武佐宿をたってしばらくすると、国道8号線に合流。
千僧供(せんぞく)町では、後鳥羽上皇の怒りに触れて打ち首になった法然上人の弟子の首を洗ったと云う「住蓮坊首洗池」―但し現在は渇れ池―、田んぼのなかに一里塚そっくりな姿を見せる「千僧供古墳群・供養塚古墳」を見て過ぎ、馬渕町から右手へ分かれる旧道へと入り、東横関町の田んぼのなかを、直進します(上段写真)。
やがて横関川(日野川)の堤に行き当たり、かつてはここに「横関川の渡し」がありましたが、
もちろん現在はないので―河原には昔の名残りがあるとのことですが、あまりに藪が深いので断念―、上流にかかる国道8号線の横関橋に迂回、対岸の西横関町から続きを進みます。
やがて国道8号線に合流して善福寺川を渡ると、旧道は左手へと分かれます。
ここが中世に東山道の宿駅だった、「鏡の宿」。
源義経が元服した場所でもあるこの旧宿駅は、その先で合流する国道8号線沿いに石碑や残骸が集まっていますが、ひっきりなしに通る自動車の騒音に、風情もへったくれもない状態です。
それよりもわたしがここで目を惹いたのは、傾いだ土蔵が脇の格子戸に寄りかかり、その重みで格子戸が歪んでいる光景です。
『時間の問題』、とでもタイトルを付けましょうか……。
鏡の宿を過ぎ、部分的に残る旧道と国道8号線とを進んで小堤地区に至ると、ここから道はしばらく国道から離れた旧道となり、現代の騒音から解放されてホッとします。
小堤地区の旧道に入ってしばらくすると、家棟川(やのむねがわ)にかかる橋に行き当たります。
現在では、川に橋が架かった何でもない光景ですが、平成の初期までここには、「家棟隧道」というトンネルがありました。
これは土手に掘られたトンネルで、上には家棟川が流れていました。
つまり、土手の川底の下を、トンネルが通っていたのです。
この土地を流れる家棟川はその名の通り、川底が周辺家屋の軒先の高さに相当するという、いわゆる「天井川」でした。
東京23区の、「0メートル地帯」を考えていただければいいと思います。
そのため、トンネルが開通する以前、川を渡るには急な土手を越えて行かねばならず、とくに荷物の運搬には難渋していたそうです。
また、洪水で周辺地域を水浸しにする被害も、悩みの種でした。
そこで大正6年(1917年)、突貫工事でトンネルを掘り、じつに昭和28年まで幹線道路として、重きをなしました。
しかし地域の利便性向上のために天井川を10㍍切り下げることになり、平成7年度から19年度にかけて31億円を投じて、現在の姿へと大きく改修されたのです。
―旧中山道探訪とは直接関係がないかもしれませんが、そういう土地もあるということを知っておくのは、大切なことです。
さて、家棟川を渡ると、やがて東海道新幹線の高架に沿いながら古代遺跡の集まる桜生(さくらばさま)地区を通り、古い土塀や土蔵が点在する小篠原地区で高架を潜って民家が静かに軒を連ねる行畑地区を過ぎ、再び東海道新幹線の高架を潜ると、野洲川を渡ります。
その先の吉身地区は守山宿の玄関口で、見通しを遮断するという軍事的理由から“稲妻型”に道が敷かれた跡という、急な右折を経ると、守山宿の中心に。
↑写真左手の建物は昔の酒屋で、故・宇野宗佑氏の生家でもあります。
宇野宗佑氏と言っても、現在ではほとんどの人が、記憶にない名前かもしれません。
この人は1989年6月に第75代内閣総理大臣にまで登りつめた政治家でしたが、当時付き合っていた芸者に、
「―と、いう身分になったので」
と、別れ話を持ちかけたところ芸者が激怒、すべてをマスコミに暴露されてわずか4ヶ月で首相を辞職せざるを得なくなった人物であります。
宇野氏には「中山道守山宿」という著書があり、現在でもたまに古書店や古本市で見かけますが、
「ああ、あの人か……」
と、少年時代に受けた印象がいまだに残っていることもあり、手にとったことはありません。
つくづく思うに、新派劇の「湯島境内」に見るようなメソメソした話しなど、しょせん時代遅れなオトコ目線の絵空事、現実(ほんとう)の水商売オンナは、鉄火の如くしたたかなのです……。
―と憎まれ口を叩きつつ、いまは石碑ばかりの本陣跡を過ぎ、道標を右手に見ながら左手カーブを通って土橋を渡り、しばらく行くと滋賀県内に唯一現存する、
江戸から128里目の「今宿一里塚」が、片側のみ残っています。
ここから草津宿の手前まで、道は住宅地のなかをほぼ直線に進んでいきます。
千僧供(せんぞく)町では、後鳥羽上皇の怒りに触れて打ち首になった法然上人の弟子の首を洗ったと云う「住蓮坊首洗池」―但し現在は渇れ池―、田んぼのなかに一里塚そっくりな姿を見せる「千僧供古墳群・供養塚古墳」を見て過ぎ、馬渕町から右手へ分かれる旧道へと入り、東横関町の田んぼのなかを、直進します(上段写真)。
やがて横関川(日野川)の堤に行き当たり、かつてはここに「横関川の渡し」がありましたが、
もちろん現在はないので―河原には昔の名残りがあるとのことですが、あまりに藪が深いので断念―、上流にかかる国道8号線の横関橋に迂回、対岸の西横関町から続きを進みます。
やがて国道8号線に合流して善福寺川を渡ると、旧道は左手へと分かれます。
ここが中世に東山道の宿駅だった、「鏡の宿」。
源義経が元服した場所でもあるこの旧宿駅は、その先で合流する国道8号線沿いに石碑や残骸が集まっていますが、ひっきりなしに通る自動車の騒音に、風情もへったくれもない状態です。
それよりもわたしがここで目を惹いたのは、傾いだ土蔵が脇の格子戸に寄りかかり、その重みで格子戸が歪んでいる光景です。
『時間の問題』、とでもタイトルを付けましょうか……。
鏡の宿を過ぎ、部分的に残る旧道と国道8号線とを進んで小堤地区に至ると、ここから道はしばらく国道から離れた旧道となり、現代の騒音から解放されてホッとします。
小堤地区の旧道に入ってしばらくすると、家棟川(やのむねがわ)にかかる橋に行き当たります。
現在では、川に橋が架かった何でもない光景ですが、平成の初期までここには、「家棟隧道」というトンネルがありました。
これは土手に掘られたトンネルで、上には家棟川が流れていました。
つまり、土手の川底の下を、トンネルが通っていたのです。
この土地を流れる家棟川はその名の通り、川底が周辺家屋の軒先の高さに相当するという、いわゆる「天井川」でした。
東京23区の、「0メートル地帯」を考えていただければいいと思います。
そのため、トンネルが開通する以前、川を渡るには急な土手を越えて行かねばならず、とくに荷物の運搬には難渋していたそうです。
また、洪水で周辺地域を水浸しにする被害も、悩みの種でした。
そこで大正6年(1917年)、突貫工事でトンネルを掘り、じつに昭和28年まで幹線道路として、重きをなしました。
しかし地域の利便性向上のために天井川を10㍍切り下げることになり、平成7年度から19年度にかけて31億円を投じて、現在の姿へと大きく改修されたのです。
―旧中山道探訪とは直接関係がないかもしれませんが、そういう土地もあるということを知っておくのは、大切なことです。
さて、家棟川を渡ると、やがて東海道新幹線の高架に沿いながら古代遺跡の集まる桜生(さくらばさま)地区を通り、古い土塀や土蔵が点在する小篠原地区で高架を潜って民家が静かに軒を連ねる行畑地区を過ぎ、再び東海道新幹線の高架を潜ると、野洲川を渡ります。
その先の吉身地区は守山宿の玄関口で、見通しを遮断するという軍事的理由から“稲妻型”に道が敷かれた跡という、急な右折を経ると、守山宿の中心に。
↑写真左手の建物は昔の酒屋で、故・宇野宗佑氏の生家でもあります。
宇野宗佑氏と言っても、現在ではほとんどの人が、記憶にない名前かもしれません。
この人は1989年6月に第75代内閣総理大臣にまで登りつめた政治家でしたが、当時付き合っていた芸者に、
「―と、いう身分になったので」
と、別れ話を持ちかけたところ芸者が激怒、すべてをマスコミに暴露されてわずか4ヶ月で首相を辞職せざるを得なくなった人物であります。
宇野氏には「中山道守山宿」という著書があり、現在でもたまに古書店や古本市で見かけますが、
「ああ、あの人か……」
と、少年時代に受けた印象がいまだに残っていることもあり、手にとったことはありません。
つくづく思うに、新派劇の「湯島境内」に見るようなメソメソした話しなど、しょせん時代遅れなオトコ目線の絵空事、現実(ほんとう)の水商売オンナは、鉄火の如くしたたかなのです……。
―と憎まれ口を叩きつつ、いまは石碑ばかりの本陣跡を過ぎ、道標を右手に見ながら左手カーブを通って土橋を渡り、しばらく行くと滋賀県内に唯一現存する、
江戸から128里目の「今宿一里塚」が、片側のみ残っています。
ここから草津宿の手前まで、道は住宅地のなかをほぼ直線に進んでいきます。