神保町へ資料探しに出かけたつひでに、御茶ノ水驛前の横に架かるお茶の水橋に行く。
戰後の昭和、喪はれるものばかりだった平成、そして改元して一年足らずで病菌に侵された令和──
(※御茶の水橋を路面電車が通ってゐた往年の様子)
橋の改修工事で路面を剥がしたところ、約5cm下から昭和十九年(1944年)に廢止された都電の軌道跡が現れたのは、今年の一月下旬のこと。
軌道跡は早々に撤去されたこともあって私は實見する機會を逃し、お仲間が撮った冩真や動画でしかその様子を知らないが、せめて現場だけでも……、と思った次第。
ブルーシートの掛けられた箇所が、件の軌道跡。
お茶の水橋は何度も渡ってゐるが、その足許には軌道跡といふ“遺跡”が眠ってゐたとは……。
戰後の昭和、喪はれるものばかりだった平成、そして改元して一年足らずで病菌に侵された令和──
その三つの時代を、かの軌道跡は約5㎝のアスファルトの下で眠り續け、そして目を覺まされた途端に撤去される──
(※御茶の水橋を路面電車が通ってゐた往年の様子)
澁谷驛前の“青ガエル”も、つひに秋田縣へ引っ越しといふ名目の、撤去となった。
いま、現代人が支那病菌に太刀打ち出来ないでいる理由のひとつとして、「歴史に對する視野の狭さ」があると、私はかうした事例から感じる。