
國立公文書館の企画展「衛生のはじまり、明治政府とコレラのたたかい」を觀る。
當時は謎の傅染病だった“コレラ”が大流行した江戸時代の終はりから末期にかけてを序章に、明治十年に再び大流行した件の傅染病と、その二年前に設置されたばかりの内務省衞生局との真剣勝負、そしてその結果から得られた衛生對策を、遺されたお役所文書から概覧する。
下痢と嘔吐を繰り返す謎の傳染病の流行が日本で初めて確認されたのは文政五年(1822年)の九州地方で、その後安政五年(1858年)と文久二年(1862年)にも大流行云々。
手足や腹部の冷へる病ひと考へられたことから、温かい飲み物や暖めた石を患部にあてたり、うどん粉にカラシを混ぜた物を塗るなど、乏しい情報と實際の症状からなんとか對処療法を編み出そうとした先人たちの様子は、そのまま現代の人災疫病禍初期における我々の右往左往にも通じるものがある。
一方、1854年に伊國の解剖學者パチーニが、原因は“虎列剌(これら)”菌であることを發見、やがて日本でも西洋醫學を以て科学的にこの厄介な傳染病と闘ふ氣運が起こり、明治八年に内務省衞生局が設置されたわずか二年後、お手並み拝見とばかりに再びコレラが猛威を振ふ。
防疫は中央(政府)一極では無理があり、各地方自治体および國民一人一人の“心掛け”による協力が不可欠であると訴へてゐるところも、現在の人災疫病禍と酷似してゐる。
つまり、歴史とは人間の思考と行動の飽くなき循環、といふことか。
だからヒトは、なにも學べないのだ。