川崎市市民ミュージアムのオンライン展覧會「紙すくひと」を棲家で觀る。

「紙」とは、植物などの繊維を水に浸して絡み合わせものを云ひ、日本古来のそれは酸性度が低いため強度と保存性に富んでゐるのは、繊維中に潜んで酸素と結合して劣化を招く不純物(ゴミ)を職人がひとつひとつ丁寧に取り除く熟練技のおかげにて、奉書に刷られた浮世絵の、美人の顔が美人のまま現在に至ってゐる秘訣も、まさにこの賜物なり。
私も趣味柄、百年以上むかしの紙物を手にする機會がよくあるが、分厚い和本が見た目は古びて汚れてゐても紙の状態は良好で、なにより驚くほどに輕い!
現代主流の洋紙で刷った同じ厚さの本ならば、持ち運びが億劫になるほどの重さになるはずだ。
江戸時代、旅のお供に“枕本”と云って、數百曲を収録した實際に枕ほどの厚さ(高さ)の謠本を携行する人もあったと聞いたことがあり、私も當時の現物を手に取ったことがあるが、あの輕さならば荷物の邪魔にはならなかっただらう。
かくして強靱な日本古来の紙、歴史的なものが普通に殘ってきたがためにそれを敢えて殘さうと云ふ感覺がなかったことはなるほど盲點にて、そのために修復技術を持った専門の職人もあまり存在しなかったことが、傳統和紙が希少化してゐる現在、状況を厳しいものにしてゐる一面があるやうだ。
さうしたなか、修復に携はってゐる人のインタビューのなかで、
「永遠なんてものはない。同じものを殘すためには、同じものを作り替へていく」
と、伊勢神宮の式年遷宮に例へた話しに、古物を朽ちてもなほ有難がって拝むことは傳統の保護でも保存でもない、と云ふ本質を教へられた氣がした。