古い家並みが続く老蘇地区を抜けると、ちょっと寄り道することにして、亀川交差点を右折、安土街道を上って行きます。
道なりに歩くこと約20分、やがて右手に、こんもりとした杉木立が見えてきます。
近江源氏の祖である宇多天皇の皇子、敦実(あつみ)親王を祀った「沙沙貴神社」の森です。
この神社を訪ねることも、今回の中山道近江路を歩く目的の一つ。
それは、わたしが伝統芸能家の道を志すきっかけとなった映画「天河伝説殺人事件」(平成3年)において、“天河神社”のロケ地となったお社だからです。
当時、実際の天河神社(奈良県吉野郡天川村)は、社殿が改築されたばかりで真新しく、映画が求める秘境的雰囲気にそぐわなかったため、近江国の沙沙貴神社でロケを行なったと聞いています。
天河神社には二度、参拝していますが、沙沙貴神社は今までその機会がなく、今回の探訪でようやくご縁に恵まれたわけです。
映画には出てきませんでしたが、こちらが本殿↓。
クライマックスの薪能のシーンに使われたのが、この拝殿↓。
そして、この向きで撮影された場面が、いくつかありました↓。
伝統芸能家を志して数十年、ようやくご縁にあずかった感謝を神様に述べてお社をあとにし、再び旧中山道探訪へと戻ります。
さて、亀川交差点から旧中山道へ入り、ほぼ直線に続く道を歩くこと約10分、「蛇砂川」と書いて“どんどんがわ”と読む川を渡り、「武佐(むさ)宿」へと入ります。
現在は公民館となっている脇本陣跡を右手に見て過ぎると、すぐ左手には登録有形文化財となっている、旧八幡警察署武佐分署の建物が。
当時は新しい時代の最先端を行っていたであろうこれらの建物も、時代の流れと共に古い町並みの一部に嵌まっているところに、わたしは「もののあはれ」を感じます。
江戸時代以前には「牟佐」、又は「身狭」とも表記されたというこの宿場は、1728年の享保13年6月、将軍に献上のためベトナムから輸入された象が一泊したとのことで、古民家を改装した休憩所に、
当時の浮世絵の複製が飾られています。
その休憩所の先、右手にあるのが本陣跡、
ここを過ぎてまっすぐ行くと、やがて近江鉄道線「武佐駅」に沿って桝形に折れ、踏切をわたってさらに直進、
三里半(約14㌔)先の守山宿を目指します。
道なりに歩くこと約20分、やがて右手に、こんもりとした杉木立が見えてきます。
近江源氏の祖である宇多天皇の皇子、敦実(あつみ)親王を祀った「沙沙貴神社」の森です。
この神社を訪ねることも、今回の中山道近江路を歩く目的の一つ。
それは、わたしが伝統芸能家の道を志すきっかけとなった映画「天河伝説殺人事件」(平成3年)において、“天河神社”のロケ地となったお社だからです。
当時、実際の天河神社(奈良県吉野郡天川村)は、社殿が改築されたばかりで真新しく、映画が求める秘境的雰囲気にそぐわなかったため、近江国の沙沙貴神社でロケを行なったと聞いています。
天河神社には二度、参拝していますが、沙沙貴神社は今までその機会がなく、今回の探訪でようやくご縁に恵まれたわけです。
映画には出てきませんでしたが、こちらが本殿↓。
クライマックスの薪能のシーンに使われたのが、この拝殿↓。
そして、この向きで撮影された場面が、いくつかありました↓。
伝統芸能家を志して数十年、ようやくご縁にあずかった感謝を神様に述べてお社をあとにし、再び旧中山道探訪へと戻ります。
さて、亀川交差点から旧中山道へ入り、ほぼ直線に続く道を歩くこと約10分、「蛇砂川」と書いて“どんどんがわ”と読む川を渡り、「武佐(むさ)宿」へと入ります。
現在は公民館となっている脇本陣跡を右手に見て過ぎると、すぐ左手には登録有形文化財となっている、旧八幡警察署武佐分署の建物が。
当時は新しい時代の最先端を行っていたであろうこれらの建物も、時代の流れと共に古い町並みの一部に嵌まっているところに、わたしは「もののあはれ」を感じます。
江戸時代以前には「牟佐」、又は「身狭」とも表記されたというこの宿場は、1728年の享保13年6月、将軍に献上のためベトナムから輸入された象が一泊したとのことで、古民家を改装した休憩所に、
当時の浮世絵の複製が飾られています。
その休憩所の先、右手にあるのが本陣跡、
ここを過ぎてまっすぐ行くと、やがて近江鉄道線「武佐駅」に沿って桝形に折れ、踏切をわたってさらに直進、
三里半(約14㌔)先の守山宿を目指します。