日光道中と日光御成道との合流点であり、また分岐点でもあった幸手宿は、江戸時代にはかなりの賑わいを見せたそうですが、現在はかつての道筋である県道65号線を通る車の騒音を除けば、いたって静かな町。
上段写真の道は江戸中期に拓かれたもので、それ以前は志手橋から300㍍ほど行った現在の中1-6あたりで左に折れ、さらに300㍍ほど進んで現在の中1-13で突き当たると、右折して直進していたそうです。
つまり、後年の道筋の一本西側を通っていたわけで、その当時の道筋が現在もほぼそのまま残ってるので↓、
そちらの“旧旧日光道中”の方を通ることにします。
ちなみに幸手はかつて「田宮」と云ったそうで、大和時代初めの11代垂仁天皇の御代、黄金色に輝く雷電の御神体が突然この地の田んぼに下り、これはありがたいことだと村民がその場所にお社を築いたのが地名のおこり。
中4丁目で“お約束”の鈎の手を通ったすぐ右手にあるのが、そのお社である「雷電神社」です。
上段写真の道は江戸中期に拓かれたもので、それ以前は志手橋から300㍍ほど行った現在の中1-6あたりで左に折れ、さらに300㍍ほど進んで現在の中1-13で突き当たると、右折して直進していたそうです。
つまり、後年の道筋の一本西側を通っていたわけで、その当時の道筋が現在もほぼそのまま残ってるので↓、
そちらの“旧旧日光道中”の方を通ることにします。
ちなみに幸手はかつて「田宮」と云ったそうで、大和時代初めの11代垂仁天皇の御代、黄金色に輝く雷電の御神体が突然この地の田んぼに下り、これはありがたいことだと村民がその場所にお社を築いたのが地名のおこり。
中4丁目で“お約束”の鈎の手を通ったすぐ右手にあるのが、そのお社である「雷電神社」です。