江戸日本橋から京三條大橋までは中山道を通ったので、帰りは旧東海道を歩いて、江戸日本橋を目指すことにします。
京三條大橋から草津宿までについては、往路の旧中山道探訪ですでに見たので、お話しは草津宿本陣前の分岐点より、始めることにします。
草津宿を出発すると、しばらくは天井川の旧草津川土手に沿って進み、東海道新幹線の高架をくぐって立場(休憩所)がおかれていた岡地区を過ぎ、一里塚があった目川地区から坊袋(ぼうぶくろ)に至ると、中群街道との追分となり、傍らの道標にしたがって、
左へと進路をとります。
付近に足利義尚の居城があった上鈎(かみまがり)地区で右手に曲がり、JR草津線の「手原駅」前を過ぎて昔の小野村に入ると、左の道端に一本の松が生えています。
これは昔、旅人足がこの松の下で休憩して荷物をかける肩をかえた「肩かえの松」で、現在のようにトラックや鉄道といった運搬手段がなかった時代の、苦労が偲ばれます。
肩かえの松から歩くこと約10分、立場がおかれていたかつての六地蔵村には一里塚跡と、
腹薬として広く知られていた「和中散」の旧本舗があります。
そして、歴史を感じさせる伊勢落地区の家並みを過ぎたところで、名神高速道路の高架にさしかかりますが、その手前には右へ折れる道が伸びています。
これは昔、道の左手を流れる野洲川が洪水を起こすたびに通行不能となったため、右手の山へと迂回する“上道”が拓かれた名残り。
わたしはそのまま、高架をくぐり抜ける“下道”を通ることにします。
10分ちょっと歩いたところで、右から下っている上道と合流、宮川という細い川をわたって石部西地区へ入ると、だいぶ宿場らしい家並みとなり、一里塚跡を過ぎて鈎の手に二度と曲がると、
草津宿から約2時間20分、「石部宿」に到着。
↑写真左手が、三大寺本陣の跡。
もともとは筋向かいの小島家が本陣で、浄瑠璃芝居「重の井の子別れ」の舞台ともなった所だそうですが、膳所藩主への顕著な奉公ぶりが認められ江戸初期に本陣職を免じられて以降、こちらの三大寺本陣が、火災と再建を繰り返しながら明治3年(1870年)まで、その務めを果たしていたそうです。
ちなみに三大寺本陣の付近には、やはり浄瑠璃芝居の「桂川連理柵」で、中年男の帯屋長右衛門と十三歳の少女信濃屋お半とが結ばれた旅籠があったそうですが、あれは確か中年男と少女の心中死体が揚った事件をもとに書かれた、フィクションだった気が……。
京三條大橋から草津宿までについては、往路の旧中山道探訪ですでに見たので、お話しは草津宿本陣前の分岐点より、始めることにします。
草津宿を出発すると、しばらくは天井川の旧草津川土手に沿って進み、東海道新幹線の高架をくぐって立場(休憩所)がおかれていた岡地区を過ぎ、一里塚があった目川地区から坊袋(ぼうぶくろ)に至ると、中群街道との追分となり、傍らの道標にしたがって、
左へと進路をとります。
付近に足利義尚の居城があった上鈎(かみまがり)地区で右手に曲がり、JR草津線の「手原駅」前を過ぎて昔の小野村に入ると、左の道端に一本の松が生えています。
これは昔、旅人足がこの松の下で休憩して荷物をかける肩をかえた「肩かえの松」で、現在のようにトラックや鉄道といった運搬手段がなかった時代の、苦労が偲ばれます。
肩かえの松から歩くこと約10分、立場がおかれていたかつての六地蔵村には一里塚跡と、
腹薬として広く知られていた「和中散」の旧本舗があります。
そして、歴史を感じさせる伊勢落地区の家並みを過ぎたところで、名神高速道路の高架にさしかかりますが、その手前には右へ折れる道が伸びています。
これは昔、道の左手を流れる野洲川が洪水を起こすたびに通行不能となったため、右手の山へと迂回する“上道”が拓かれた名残り。
わたしはそのまま、高架をくぐり抜ける“下道”を通ることにします。
10分ちょっと歩いたところで、右から下っている上道と合流、宮川という細い川をわたって石部西地区へ入ると、だいぶ宿場らしい家並みとなり、一里塚跡を過ぎて鈎の手に二度と曲がると、
草津宿から約2時間20分、「石部宿」に到着。
↑写真左手が、三大寺本陣の跡。
もともとは筋向かいの小島家が本陣で、浄瑠璃芝居「重の井の子別れ」の舞台ともなった所だそうですが、膳所藩主への顕著な奉公ぶりが認められ江戸初期に本陣職を免じられて以降、こちらの三大寺本陣が、火災と再建を繰り返しながら明治3年(1870年)まで、その務めを果たしていたそうです。
ちなみに三大寺本陣の付近には、やはり浄瑠璃芝居の「桂川連理柵」で、中年男の帯屋長右衛門と十三歳の少女信濃屋お半とが結ばれた旅籠があったそうですが、あれは確か中年男と少女の心中死体が揚った事件をもとに書かれた、フィクションだった気が……。