微塵もない。
4.彼にあるのは「命令」の流れの沿って自論を展開し、正当化するという思考回路だ。だから「教育委員会」の「命令」にしたがって「口元チェック」方式を実施した校長は何も問題はないのだと。
5.しかもその教育委員を任命したのは「僕」であり、その「僕」は選挙で選ばれ、「議会の正当な手続きによって起立斉唱の条例が成立した」のだから「責任」は誰にもないのだ、ということになるのだ。
6.「責任」があるというのであれば、選挙で私を当選させ、「維新の会」を議会で多数派にしてくれた大阪府民にあるということになるだろう。彼の論理展開をそのまま使うとすれば。

もし中原校長の行動がおかしいと言うのであれば、それは、それを教員に起立斉唱を命じ、校長に状況確認を求めた教育委員会がおかしいのです。ところが、この府教育委員会の委員長と一部委員が、中原校長の行動がおかしいと批判した。もう教育委員会の末期症状、僕が指摘し続けたことが露呈しました。posted at 15:55:37
問題点
1.橋下市長のお得意の論理が展開される。「もし・・・であれば、おかしいのです。ところが・・・と批判した。もう教育委員会の末期症状、僕が指摘し続けたことが露呈」したと正当化だ。
2.「府教育委員会の委員長と一部委員」と分ける手法を使いながら、教育委員会批判の正当性とその狙いを「露呈」させるのだ。だが、もう一度確認しておこう。
3.だが、教育委員会批判と一体のものとして「僕」である「元知事」に逆らって「僕の大学時代からの友人」の「行動がおかしいと批判した」のが、よほど気に食わないのか?

残念ながら教育委員会は自分たちが行政の責任者であることの認識が全くありません。コメンテーターの気分なのでしょう。行政が出す命令は重い。他人に嫌なことでも強いる権力行使そのものです。だからその命令を出すには法的な権限が必要であり、その全責任も負わなければならない。posted at 15:57:09
問題点
1.「コメンテーター」という言葉を使って教育委員会批判のボルテージをあげている。
2.教育委員会無責任論を吹聴することで公務員バッシングの悪用と正当化だ。
3.だが、その教育委員を任命したのは、橋下府知事だと言うことは、ここで言っていない。
4.任命責任は不問だ。手続き上の責任は述べるが、口だけだ。
5.橋下氏のルール違反は問題ないのか?以下の条文が参考になる。
「委員は、当該地方公共団体の長の被選挙権を有する者で、人格が高潔で、教育、学術及び文化(以下単に「教育」という。)に関し識見を有するもののうちから、地方公共団体の長が、議会の同意を得て、任命する」(地方教育行政の組織及び運営に関する法律第4条)

起立斉唱の職務命令を出し、そして校長にその状況確認を求めた教育員会の最高責任者である教育委員長と委員が、校長の口元チェックを批判した。では、府教育委員会に問いたい。どうやって斉唱の確認をするのだと?府教委の事務局は、中原校長の行動は間違っていないと言っています。posted at 15:58:39
問題点
1.逆ギレの典型だ。逆に質問して、自分の土俵で相撲をとろうとしている。
2.「斉唱の確認」というが、これまでの式に問題があったのかどうか、ここではいっさい不問だ。スリカエの典型だ。

教育委員会の事務局は委員会の補助機関。委員の考えと違うことを事務局が勝手に言っているのであれば、それは適切な対応を執らなければなりませんが、委員にはその覚悟はないでしょう。結局、教育委員は、自分が責任者だという認識が皆無。これが今の教育委員会制度の最大の欠陥なんです。posted at 16:00:08
問題点
1.今度は「責任」から「覚悟」へと攻撃の言葉を発展させている。
2.「無責任」「覚悟なし」から「制度の欠陥」へと飛躍させ、しかも「最大」と。
3.言葉があるときは「情緒」に、あるときは「短絡」的に、というのが彼のお得意の手法だ。

もし中原校長の口元チェックがおかしいと言うなら、起立斉唱を求める職務命令を出さなければ良い。では、これまで教育委員会が言ってきたこととの整合性はどうなる?また大阪では議会の正当な手続きによって起立斉唱の条例が成立した。この条例を教育委員会は守らないと宣言すれば良い。posted at 16:02:00
問題点
1.ここでもお得意の論理展開だ。「もし・・・言うなら」と仮定の話を持ち出して整合性を持ち出し、条例を守らないと宣言しろとして正当化する。
2.「口元チェック」の人権上の、社会常識上の問題は無視して、形式論理で正当化する。
3.だが世の中実態は多様である。これを無視している。
4.「起立」しなくても、「斉唱」しなくても何ら問題はなかった「式」のことは一切語らない。

そこまでの勇気や覚悟がなく、全教員へ起立斉唱を命じる職務命令を出し、そしてその状況報告を全校長に求めながら、実際校長が斉唱の確認をやったら校長を批判する。こんなトップの下で現場が動くはずがない。組織として完全に成り立っていない。これは大問題だ。posted at 16:03:20
問題点
1.「無責任」「覚悟」から、今度は「勇気」に。そして「こんなトップの下」と職員の分断になった。
2.組織は上意下達でしか動かせないという発想が象徴的だ。
3.職場の民主主義観、職場の合意形成などという手法は皆無だ。
4.強いリーダーを求める風潮に便乗したものだ。

起立斉唱条例について批判があることは承知している。それを引き受けても実行していくのが政治や行政である。批判が出たら、自分たちの責任ではないと言わんばかりに、自分たちの部下でもある校長に責任を押し付ける教育委員会とはどんな組織なのか。全ての批判、責任を負うのがトップである。posted at 16:05:48
問題点
1.「批判」は「承知」と、一見人の話を訊く姿勢を示しているようだが、本質は違う。
2.批判を引き受けても(無視しても)実行する。
3.すべての批判、責任を負うというが、中身がない責任論だ。
4.被害者は国民であり、教育現場は子どもだ。
5.どうやって責任を取るのか、いっさい語っていない。言葉が「美しい」が。

教育行政の最終責任者は教育委員であり、それを任命した知事である。口元チェックがおかしいなら、その責任は教育委員にあり任命した知事にある。職務命令がおかしいのか、条例がおかしいのか、そこを検討する権限は校長にはない。ゆえに校長には責任はないのである。posted at 16:07:33

中原校長の言い分はhttp://t.co/l3SrJYgBです。
posted at 16:11:45
そしてメディアが本質を伝えていない所は、中原校長の慎重な手続きである。まず式を乱さない形での数秒のチェック。そしてここが一番重要だが、彼は斉唱していないと思われた教員3名を別室において確認した。そして2名は斉唱したと答えたので、それで良しとしたのである。posted at 16:18:47

残る一名が、「起立だけで良いと思った。斉唱はしてない」と答えた。そして教育委員会に報告をしたのである。口元をチェックして、動いていないと一方的に非難しているわけではない。中原校長も弁護士。あやふやな証拠であることも十分承知していて、本人確認を行った。posted at 16:20:36

口元がどうであれ、斉唱したと本人が言うのであれば、それは問題ないとしたのが中原校長の判断。ただし本人が斉唱していないと認めたのであれば、それは教育委員会への報告事項でしょう。当り前でしょ。このやり方がおかしいと言うのあれば、教育委員会はやり方を示すべきだ。posted at 16:22:22
結論
1.だが、これはあくまで「本人」の自己申告なのだ。「起立」しても「斉唱しました」と言えばすむことになる。
2.そうであれば、「起立斉唱」「命令」は言葉だけになる。だったら「起立」しても「斉唱」していない教員が大勢いた従来と同じではないか?
3.では、本人がウソをついていたら「起立『斉唱』」の「命令」は徹底していないことに、さらには「『斉唱』の確認」はできていないことになる。
4.そうなると、どうするか、橋下市長の論理展開からすると、「映像確認」から「マイク確認」が必要になってくる。そこまでやる「覚悟」は橋下市長にあるか、どうかだ。

以上、橋下市長の論理と発想を観てきたが、大いに研究する必要があるだろう。彼がこのような理不尽なことを公然と発信できるのは、彼を支持する国民がいるからだ。彼の「つぶやき」登録者は、確か60万人を越えていたようだ。「朝日」に出ていたことを記憶している。間違っていなければ。

しかもこの「つぶやき」を全国紙やテレビがメディアとなって逐一伝えている。それが世論調査の支持率となって、「政局」が形成され、国民生活に大きな津波となって押し寄せてくるのだ。
波紋どころではないだろう。今の日本の状態は。

なんとしても津波を止めなければならない。事前に調査して、被害を最小限にとどめなければならない。

ところで世論形成の鉄則は「量と質」だ。

つぶやきを放つマスゴミ溢れたり真(まこと)伝ふるメディア増やさむ
民目線点から線へ動かさむ面つくりてこそ民食へるなり

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職員に「ルール厳守」を要求する橋下市長の「ルール無視」運営はパワハラにもなるという視点をひろげよう

2012-03-15 | 日記
こんな記事があった。これを入り口に橋下市長の手法を分析し、批判してみた。以下掲載しておこう。

働く法律相談(「朝日」夕刊 2012年3月12日)
異同事例がパワハラになることは? 明らかに無理な仕事の強制は人事権濫用
 上司からパワーハラスメント(パワハラ)を受けた、という相談が増えています。しばしば問題になるのは、仕事や異動を命じられた場合、それが上司として本来持つ権限に基づいていたとしても、パワハラに当たるかどうかです。
 厚生労働省のワーキンググループは今年1月、パワハラを「職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える、または職場環境を悪化させる行為」と定義しました。
 暴行、脅迫、ひどい暴言、仲間外し、無視などは当然パワハラになります。さらに明らかにやらなくていいことや不可能なことを強制したり、能力や経験が足りないのに無理な仕事を命じたりすることもパワハラに当たります。よって上司の権限で命じたとしても、場合によっては違法なパワハラと認められます。
 最近注目されたのは、オリンパス社員の訴えに対し、東京高裁が昨年8月に出した判決です。
 40代後半の営業職の社員が、上司らの不適切な行為をコンプライアンス室に内部通報しました。すると上司らは、経験や能力とかけ離れた高度な専門性が必要な技術部門に配転させました。高い業務目標を設定させ、「社外接触禁止命令」も出しました。
 この社員が目標を達成できなかったとして、評価を著しく低くし、別の部門へ2回目、3回目の異動を命じました。さらに新入社員同様の勉強と試験のほかに仕事がない状況に追い込み、「○○君教 計画」と題した文書を配るなどのパワハラを続けました。
 東京地裁は異動命令を有効としましたが、東京高裁は3回の異動命令すべてを人事権の濫用と認定。昇格・昇級の機会を事実上失わせ、人格的評価をおとしめる不法行為だと認めました。1回目の異動後のパワハラについても不法行為と認め、会社と上司に220万円の賠償を命じまいた。
 上司としての命令や指導であっても、限度を超えたら違法と認められる場合があります。一人で悩まず、専門家に相談しましょう。(弁護士。板倉由実)

厚生労働書の「職場のいじめ・嫌がらせ問題に関する円卓会議ワーキング・グループ報告」によれば、パワハラの定義は以下のようになる。
http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r98520000021i2v-att/2r98520000021i4l.pdf
○ 「いじめ・嫌がらせ」、「パワーハラスメント」は、労働者の尊厳や人格を侵害する許されないものであるが、とりわけ、職務上の地位や人間関係を濫用して意図的に相手をいじめたり、嫌がらせを行ったりすることは許されるものではない。また、そのような意図はなくとも、度の過ぎた叱責や行き過ぎた指導は、相手の人格を傷つけ、意欲や自信を失わせ、さらには「いじめ・嫌がらせ」、「パワーハラスメント」を受けた人だけでなく行った人も自分の居場所が失われる結果を招いてしまうかもしれない。

まるで、橋下市長の「蛮行」を想定しているかのような定義と文章である。彼の手法は難波版「パワハラ」ではないだろうか?

念のために断わっておくが、伝えられている大阪市の職員の「犯罪行為」を免罪するものでないことは当然だ。これは大阪市職員だけの問題ではない。公務員であろうがなかろうが、「犯罪行為」が問題であることは言うまでもない。

さて、そこで「パワハラ」まがい?の「蛮行」を正当化する橋下市長の論理についてだ。大阪市議会本会議における共産党市議とのやりとりなどをみると、形式論理オンパレードというか、機械的解釈論に終始しながら、「ああ言えば、こう言う」式の、しかも人の意見を曲解し、討論の相手をなじる、非常に無礼な、人としてあるまじき発言が多いことに、改めて気付く。不思議な性格をもった人間が首長になったものだ。

そこで、彼の論理は大まかに言うと、以下のようになる。
1.選挙で当選したのだから、「民意」に従っている。決定できる民主主義を実行する。
2.税金でメシを食っている公務員は国や行政のルールに従え。

だが、橋下市長の「民意」論を踏まえたとして、住民は橋下市長に「何でもアリ」という切符を与えてはいないのである。
確かに市長選挙では彼は勝った。だが、それが、即「民意」を代表してはいない。
昨年の市長選挙をみてみよう。
橋下氏は750,813票(58.5%)を獲得した。平松氏は522,641(40.7)だ。当日の投票有権者は1,282,733(60.92)だ。これだけを見れば橋下氏は「勝利」した。だが「落とし穴」がある。当日の大阪市の有権者は2,104,977人ということを、彼は意図的に黙殺しているのだ。そのことは後で言う。
橋下氏は有権者比でいうと、35.7%の有権者の支持しか得ていないのだ。1,354,164人(64.3%)の有権者は橋下氏を支持はしていないのだ。彼には投票していないからだ。

こうした現実を意識しているのか、「民意」を曲解している。彼は「自分の意見と異なる結果が出ても、それでも国民投票の結果に従う。これが決定できる民主主義だと思う。9条問題はいくら議論しても国民全員で一致はあり得ない」と述べながら、さらに「決定できる民主主義」のために「憲法改正の項目で、改憲の発議要件を衆参両院の3分の2から2分の1の賛成に緩和する」(「産経」2月24日)と述べ、自分の都合の良い「民主主義」観「民意」観を述べている。確かに「国民全員で一致はあり得ない」琴は事実だ。だが政治家が、これを言ってしまったら、「多様な民意を切り捨てますよ」ということを表明しているようなものだ。民主主義は「合意」だ。その「民意の合意」を粘り強く展開するのが「政治家」だ。

だが彼は「自分の意見と異なる結果が出ても、それでも国民投票の結果に従う。これが決定できる民主主義だと思う」と一見すると民主主義を尊重するかのように言っているが、「改憲の発議要件を衆参両院の3分の2から2分の1の賛成に緩和する」と、「緩和」とは聞こえが良いが、「民意」のハードルを低くしてしまっている。
ここに彼の「民意」観がよく出ている。「国民全員」という言葉を使うことで「そうだよな」「どうせ一致できないよな」という感情を呼び起こし、自論に同意を求めている。政治家が国民の「最大公約数」「合意形成」を意識しないということは、その先に何があるか、明瞭だ。だからハードルを低くしてしまうのだ。

彼は選挙で当選したことをもって彼を支持した有権者35.7%を「民意」として、ことあるごとに強調し、委任されたとして政策の実行を迫っている。だが彼の発想からすると64.3%の有権者は「民意」ではないのだ。その理屈は「全員が一致なんてできないから」という論理・思想、言い訳が用意されていることからも判る。

こうした発想は、どのような経過から形成されたのだろうか?一つだけ例をあげおこう。

ある友人の教師を思い出した。それは憲法第9条の学習の時に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とあるが、「この言葉の裏にどんな意味が込められているか」と生徒に尋ねたところ、プリントのウラを覗いたという。或いは「この文言の行間に何が意図されているか」と訊いたところ、「何も書いてありません」と。

笑い話のようだが、生徒の対応には、現代教育の実態がよく出ていると思う。だが橋下市長の発想も同様だろう。これは大阪市議会における質疑のなかで、中田市長の政策を参考にしろと言ったり、特別顧問の意見ではなく、諮問機関の声を訊けと言ったりどっちなんだといった発言が、そのことを端的に示している。

次に「ルールを守れ」について、だ。「ルール」を「遵守」しなければならないのは、彼に他ならない。何故ならば、彼は市長、これも「その他公務員」だ。すでに触れたが憲法99条を尊重すべきなのだ。

彼は「条例」によって公務員に「ルール」を強制し、人権侵害を正当化している。だが、日本国憲法は、「国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」(第98条)とあるように、「条例」は憲法の上位に位置しない。

しかも最高裁判決は「命令」に対して「人権侵害可能」という切符を与えてはいない。パワハラにして然りだ。

もう一つ紹介しておこう。国際法の到達点についてだ。「違法な命令」「人道違反の命令」「人権侵害の命令」に対して「公務員」であっても従う必要はないというのが国際的到達点だ。むしろ「(国民)全体の奉仕者」としては、「人権侵害の命令」を拒否するのは国民のためには当然のことしなければならないのだ。具体的にあげておこう。

世界人権宣言1948年(昭和23)12月10日国連総会決議217(Ⅲ)
第一条
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
第十八条
すべて人は、思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する。この権利は、宗教又は信念を変更する自由並びに単独で又は他の者と共同して、公的に又は私的に、布教、行事、礼拝及び儀式によって宗教又は信念を表明する自由を含む。
第十九条
すべて人は、意見及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。

宗教または信念に基づくあらゆる形態の不寛容および差別の撤廃に関する宣言(抄)
1981年11月25日 国連総会採択
第1条 1すべての人は、思想、良心および宗教の自由についての権利を有する。この権利には、自ら選択する宗教またはいかなる信念でもそれを有する自由、ならびに、単独でまたは他の者と共同しておよび公的または私的に、礼拝、儀式、行事および布教によってその宗教または信念を表明する自由を含む。
2何人も、自ら選択する宗教または信念を有する自由を侵害するおそれのある強制を受けない。
3.宗教または信念を表明する自由については、法律で定める制限であって公共の安全、公の秩序、公衆の健康もしくは道徳または他の者の基本的権利および自由を保護するために必要なもののみを課することができる。

以上、国際法の一端を垣間見るだけでも、弁護士の橋下氏が、市長としても、弁護士としても相応しくないか、示している。

彼の論理を、一つひとつ、分析し、これを支持している世論に対して、異なる見方もあるのだということを噛み合うように提起していく必要があると思う。

橋下「維新の会」に対する「期待」が多いだけに、このことは焦眉の課題だろう。

「自民もダメ、民主もダメ、維新に」とならないようにするためには、橋下市長は良い教材だという視点で、楽しみながら日本の民主主義を探求していこうと思う。

世直しを求むる民の声あまた維新の会に何を学ばむ
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またしても共産党山下質問を無視したマスゴミの共産党嫌いと真実隠しを告発し日の本の春を呼び込もう!

2012-03-14 | 日記
昨日国会質疑を観た。共産党の山下芳生議員の質問は、憲法の原則、労働法の原則などを政府に一つ一つ確認させて、橋下市長のルール違反を暴いて、対策を示した。
http://www.jcp.or.jp/web_mov/2012/03/post-199.html

だが、野田首相は一自治体の問題としてスリカエに終始した。「第10章最高法規」に属する条文である憲法第99条の「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」という思想を完全に無視した答弁だった。これだけでも退陣しなければならないものだ。

だが、現在の主権者である国民の「認識」状況は、とてもそのような状況にない。それは、この問題が、マスコミではほとんど取り上げられていないことに示されている。
共産党の対極にある「産経」は夕方に配信した。これはあっぱれ!
だが、「時事通信」に至っては驚くべきことに、質問そのものを削除している。
「朝日」は、下記の和泉高校の記事とは比べ物にならないほどの小さな記事で申し訳程度に掲載した。以下の記事を具体的に掲載しておこう。

首相、大阪市アンケートは市で判断を 参院予算委で共産が批判2012.3.13 18:54
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120313/plc12031318570020-n1.htm
 野田佳彦首相は13日の参院予算委員会で、大阪府の橋下徹市長が業務命令として要請した組合活動などに関する職員アンケートに反発が出ていることに関し、「個別の地方公共団体内部の事案なので、当該地方公共団体で憲法、法律、条例などに基づき適切に判断し、対応されるべきものだ」と述べ、政府としての言及を避けた。 質問した共産党の山下芳生氏は「憲法で許されない思想調査だ」と“橋下批判”への同調を求めたが、首相は用意したメモを見ながら、同じ答弁を計3回繰り返すのみだった。 それでも山下氏は質問の最後に「首相は『問題ない』とは言わなかった」と強調。その上で「日本共産党は今年創立90周年を迎える。戦前の暗黒時代から今日まで、どんな弾圧を受けようとも、自由と民主主義の旗を降ろさなかった党として民主主義を守る」と訴えた。

参院予算委の質疑要旨(2012/03/13-20:37)http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2012031300942
 13日の参院予算委員会での質疑要旨は次の通り。
 【震災1年】
 白浜一良氏(公明=大阪) 東日本大震災から1年、率直な思いは。
 野田佳彦首相 この1年は一里塚だ。何よりも大事なことは風化させないことで、今回の経験を語り継いでいくことが最大の鎮魂だ。復興交付金や復興特区、復興庁をフル稼働させながら取り組みを加速させていく。福島の再生なくして日本の再生はない。賠償や除染、住民の健康管理を柱にしっかり対応していかなければいけない。
 【震災がれき処理】
 武内則男氏(民主=高知) がれき処理をどう進めるか。
 細野豪志環境相 国有林も有効活用を考えていきたい。(安全基準値を)超えたものは国が責任を持ってやる。通常処理できるものまで全て国有林となると、実際の処理が進まない。安全性が確認できているものは自治体の理解を頂いて、最終的に日本全国で処理する形を取っていきたい。
 【復興交付金】
 吉田忠智氏(社民=比例) 復興交付金の配分額は要望の6割だった。
 首相 丁寧な説明が足りなかった。被災地の皆さんを査定するつもりはない。コミュニケーションの在り方を反省しながら、信頼と納得を得られる努力をしていきたい。
 【原子力規制庁】
 武内氏 原子力規制庁設置の見通しは。
 細野原発事故担当相 警察庁や防衛省からも人を出してもらう。核セキュリティーなどの課題を考えたときに猶予がないテーマだ。
 【中国の商標問題】
 友近聡朗氏(民主=愛媛) 中国での商標問題への対応は。
 枝野幸男経済産業相 大変由々しき事態だ。まかり通っているとすれば国家としてのプライドの問題ではないか。プライドがないのかと言いたい。中国に対して、商標についての厳格な審査を要請したところだ。若干ではあるが姿勢が変わりつつある。
 【国家公務員新規採用】
 小野次郎氏(みんな=比例) 急激な採用削減はしないと約束すべきだ。
 首相 国家公務員試験を目指して日夜、頑張っている若い人たちには恐縮だが、厳しい国難の財政状況をご理解いただき、方針通り進めていきたい。
 【極秘会談】
 小野氏 先月25日、首相が谷垣禎一自民党総裁と会ったという認識を多くの国民が持っている。
 首相 会ったのは藤村修官房長官で、一緒に食事をした。谷垣総裁とは会っていない。
 【企業・団体献金】
 木庭健太郎氏(公明=比例) 民主党は企業・団体献金禁止を掲げているのに、各政党支部は8億7000万円受け取っている。
 首相 (選挙に備え)各党が競い合っている状況で、わが党の支部のみ自粛するのは現実的でない。

大阪市の調査「適切に」  「朝日」14日付 4面
 野田佳彦首祖は13日の衆院予算委で、大阪市が橋下徹市長の指示で全職員に労働組合や選挙活動への関与を問うアンケートをしたことに関し「憲法、法律、条例などに基づき適切に判断し、対応されると考える」と述べた。共産党の山下芳生氏が憲法上の思想、良心の自由に照らして問題はないかと重ねて質問したが、踏み込んだ答弁を避けた。

君が代斉唱も監視  大阪・和泉高校教員の口元見て 「朝日」14日付 38面
 大阪府立和泉高校(中原徹校長」の卒業式で、君が代斉唱の際、教員が起立したかどうかに加え、実際に歌ったかどうかを管理職が口の動きでチェックして府教委に報告していたことがわかった。府教委は起立斉唱を求める職務命令を全教職員に出しており、メールで報告を受けた橋下徹大阪市長は「これが服務規律を徹底するマネジメント」「ここまで徹底していかなければなりません」と賛辞を送っていた。
橋下氏は起立斉唱を義務づけた君が代条例を成立させた大阪維新の会代表。中原校長のメールによると、教頭が全教員の口の動きを目視で確認。「3名の口が動いていなかった」と報告を受け、3人を校長室に呼んだ。2人は「斉唱した」と話したが、1人は歌わなかったことを認めたという。
 中原校長は「他校の校長は『斉唱』まで確認していないと思います」「確認していたとしても『起立していればよい』と仲間をかばつて報告していないと思います」「ちなみに3人とも組合員」と報告していた。
 府教委は「中原校長は職務命令を忠実に実行した」との立場で、1人を職務命令違反で処分することを検討中。府教委はこれまで、国歌斉唱で起立しなかったと報告を受けた17人を戒告処分にしたが、斉唱しなかった教員を報告してきたのは和泉高校だけという。
 2人のメールのやりとりを知った府教委の生野照子委員長は「いったい、お2人はどうなされたのか」「もっと悠々たる度量でご検討を」と橋下氏と中原校長にメールを送っていた。
 中原校長は橋下氏の大学時代からの友人で、米国の弁護士などを経て2010年春に校長就任。橋下氏は13日、取材に「そこまでやっていない大阪の高校の方がおかしい」と話した。

どうだろうか。問題点は一目瞭然ではないだろうか?

橋下市長の憲法無視のルール違反は政府の国会答弁でも証明されているにもかかわらず、それを報道せず、君が代の「口元監視」は「条例違反=ルール違反」問題として大々的に報道するのだ。

その点で今朝のテレビ朝日「モーニングバード!」は「口元監視」は「やりすぎ」83人、「当然」17人と報道した。「当然」の理由は「ルールを徹底するためには当然」「学校はルールを教えるとおろ先生は手本」というものだ。「やりすぎ」は「チェックを始めたらキリがない」「卒業式を教職員チェックの場所にしないでほしい」だった。

この問題は橋下市長のやり方の是非についての質問になっていないことや「やりすぎ」かどうかなどという問題ではない。人権と民主主義の問題だ。こうしたやり方が国民に降りかかってくる(いやすでに来ているのだが)ことを想像できないことそのものが問題だ。だが、こうした問題設定においても「問題」とする声が圧倒的多数になっている。

このアンケートにも出され、橋下市長も繰り返し述べている「ルール違反」問題についてだ。以下の事実が示している。

そもそも国旗国歌法には、橋下市長のような行為は想定されていないのだ。そればかりか、「内閣総理大臣の談話(平成11年8月9日)」によって「義務を課」していないと明言されているのだ。http://www8.cao.go.jp/chosei/kokkikokka/kokkikokka.html
今回の法制化は、国旗と国歌に関し、国民の皆様方に新たに義務を課すものではありませんが、本法律の成立を契機として、国民の皆様方が、「日章旗」の歴史や「君が代」の由来、歌詞などについて、より理解を深めていただくことを願っております。

明らかに「ルール違反」は橋下市長の側にある。

このことをマスゴミは伝えていないし、最高裁判決も、このことに触れていないばかりか、「日の丸・君が代」問題の本質をタブー視し、曖昧な判決を下したのだ。そうした問題が、橋下市長の暴走を許しているのだ。事実上の橋本市長と「維新の会」擁護派になっている。

だが、この暴走が繰り返されることによって、マスゴミの橋下市長扇動と橋下市長の本質が、ますます浮き彫りになっていくことも事実だ。

橋下市長の動向については、日々マスゴミによって垂れ流されているが、彼を批判する動向は、同じ時間を使って報道されていないことが最大の要因だ。このことは先の大阪市議会における北山 良三議員(日本共産党)の質疑を黙殺した経過にも示されている。
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu260/live/session.html

こうしたマスコミを使った体制擁護派の憲法無視と形骸化、その「メディアジャック」は、体制変革を招いたソ連・東欧の崩壊やアラブの春などを起こさせないための必死の悪あがきだろう。そういう意味で良い教材だ。

この憲法違反を告発した山下芳生議員の質疑を黙殺しながら、木嶋被告の裁判を詳細に伝えるマスゴミは、その立ち居を良く示している。

木嶋被告「行き直したい」 連続不審死 殺害重ねて否定 「朝日」14日付39面は、8段828字でイラストと検察の主張と反論の一覧表を掲載している。だが、木嶋被告の発した意見陳述は、今日のマスゴミに跳ね返ってくる言葉だ。以下その部分のみを掲載しておこう。

審理の最後に大熊裁判長から意見を求められた木嶋被告は、改めて無罪を主張する一方で、「今回の裁判で人生を振り返り、自分の(男性観や金銭感覚などの)価値観が間違ったものであつたと気づかされました。今回学んだことをかみしめて、生き直したい」と涙声でうつむきながら語った。(藤田絢子)

歴史の審判は、木嶋被告の言葉を伝えるマスゴミに、そのまま跳ね返ってくることを肝に銘ずるべきだろう。あの戦争に加担し「反省」したことを、よもや忘れたとは、言わせないぞ。
「今回の橋下市長の条例問題を振り返り、マスゴミの価値観が間違ったものであつたと気づかされました。今回学んだことをかみしめて、生き直したい」と涙声でうつむきながら語った。

ということのないようにしなければならない。

日の本の春呼ぶ息吹あちこちに報せるメディア閉づるマスゴミ
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人命救出のお「トモダチ」を人殺しの「トモダチ」の日米同盟深化にスリカエ、利用する姑息な輩を見破る眼

2012-03-13 | 日記
3月11日、テレビ朝日の「報道特別番組」は「トモダチ作戦〝日本ヲ救出セヨ!〟アメリカ軍が激写した膨大なVTR独占入手 陸の孤島SOSを探せ 美女パイロットの奮闘 少年と海兵隊が作った感動の明日に掛ける橋」を視た。

これを見る限り、米軍「様様」だった。狙いどおりだ。実に上手い編集だ。「アッパレ!」を送りたい!

こうやって「救出していただいた」論・感を振りまく手法で人民を洗脳していくのだな、という意味で良い教科書だった。

米軍の日本人救出劇がメディアによって伝えられたことによって、国民の中に変化が起こったようだ。以下の世論調査が、これまたピッタシカンカン!と言っても言い過ぎでないように、内閣府によって流された。スケジュールどおりだ。

自衛隊の災害派遣97・7%が評価 「良い印象」過去最高の91・7%2012.3.11 01:01
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120311/plc12031101020000-n1.htm
 内閣府が10日発表した「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」で、東日本大震災に関する自衛隊の災害派遣活動を「評価する」と答えた人は97・7%に達した。自衛隊に好印象を持つ人も91・7%となり、昭和44年の調査開始以来、過去最高となった。危険を顧みずに献身的な活動を続けた自衛隊の存在が改めて評価されたといえる。
 自衛隊に対する印象について「良い」と答えた人は37・5%で、「どちらかといえば良い」(54・2%)と合わせると91・7%が好印象を持ち、3年前の前回調査より10・8ポイント増加した。「どちらかといえば悪い」、「悪い」は合わせて5・3%にすぎなかった。
 災害派遣活動については「大いに評価」が79・8%、「ある程度評価」は17・9%。「全く評価しない」の回答は皆無だった。
 米軍が震災後に展開したトモダチ作戦は79・2%が「成果をあげた」とし、日米安保条約が「役立っている」とした回答も過去最高の81・2%に上った。震災を通じて日米同盟の必要性がさらに浸透した形だ。
 自衛隊の存在目的を尋ねた複数回答の項目では、「災害派遣」(82・9%)が前回調査同様トップだったが、次点の「国の安全の確保(外国からの侵略防止)」が78・6%(前回比8・6ポイント増)に急増。
 背景には北朝鮮や中国の軍事的脅威を挙げる回答が増加し、72・3%が日本が戦争に巻き込まれる危険性を感じていることがある。このため、防衛力を「増強した方がよい」との回答も24・8%(前回比10・7ポイント増)となり、過去最高を更新した。
 調査は1月5~22日まで全国の成人男女3000人を対象に個別面接方式で実施。有効回収率は63・1%で、昭和44年から3年ごとに行われている。

産経など、日米同盟深化派は、笑いが止まらないだろう。

日本の米好感度85%に急上昇=「トモダチ」作戦で―世論調査2012年3月8日 09時57分 http://www.excite.co.jp/News/world_g/20120308/Jiji_20120308X825.html
 【ワシントン時事】米世論調査機関ピュー・リサーチ・センターは7日までに、日本を含む23カ国の対米意識調査を発表した。日本での調査は、東日本大震災直後の昨年4月から5月にかけて実施。米国の被災地救援・支援活動「トモダチ」作戦を受け、好感度は85%と調査を行った国の中で最も高かった。2010年の調査では好感度は66%だった。 また、「米国は多大な支援を行った」との回答は57%に上った。欧州連合(EU)や国連、中国の支援を「多大」と評価したのは2割以下で、米国の支援を高く評価していることが明らかになった。 

横須賀、米軍基地「賛成」が最多 トモダチ作戦評価2011/07/21 19:02 【共同通信】
 在日米海軍司令部を抱える神奈川県横須賀市が3月に行った市民の意識調査で、米軍基地は「あった方が良い」と回答した人が34・7%に上り、同じ設問を取り入れた1999年以降で最も高くなったことが21日、市への取材で分かった。
 市の担当者は「米軍が東日本大震災の被災地を支援したトモダチ作戦への評価だろうが、予想外の伸び」と驚いている。
 市によると、調査は3月9~28日に2千人を対象に実施。行政全般について質問し、914人から回答を得た。
 市内の米軍基地への考え方は「あった方が良い」(34・7%)が2008年の前回調査より17・1ポイント上昇。

だが、これらの「世論」は戦争をする軍隊としての自衛隊や米軍を支持したものか?それは否である。それをことさら隠そうとすればするほど、国民への良い教材となることを強調しておこう。

今回のトモダチ作戦と自衛隊の出動は、教育勅語の徳目を思い出さずにはいられない。あのいくつかの徳目を「説教」した手法と同じであることを見抜く必要があることを、改めて教えてくれた。あの徳目の最後に「天皇のために死ぬ」ことがあり、それが現在においては国の平和と繁栄にスリカエラレていることだ。

テレビ朝日の特集を視た国民、自衛隊や米軍の救出劇を視た住民が、イラクやアフガンで住民を殺戮している海兵隊を想像できないことは当然だ。しかもあの地震と津波で命を失った家族や友達が大勢出た中で、ようやく助かった人たちを待っていたのは極寒と空腹だた。そういう中で救出に来た米軍や自衛隊に感謝しないはずはない。

以下の記事が、そのことを示している。
沖縄、米軍への共感じわり 地元紙は「普天間問題に利用」「産経主張」2011.4.7 00:36
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110407/dst11040700390001-n3.htm
沖縄在住の拓殖大学の恵隆之介客員教授(57)は「新報もタイムスも実は海兵隊、米軍への理解や称賛が県民や国民に広がることに慌てているのだ。海兵隊の存在意義、必要性が動かぬ事実として示されているのに、彼らはそれを認めたくない。そこで支援活動の詳細は伝えずにケチをつける。沖縄の言論空間は批判を許さない言論統制をしくどこかの国と似ている」と指摘する。

 高崎経済大の八木秀次教授の話 「米軍の救援活動が『政治利用されかねない』とか『存在意義をアピールして強い違和感を覚える』といった評価を下すこと自体、彼らが政治的な思惑をもっていることを示している。多くの国民にとって米軍の救援活動がいかに有り難いものか。これが明白になっているのに沖縄メディアのこうした捉え方は心ないだけでなく、被災地の方々の素朴な捉え方とも相いれないだろう。国家的な災害に遭い、助けてもらっているのに、助けられた側が『あれはパフォーマンスだ』などとは言うべきことではない。米軍の負の側面ばかりを強調し、国家的な視点に欠けて『沖縄=米軍の被害者』の視点から抜け出せない。こうした沖縄のメディアの諸問題を端的に示した現象だろう。多くの沖縄県民は両紙を情報源にして大きな影響力がある。これでは公正な判断を妨げるのではないか」

だが、こうした国民の感情を利用・悪用する、逆手にとる態度は、大喝!だ。大いに問題にしなければならない。それは以下の点について、だ。
1.米軍や自衛隊の救出劇については、国家が編成している軍が、人民を救出しなかったら、それこそ、軍隊不要論が出てくるだろう。日米同盟深化派が最も恐れるのは、こうした国民の目線だ。だからこそ救出したのだということを忘れてはならない。「救出していただいた」論・感は間違いだということ、救出のために出動したのは「当然」なのだということを、再確認する必要がある。軍事費を出しているのは納税者である国民なのだ!

2.以下の記事にみるように、救出劇を政治的に利用することが、死者を含めた被災者に対する冒涜であることだ。
(1)日米トモダチ作戦 経験を同盟深化に生かせ2011.3.28 03:12
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110328/plc11032803120001-n1.htm
「米軍普天間飛行場の移設問題では民主党政権の迷走から米国側に対日不信が募り、逆に最近の米国務省日本部長の『沖縄県民はゆすりの名人』発言には日本側が傷ついた。震災の経験は新たな日米の絆づくりの出発点」とあるように、日米同盟深化派の狙いはハッキリしているが、
(2)外務省幹部の「オペレーションの性質は違うが、民間施設利用や上陸など実態的には朝鮮半島有事を想定した訓練ともなった」(「毎日」11年4月22日)というように「救出作戦」に名を借りた「軍事作戦」だったことを、「朝日」を含めてマスコミは詳細に検証すべきだろう。

(3)「トモダチ作戦」で米軍は存在感を示し、自衛隊との関係強化にもつながった。しかし、米国には懸念も深まる。震災発生直後、オバマ政権に近い米シンクタンク・新米国安全保障センター(CNAS)はリポートを発表。大震災による巨額の復興費用が防衛費を圧縮し、「日米同盟の能力低下につながる」との懸念を指摘した。アジア太平洋の「礎石」と位置付ける日本を支えることで同地域での指導力を維持する--。「トモダチ」は、米国の国益をかけた作戦でもあった。(「毎日」11年4月22日)という事実を「朝日」など、マスコミは詳細に検証すべきだ。

(4)何故米軍や自衛隊だけを強調するのか、その政治的意図を見向く必要がある。
それは「象徴としての天皇明仁」が「内閣の助言と承認」によってつくられた「お言葉」で語ったことだ。特に日中平和友好条約を結んでいる中国は米軍と同じように軍隊の派遣を打診してきている。以下の記事が示している。
検証・大震災:トモダチ作戦 米のアジア太平洋戦略、鮮明
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/verification/news/20111229ddm010040017000c.html
一方、被災地支援では、中国政府による「軍事支援」の申し出が、幻に終わった事例もあった。 大震災から5日後の3月16日、中国国防省が病院船派遣の用意があることを伝えたが、日本政府は27日、「港が津波で被害を受け、船を接岸できない」と、謝意を伝えたうえで辞退。だが、米海軍幹部は「中国軍の病院船が入ればトモダチ作戦のオペレーションに加わることになり、作戦会議を通じ情報を一部共有しなければならなくなる」と指摘。米軍の意向が働いた可能性を示唆した。(「毎日」11年12月29日)

まだ諸事実はあるが、今日のところは、「これまで」としておこう。

いつの世も平和のためと(いくさ)する輩(やから)の論理民を軽んず
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国民の感情を利用した天皇の「一億総懺悔」「お言葉」、野田政権の思惑と、その政治的意味と利用を考える

2012-03-12 | 日記
昨日は日本中が鎮魂に包まれた。愛国者の邪論も、とある集会に参加し、署名集めをやった。帰宅し居住地域にビラと署名用紙を配布した。

ところでテレビはずっと、この問題を報道していた。未だ行方不明者を「救出」する立場から、「復旧」「復興」の現状を告発する立場から。さらには、今後起こるであろう「日本沈没」の危機と対策を訴える立場から。また「トモダチ」作戦を賛美し、事実上日米同盟容認を鼓吹する立場もあった。「トモダチ」作戦と日米同盟については、後日に。

だが、原発によって利益を得ていたムラビトたちの「責任」を追及するものは、愛国者の邪論が見た限り、ほとんどなかったように思う。

そこで、以下の記事を掲載して、以上の問題を指摘しておこう。

【3・11から1年】天皇陛下おことば2012.3.11 15:31
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120311/dst12031115320024-n1.htm
東日本大震災から一周年、ここに一同と共に、震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します。
 一年前の今日、思いも掛けない巨大地震と津波に襲われ、ほぼ二万に及ぶ死者、行方不明者が生じました。その中には消防団員を始め、危険を顧みず、人々の救助や防災活動に従事して命を落とした多くの人々が含まれていることを忘れることができません。
 さらにこの震災のため原子力発電所の事故が発生したことにより、危険な区域に住む人々は住み慣れた、そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっています。
 この度の大震災に当たっては、国や地方公共団体の関係者や、多くのボランティアが被災地へ足を踏み入れ、被災者のために様々な支援活動を行ってきました。このような活動は厳しい避難生活の中で、避難者の心を和ませ、未来へ向かう気持ちを引き立ててきたことと思います。この機会に、被災者や被災地のために働いてきた人々、また、原発事故に対応するべく働いてきた人々の尽力を、深くねぎらいたく思います。
 また、諸外国の救助隊を始め、多くの人々が被災者のため様々に心を尽くしてくれました。外国元首からのお見舞いの中にも、日本の被災者が厳しい状況の中で互いに絆を大切にして復興に向かって歩んでいく姿に印象付けられたと記されているものがあります。世界各地の人々から大震災に当たって示された厚情に深く感謝しています。
 被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくようたゆみなく努力を続けていくよう期待しています。そしてこの大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。
 今後、人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い、御霊への追悼の言葉といたします。


「お言葉」の「政治利用」については、「君が代強制」発言や岡田・小沢発言などなど、繰り返し問題となってきた。この場合「誰」が「象徴」しての「天皇」を「政治利用」するのか、一つ一つ明らかにしなければならないだろう。

その際の原則は、天皇の「地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」ということだ。「主権の存する日本国民の総意」、すなわち「橋下流」に言えば「民意」だ。この「民意」を体現したときにのみ「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」となることができるのだ。
しかも、その「象徴」という「立場と行動」は「内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」のだ。その行動は「憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」というもので、その限りにおいてのみ「象徴」としての存在が可能になるのだ。

そういうことをふまえて、今回の「お言葉」はどのような「内閣の助言と承認」の下におこなわれたか、この「お言葉」に「内閣」はどのような「その責任を負ふ」ことができるか、そのことを指摘してみたい。

その際、「原発」問題についての「お言葉」は、この程度になるだろうな、というのが、率直な気持ちだ。だが、以下の「お言葉」は「政治的」だった。

これは「象徴としての天皇明仁」がどうのこうのということではない。断っておくが、「象徴としての天皇明仁」は、「人格」が、私たち国民とは異なるので、あえて「天皇明仁」と呼ぶことにする。

>国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくようたゆみなく努力を続けていくよう期待しています。

>そしてこの大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。

>今後、人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い、御霊への追悼の言葉といたします。

この「お言葉」の「主語」は「国民皆」である。「一億総懺悔」を思い出したのは愛国者の邪論だけだろうか?理由について、以下述べてみる。

万歩譲って「国民皆」が妥当であるならば、その「国民皆」の中に入っていない「国民」がいることを、天皇明仁をとりまく「国民」は、想像できていないことになる。いや天皇の「お言葉」にはそのような問題を差し入れることはできないのかももしれない。

そのことを百歩認めたとすると、では、「内閣の助言と承認を必要」としているこの「お言葉」に対しては「内閣が、その責任を負ふ」ことになる。

そうすると、とんでもない「象徴としての天皇明仁」の「政治利用」ということになる。

確かに「象徴としての天皇明仁」は高齢の手術後の身体である。自分から出席することを公表しての参加である。それなりの決意があったであろことは想像に難くない。

だが、この「お言葉」のもつ「政治的」意味を考えると、どのような「助言と承認」の下に発せられたのか。それが問題なのだ。「助け合い」「感謝」「恩返し」「日本の再生」を強調、説教した野田首相の「式辞」とリンクすると、良く見えてくる。

では抜き出した「国民」は誰か。

原発によって利益を得てきた「国民」に他ならない。復興に対して「絆」を強調し、その「絆」の枠外に身を置いて、「身を切る」ことをしない「国民」だ。

「安全な国土を目指して」「人々が安心して生活できる国土」に「進んでいく」ために必要なカネを出していない「国民」がいることをいっさい語らないこと、このことを問題の枠外におくために「象徴としての天皇明仁」の「政治利用」を図った「内閣の責任」を正していかなくてはならない。

このことは以下の記事を見れば、いっそう明らかになる。
【3・11から1年】推計被害は17兆4200億円2012.3.11 20:29
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120311/plc12031120300013-n1.htm
 東日本大震災の推計被害額は約17兆4200億円に上る。ただ、多くの項目は内閣府が昨年6月にとりまとめて以降、更新されておらず、今後大幅に上回る可能性もある。
 項目別の被害額は、住宅、工場などの建築物=10兆4千億円▽水道、電気設備などのライフライン=1兆3千億円▽道路、港湾などの社会基盤=2兆2千億円▽その他(文教、福祉施設など)=1兆1000億円。 農林水産関係は1兆9000億円だったが、農林水産省のその後の調査で、2兆4268億円(3月5日時点)と大幅に増加した。
 一方、国の復興・復旧費は平成23年度1~3次補正予算で計15兆2579億円が計上。24年度予算案では3兆7754億円が盛り込まれており、全体で19兆333億円に上っている。

以上の金額は、以下に述べる「国民」がカンパすれば、復興はできるだけ早く実現できるだろう。それは、どんな「国民」か。

それは労働者のうち4割もの「国民」を非正規労働者にしておきながら、長時間過密労働下に置き、その賃金をピンハネして、その作り出した富・価値を、しこたまタクワエ、この「タクワエ」を復興資金に使ってくれというのではなく、逆に消費税増税と法人減税を迫り、輸出品に一円も消費税を支払うことなく、増税によってさらに大儲けしようとしている「国民」だ。

だが、曖昧な「国民皆」とすることで、塗炭の苦しみを与えた「国民」の先輩たちを免罪したように、今回の「国民皆」によって、さらに「免罪」しようとしているのだ。

付け加えておけば、以下の文章を「お言葉」として挿入することこそ、今回の「一億総懺悔」式の「国民皆」を根本から克服することになるのだということを、声を大にして言っておこう。

>そしてこの戦争の惨禍の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、戦争と平和に対する心掛けを育み、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼しながら連帯し、平和で安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。

>今後、人々が安心して生活できる国土が築かれ、国際社会において、名誉ある地位を占めていくことを一同と共に願い、御霊への追悼の言葉といたします。

お言葉の術を捻じ曲げまたしてもいつまでつづくホンネも言へぬ
曖昧なショーチョーやめて住む処西の都の山里の館(たち)
一億の総ての懺悔日の本の政治の性(さが)を語らぬ政治
またしても的射ぬらせぬ言の葉にしこたま儲くる輩の笑ひ
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卒業式や入学式に起立・礼/斉唱の「命令」は天皇礼賛と忠君愛国教育の遺産、体育館から博物館へ

2012-03-10 | 日の丸・君が代

橋下「維新の会」が条例で強制しようとする「日の丸」礼拝、「君が代」斉唱の命令は、大いなる憲法違反である。

だが、以下の記事をみるように、最高裁判決の事実を伝えない都合の良い解釈と歴史を偽造し、愚弄する思想が、日本の最高裁で行われたことは、日本の歴史に重大な汚点を残すものとして、忘れてはならないだろう。以下指摘してみる。

「国際常識を身につけるため、国旗、国歌に敬意を」 国歌斉唱時の起立命令は合憲 最高裁が初判断2011.5.30 17:42 (1/2ページ)[憲法・法律]
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110530/trl11053017440005-n1.htm

卒業式の国歌斉唱で起立しなかったことを理由に、退職後に嘱託教員として雇用しなかったのは違法として、東京都立高の元教諭が都に損害賠償などを求めた訴訟の上告審判決で、最高裁第2小法廷(須藤正彦裁判長)は30日、起立を命じた校長の職務命令を合憲と判断し、元教諭側の上告を棄却した。都に賠償を命じた1審判決を取り消し、元教諭側の逆転敗訴となった2審判決が確定した。
 最高裁は平成19年2月、国歌伴奏を命じた職務命令を合憲と初判断したが、国歌斉唱の起立命令に対する合憲判断は初めて。
 1、2審判決などによると、元教諭は16年3月の都立高の卒業式で起立せず、東京都教育委員会から戒告処分を受けた。19年3月の退職前に再雇用を求めたが、不合格とされた。
 同小法廷は判決理由で、卒業式などでの国歌斉唱の起立は「慣例上の儀礼的な所作」と定義。起立を命じた職務命令について「個人の歴史観や世界観を否定しない。特定の思想の強制や禁止、告白の強要ともいえず、思想、良心を直ちに制約するものとは認められない」と指摘した。
 その上で、「『日の丸』や『君が代』が戦前の軍国主義との関係で一定の役割を果たしたとする教育上の信念を持つ者にとっては、思想、良心の自由が間接的に制約される面はあるが、教育上の行事にふさわしい秩序を確保するためには合理的だ」との判断を示した。
 判決は4人の裁判官の全員一致の意見で、うち3人が補足意見を付けた。竹内行夫裁判官は「他国の国旗、国歌に対して敬意をもって接するという国際常識を身に付けるためにも、まず自分の国の国旗、国歌に対する敬意が必要」とした。
 1審東京地裁判決は21年1月、職務命令の違憲性を否定したが、「起立しなかったのは1回だけで不採用は裁量権の乱用にあたる」として都に約210万円の賠償を命じた。2審東京高裁は同年10月、職務命令の合憲性を認め、命令がある以上、元教諭は従う職務上の義務があるとして、1審判決を取り消し、逆転判決を言い渡した。

<最高裁判決>読みやすくするために、読みやすくするために分けて掲載してみた。

しかしながら,本件職務命令当時,公立高等学校における卒業式等の式典において,
国旗としての「日の丸」の掲揚及び国歌としての「君が代」の斉唱が広く行われていたことは周知の事実であって,

学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,一般的,客観的に見て,これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり,
かつ,
そのような所作として外部からも認識されるものというべきである。

したがって,上記の起立斉唱行為は,その性質の点から見て,上告人の有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえず,

上告人に対して上記の起立斉唱行為を求める本件職務命令は,上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない。

また,上記の起立斉唱行為は,その外部からの認識という点から見ても,特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難であり,
職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合には,上記のように評価することは一層困難であるといえるのであって,

本件職務命令は,特定の思想を持つことを強制したり,これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく,特定の思想の有無について告白することを強要するものということもできない。

そうすると,本件職務命令は,これらの観点において,個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできないというべきである。

そこで,このような間接的な制約について検討するに,個人の歴史観ないし世界観には多種多様なものがあり得るのであり,それが内心にとどまらず,それに由来する行動の実行又は拒否という外部的行動として現れ,当該外部的行動が社会一般の規範等と抵触する場面において制限を受けることがあるところ,その制限が必要かつ合理的なものである場合には,その制限を介して生ずる上記の間接的な制約も許容され得るものというべきである。

そして,職務命令においてある行為を求められることが,個人の歴史観ないし世界観に由来する行動と異なる外部的行為を求められることとなり,その限りにおいて,当該職務命令が個人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があると判断される場合にも,職務命令の目的及び内容には種々のものが想定され,また,上記の制限を介して生ずる制約の態様等も,職務命令の対象となる行為の内容及び性質並びにこれが個人の内心に及ぼす影響その他の諸事情に応じて様々であるといえる。

したがって,このような間接的な制約が許容されるか否かは,職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量して,当該職務命令に上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当である。

(3) これを本件についてみるに,
本件職務命令に係る起立斉唱行為は,前記のとおり,上告人の歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となるものに対する敬意の表明の要素を含むものであることから,そのような敬意の表明には応じ難いと考える上告人にとって,その歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為となるものである。

この点に照らすと,本件職務命令は,一般的,客観的な見地からは式典における慣例上の儀礼的な所作とされる行為を求めるものであり,それが結果として上記の要素との関係においてその歴史観ないし世界観に由来する行動との相違を生じさせることとなるという点で,その限りで上告人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があるものということができる。

他方,学校の卒業式や入学式等という教育上の特に重要な節目となる儀式的行事においては,

生徒等への配慮を含め,教育上の行事にふさわしい秩序を確保して式典の円滑な進行を図ることが必要であるといえる。

法令等においても,学校教育法は,高等学校教育の目標として国家の現状と伝統についての正しい理解と国際協調の精神の涵養を掲げ(同法42条1号,36条1号,18条2号),

同法43条及び学校教育法施行規則57条の2の規定に基づき高等学校教育の内容及び方法に関する全国的な大綱的基準として定められた高等学校学習指導要領も,学校の儀式的行事の意義を踏まえて国旗国歌条項を定めているところであり,

また,国旗及び国歌に関する法律は,従来の慣習を法文化して,国旗は日章旗(「日の丸」)とし,国歌は「君が代」とする旨を定めている。

そして,住民全体の奉仕者として法令等及び上司の職務上の命令に従って職務を遂行すべきこととされる地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性(憲法15条2項,地方公務員法30条,32条)に鑑み,

公立高等学校の教諭である上告人は,法令等及び職務上の命令に従わなければならない立場にあるところ,地方公務員法に基づき,高等学校学習指導要領に沿った式典の実施の指針を示した本件通達を踏まえて,その勤務する当該学校の校長から学校行事である卒業式に関して本件職務命令を受けたものである。

これらの点に照らすと,本件職務命令は,公立高等学校の教諭である上告人に対して当該学校の卒業式という式典における慣例上の儀礼的な所作として国歌斉唱の際の起立斉唱行為を求めることを内容とするものであって,

高等学校教育の目標や卒業式等の儀式的行事の意義,在り方等を定めた関係法令等の諸規定の趣旨に沿い,かつ,地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性を踏まえた上で,生徒等への配慮を含め,教育上の行事にふさわしい秩序の確保とともに当該式典の円滑な進行を図るものであるということができる。

以上の諸事情を踏まえると,本件職務命令については,前記のように外部的行動の制限を介して上告人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面はあるものの,

職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量すれば,上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるものというべきである。

(4) 以上の諸点に鑑みると,本件職務命令は,上告人の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に違反するとはいえないと解するのが相当である。(引用ここまで

長々と掲載してみたが、人のことは言えないが、わかりにくい文章だな。だが、いろいろ言っているが、「職務命令」を「合憲」とする最高裁判決の理由は、以下のとおりである。

1.日の丸君が代は広く行われていた
2.起立斉唱行為は,一般的,客観的に見て,これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有する
3.歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない。
4.職務命令は,特定の思想を持つことを強制したり,これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく,特定の思想の有無について告白することを強要するものということもできない。
5.当該学校の卒業式という式典における慣例上の儀礼的な所作として国歌斉唱の際の起立斉唱行為を求めることを内容とするもので
6.生徒等への配慮を含め,教育上の行事にふさわしい秩序の確保とともに当該式典の円滑な進行を図るもの
7.高等学校教育の目標や卒業式等の儀式的行事の意義,在り方等を定めた関係法令等の諸規定の趣旨に沿い,
8.かつ,地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性を踏まえた

だが、これらの「理由」は、最初から結論が決まっていて、ただあれこれの言い訳を言っているだけだ。

だが、重大なことを無視しているという点で間違っている。

1.「広く行われていた」とする「日の丸」礼拝と「君が代」斉唱の戦前・戦後の歴史を語っていない。

2.学校の卒業式や入学式という儀式における「日の丸」礼拝と「君が代」斉唱の教育的意味を語っていない。小学生においては12回、中学生においては6回、高校生においては6回、合計24回の儀式において、礼拝と斉唱がどのような教育的意味をもっているかだ。生徒に何を獲得させるのか、はっきりしていない。

3.儀式における「教育上の行事にふさわしい秩序の確保とともに当該式典の円滑な進行」の教育的意味は何か、語っていない。

4.「学校教育法は,高等学校教育の目標として国家の現状と伝統についての正しい理解と国際協調の精神の涵養を掲げ」ているとあるが、具体的に指摘もしていないし、「高等学校教育の目標」とは何かも語っていない。しかもそのような「目標」が24回の儀式で獲得できるかどうかも無視しいている。全く非教育的判決文と言える。

5.学校教育における24回の儀式の歴史がどのような経過をもって実践され、どのような人格形成がなされたか、判決文は、全く語っていない。これは歴史に対する冒涜と言えるもので、最高裁判事の文章としては耐えることのできないシロモノである。

そこで、最高裁の儀式認識の誤りについて、以下の事実をあげておこう。

それはまず一つ目、『児童用 尋常小学修身書 巻四』(昭和二年十月版)をあげておこう。

第二十二 國旗
このは紀元節に家々で日の丸の旗を土てたのを、子供たちが見て、よろこばしさうに話をしてゐる所です・
どこの國にもその國のしるしの旗があります。これを國旗と申します。日の丸の旗は、我が國の國旗でございます。
我が國の祝日や祭日には、学校でも家々でも國旗を立てます。その外、我が國の船が外國の港にとまる時にも之を立てます。
國旗はその國のしるししでございますから、我等日本人は日の丸を大切にしなければなりません。又禮儀を知る國民としては外國の國旗もさうたうにうやまはなければなりません。

第二十三 祝日・大祭日
我が國の祝日は新年・紀元節・天長節・明治節でございます。新年は一月一日・二日・五日、紀元節は二月十一日、天長節は四月二十九日、明治節は十一月三日で、いづれもmrでたい日でございます。
大祭日は元始祭・春季皇霊祭・神武天皇祭・秋季皇霊祭・神嘗祭・新嘗祭・大正天皇祭でございます。・・・祝日・大祭曰は我が國にてまことに大切な日で、宮中ではおごそかな御儀式を行はせられます。我等はよくその日のいはれをわきまへて忠君愛國の精神を養はなければなりません。

第二十七 よい日本人  掲載しなくとも可能だろう。想像してほしい。

キィーワードは「天皇陛下の御恩」「忠君愛國」「國旗を大切に」「祝祭日のいはれをわきまへ」「日本人には忠義と孝行がいちばん大切」「礼儀を守り」「規律ただしく」だ。

さて、こうした思想が、どこに温存され続けてきたか、明瞭だろう。そして、今誰がどこで具体化しようとしているか、だ。

さて、「よい日本人」となるために「儀式」を最大限利用しようとした。

次の事例は以下の規定だ。どこかの条例と似ていないか?

「小学校祝日大祭日儀礼規程 文部省令第4号」(1891年6月17日)

明治二十三年十月勅令第二百十五號小學校令第十五條ニ基キ小學校ニ於ケル祝日大祭日ノ儀式ニ關スル規程ヲ設クルコト左ノ如シ

  小學校祝日大祭日儀式規程

第一條 紀元節、天長節、元始祭、嘗祭及新嘗祭ノ日ニ於テハ學校長、員及生徒一同式場ニ
參集シテ左ノ儀式ヲ行フヘシ
 一 學校長員及生徒
   天皇陛下及
   皇后陛下ノ 御影ニ對シ奉リ最敬禮ヲ行ヒ且兩陛下ノ萬歳ヲ奉祝ス
   但未タ 御影ヲ拜戴セサル學校ニ於テハ本文前段ノ式ヲ省ク
 二 學校長若クハ員、育ニ關スル 勅語ヲ奉讀ス
 三 學校長若クハ員、恭シク育ニ關スル 勅語ニ基ヅキ 聖意ノ在ル所ヲ誨告シ又ハ
   歴代天皇ノ 盛 鴻業ヲ敍シ若クハ祝日大祭日ノ由來ヲ敍スル等其祝日大祭日ニ相應ス
 ル演説ヲ爲シ忠君愛國ノ志氣ヲ涵養センコトヲ務ム

第二條 孝明天皇祭、春期皇靈祭、武天皇祭及秋期皇靈祭ノ日ニ於テハ學校長、員及生徒一
同式場ニ參集シテ第一條第三款及第四款ノ儀式ヲ行フヘシ

第三條 一月一日ニ於テハ學校長、員及生徒一同式場ニ參集シテ第一條第一款及第四款ノ儀式
ヲ行フヘシ

第四條 第一條ニ掲クル祝日大祭日ニ於テハ便宜ニ從ヒ學校長及員、生徒ヲ率ヰテ體操場ニ臨
ミ若クハ野外ニ出テ遊戲體操ヲ行フ等生徒ノ心情ヲシテ快活ナラシメンコトヲ務ムヘシ

第五條 市町村長其他學事ニ關係アル市町村吏員ハ成ルヘク祝日大祭日ノ儀式ニ列スヘシ

第六條 式場ノ合ヲ計リ生徒ノ父母親戚及其他市町村住民ヲシテ祝日大祭日ノ儀式ヲ參觀スル
コトヲ得サシムヘシ

第七條 祝日大祭日ニ於テ生徒ニ茶菓又ハ育上ニ裨アル繪畫等ヲ與フルハ妨ナシ

第八條 祝日大祭日ノ儀式ニ關スル次第等ハ府縣知事之ヲ規定スヘシ

この中で、「御影ニ對シ奉リ最敬禮」という事実が、今でも学校に残っていることを知る人はいないだろう。教師でさえも、すっかり忘れているか、知らないか、だから。
体育館の壁に向かって「一同礼」を「節目となる儀式的行事」において、「慣例上の儀礼的な所作」として、行われているのだ。彼らは、決して思想信条が侵されたとは、ちっとも思っていないのだ。それは事実を知らないからだ。丁度11月月3日が「文化の日」で休めるからいいじゃないか、11月23日が勤労感謝の日として休みだから嬉しいということと同じだ。

これは日本人の歴史認識に係る問題で、この無頓着が、加害の事実をも忘れてしまうという国民性、いや意図的なイデオロギー注入だということなのだ。これで外国の国旗・国歌に対する礼儀を培うことができるかどうか、最高裁判事は、よくよく学習しなおしたほうが良い。

最高裁判事は、先に述べたことに対して、少し後ろめたさを感じていたのだろうか?補足的意見を述べている。日の丸・君が代斉唱礼賛者たちが意識的に無視をする文章である。

これについては、後日に。


広げよう!国民主権の国の「国歌」=「民の代」を!

民の代は千代に八千代に細石の巌となりて苔のむすまで

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「君が代」の意味を勝手に変更してうそぶく政府、「全体の奉仕者」論をスリカエる橋下市長

2012-03-09 | 日の丸・君が代

昨日に続いて、今日は「君が代」のウソ、国民全体に奉仕する公務員論のスリカエをみてみよう。

小学校5年生用『初等科修身 二』(1942年版)
  二 「君が代」

君が代は
ちよにやちよに
さざれ石の
いはほとなりて
こけのむすまで
 この歌は、
 「天皇陛下のお治めになる御代は、千年も萬年もつづいて、おさかえになりますやうに。」
といふ意味で、國民が、心からおいはひ申しあげる歌であります。
 「君が代」の歌は、昔から、私たちの先租が、皇室のみさかえをおいのりして、歌ひつづけて来たもので、世々の國民のまごころのとけこんだ歌であります。
 祝日や、おめでたい儀式には、私たちは、この歌を馨高く歌ひます。しせいをきちんと正しくして、おごそかに歌ふと、身も心も、ひきしまるやうな氣持になります。
 戰地で、兵隊さんたちが、はるかに日本へ向かつて、聾をそろへて、「君が代」を歌ふ時には、思はず、涙が日にやけたほほをぬらすといふことです。

「教師用の指導書」
 天皇陛下のお治めになるこの御代は、千年も萬年も、いや、いつまでもいつまでも續いて、限りなくお条えになるやうに、たとへば小さな石が大きな巌になり、それに苔が生えるまで、それほど、永く限りなくお榮えになるやうに。

 この教材を通して、天皇陛下に對し奉る至誠の情と、御稜威(天皇の権威)を仰ぎ億兆心を一にする無上の喜びとを感得せしめなければならない。「君が代」は、實に國民こぞって御稜威のほどを畏み國體の精華を発揮し、唱和する歌である。
 「君が代」が國歌として制定されたのは、明治の初年以降のことといはれてゐるが、しかしこの歌は、古く古今集や和漢朗詠集にもそのまま見え、各時代を通じ各地にわたって、ひろく國民の耳朶に親しまれたところであって、いつとはなしに國歌になってゐたと考へられる。文部省では、明治二十六年八月十二日に「小學校二於テ祝日大祭日ノ儀式ヲ行フノ際唱歌用二供スル歌詞竝樂譜別冊ノ通撰定ス」と告示して、別冊にこの「君が代」の歌を掲げて、爾来それにしたがつてゐる。國運隆昌なるとともに、國歌はおのづから成立したのであって、その由来をここで詮議することは、さして意味のないことである。「聖壽の萬歳(天皇の長寿)を祈り奉ることが、そのままに皇國臣民のあらゆる祈念を含んでゐるといふところに、日本の國豊はあるからである。教師は、ここで國歌「君が代」と、さうして國旗「日の丸」とが、相共に皇國の威嚴を世界に向かって示す表徴たることを念頭におくべきである。

 この歌を唱和するときには、嚴粛のうちに和やかなうれしい気持が胸に充ち滿ちて、心から天皇陛下の御ために身命をなげうち、皇室のみ榮えを祈り奉らずにはゐられないのである。

「礼法」

一、「君が代」を歌ふときは、姿勢を正し、まごころから寳祚の無窮をことほぎ奉ること。
二、「君が代」を聴くときにも、前と同じやうに謹嚴な態度をとること。

さて、戦後はどのように解釈しているか。政府の解釈は、以下のとおりだ。

「国旗・日の丸、国歌・君が代」法制化等に関する質問主意書 提出者  石垣一夫
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/a145031.htm

11 「君が代」の歌詞について、旧憲法下、特に戦前における「君」の解釈と戦後の「君」の解釈とに相違があるのかないのか、相違があればその内容を明らかにされたい。

衆議院議員石垣一夫君提出「国旗・日の丸、国歌・君が代」法制化等に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。
二の8及び11について
 君が代の「君」とは、大日本帝国憲法下では主権者である天皇を指していたと言われているが、日本国憲法の下では、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当であると考える。
二の9について
 日本国憲法の下では、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当であると考える。


では、どのように教えているか。

【小学校学習指導要領解説音楽編】1 指導計画作成上の配慮事項を参照
児童が、将来国際社会において尊敬され、信頼される日本人として成長するためには、国歌を尊重する態度を養うようにすることが大切です。
小学校音楽科においては「国歌『君が代』は、いずれの、学年においても歌えるよう指導すること」と示されており、入学式や卒業式等必要なときには、児童がいつでも歌えるようにしておく必要があります。
そのためには、表現学習の目標や内容と関連させ、児童の発達の段階に即していずれの学年においても適切な指導を行うような指導計画を作成する必要があります。
国歌の指導に当たっては、国歌「君が代」は、日本国憲法の下において、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念した歌であることを理解できるようにする必要があります。

1.同じ歌なのに、戦前と戦後では、その解釈が大きく違っていることは政府自身が認めている。

2.戦前は天皇主権、戦後は国民主権だが、戦後は天皇を「神から象徴」として残すことによって、一度は否定された「君が代」をアメリカの都合で復活させていただき、今後は解釈を変更している。「主権の存する」という言葉を意図的に削除して、「日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念した歌」と歪曲している。

3.橋下市長は、「公務員はルールに従え」として「起立」を「命令」しているが、政府自身が、ここでも子どもにウソをついているのだ。これに便乗して「命令」を発している橋下市長は、「ルール違反」だ。国民を含めて先生たちは、そういう橋下市長に、なぜ気付かないのだろう。教育公務員は「国民全体に奉仕する」のではないのか?先生たちはウソを教えることは出来ないのだから、橋下市長の「命令」に対する拒否権を行使するのは当然だ。

4.橋下市長の頭の構造は「復古・守旧」だ。彼は「君が代は立って歌うのは当然」としているが、戦前の「指導」を単に踏襲しているにすぎない。何も考えていない。頭をリセットしなければならないのは、彼そのものだ。
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/111207/waf11120708450009-n1.htm


民の代は千代に八千代に細石の巌となりて苔のむすまで

主権在民の下で歌う「君が代」は「民の代」となる。したがって以上の歌に変えて歌えばいいのだ。みんなで歌ってみようよ!

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橋下「維新の会」のようなウソとペテンは昔からだったが、それを見抜くために、「教育勅語」を例に

2012-03-08 | 日記
昨日の橋下市長の「憲法悪者」論をみていて、教育勅語のことを想い出したので、一言。

「教育勅語」は、絵本のように絵入りで子どもらをマインドコントロールしていったのだ。
「教育勅語の現代語訳」
 朕がつらつら考えてみるに、我が御先祖天照大神が、はじめて日本の国を御建てになったことは誠に遠く遥かな事で、それ以来代々の天子様がしっかりと徳を植えつけ給うたことは誠に深く厚い。この宏遠な肇国の御精神と深厚な徳とに基いて、我が臣民が、君に忠を尽くし、親に孝を尽くし、万民皆心を揃えて、我々の子孫がよくその美しさを完成して来た事は、これ即ち我が国日本の国柄の美しい光であって、教育の一番の根本も、やはりそこにあるのである。
 汝等臣民よ、父母に孝を尽くし、兄弟に友情を尽くし、夫婦はよく和合し、朋友はお互に信じ合い、自分の身持は謹んでつつましやかにし、博く世の中の人々に愛情を及ぼし、学問を修め業を習い、それに依って智恵才能を開き、人格を完全に仕上げて、進んでは広く世の中の利益をはかり、この世の務を立派にはたし、常に国家の憲法を重んじ、国家の法律に従って、若し一旦危急の場合があったら、義勇の精神を以て、お上のために身を捧げ、そうして天地と共にきわまる事のない我が皇室の御盛運をお助けしなさい。このようであるのは、ただひとり朕に対して忠良の臣民であるばかりでなく、同時に又それに依って汝等祖先の遺しておいた美しい風をいよいよあきらかに世にあらわすことも出来るであろう。
 以上述べた所の大道は、実に我が御先祖代代の君がおのこしになった御教えであって、子孫臣民が共々に従い守るべきものである。この大道は古と今とに通じての間違いのないものであり、日本外国凡てに実行して決して道理に反する事のないものである。されば朕は汝等臣民と共ににしっかりと之を守って片時も忘れず、上下皆その徳を同じうせんことを切望期待して止まないのである。
(塚本哲三『国体の本義解釈』教育勅語・口語訳、1939年)

さて、これを原文でみてみると、以下のようになる。難しくて、とても理解できなかったのではないか。1890年10月30日に発布した。
大日本帝国憲法発布(89年2月11日)後、帝国議会選挙直後(1890年7月1日)、帝国議会開会(1890年11月25日召集・11月29日天皇出席して開院)直前だった。この「勅語」を基に、「小学校ニ於テ祝日大祭日ノ儀式ヲ行フノ際唱歌用ニ供スル歌詞並楽譜別冊ノ通撰定ス」が告示された(1891年8月12日)、東京や大阪で出されている「命令」は、実は、この時の告示が発信源である。この後にやってきたのが、日清戦争(1890年7月25日)だった。大まかに言えば、そういうことだ。

「教育勅語ニ関スル勅語」
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
  御名御璽

では、この訳語は、現在どのようにスリカエラレテいるのだろうか。明治神宮を訪ねてみた。
http://www.meijijingu.or.jp/about/3-4.html
【教育勅語の口語文訳】
 私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。 

 国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

  このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
~国民道徳協会訳文による~

彼らの道徳とは、人を騙すことだということが、良く判る。

だが、明治・大正・昭和の人間達は、以下の徳目を信じきっていたのだ。
当たり前の徳目だ。だが、こういう徳目は中国人や朝鮮人、アジアの人民にも当てはまることを汝臣民は見破れなかったのだ。これがポイントだ。
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ
その後に、くるもの
一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
が、天皇のために死ぬことを「忠良」として「祖先ノ遺風ヲ顯彰スル」することになるということだったのだが、それすら暈され、美化されたのだ。これこそトリックだったが、見破れなかった。おかしいと思う人間は「非国民」「国賊」のレッテルが貼られたのだ。まさにアメとムチ(無知)が仕掛けられたのだ。

丁度今、公務員と言えば、どういうムードがつくられているか、それをみれば明瞭だ。かつての「自己責任」バッシングと同じだ。

それが、戦後の、今においても、繰り返されているのだ。まさに「教育の淵源」がスリカエラレテいるのだ。

橋下市長の手法は、一部の人間の悪弊を取り上げ、不平不満を持つ人間たちのストレスを癒すべく、すべてをも否定していく手法だ。

だが、そこにヒントがある。不平不満を持つ人間たちに、どうやって手をさしのべ、連帯していくか、だ。手をさしのべていく時に手の中に入れていくのは何か、それはメシだな。メシが食えないから文句を言ってくる。自分よりメシを食っていると思っている輩が面白くないのだ。なぜ自分がメシを食えないのか、自分の責任だと思っているのだ。これは勘違いだが、「自己責任」論というトリックが見えないのだ。それほどマインドコントロールに掛かっているのだ。

仁徳天皇が民の家から煙が立たないのをみて、嘆き、メシを与えたという天皇の「徳」を強調する連中が、民にメシを食わせるどころか、命をも奪うという「不道徳」と同じ手法が、今橋下「維新の会」によって再生産されているのだ。

憲法を学んだはずの弁護士橋下市長の言う「生活保護」=「性善説」論は、憲法25条の国会の責任論の放棄を意味している。今後この事実が明らかになっていくだろう。彼の取り巻き連中を見れば、ハッキリする。それが判っているからこそ、今悪者をたくさんつくって若者を味方にして、その地位を確固たるものにしようとしているのだ。

けふもまた悪者つくりおおみえと啖呵きりたり徳語りたり
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