67年前の昭和20年3月10日の東京大空襲当時、僕は目黒川沿いの五反田に住んでいた。幸い空襲の被害には会わなかったが、僅か数日後1週間以内に家を引き渡すように区から命令があった。わが家から100mの所に軍需工場があり、空襲の被害拡大を防ぐためのウムを言わせぬ建物疎開命令であった。
当時僕は中学2年生で、父母と3人家族であったが、命令をうけてバタバタと疎開先探しに飛び回った。運よくわが家は父が定年後退職金で建てた家作が5㌔ほど離れた所にあったので引っ越すことができた。亡父の日記は、強制命令を受けて隣近所はまるで”戦場”のようであった。そんな中、わが家は近所の運送屋に頼みこみ、馬車2台に家財道具などをヤマと積み込んんで引越しした。
戦争末期、強制疎開は東京だけではなく全国各地で行われた。疎開の家屋の撤去作業は主として、14,5歳の国民学校高等科や中学校の生徒が当たった。僕も動員先の工場の近くの駅前商店街の疎開”ぶっ壊し”作業に従事した。専門のとび職の指導で、大黒柱に荒縄をかけ、掛け声とともに荒縄を引っ張った。広島原爆の記録をみると、原爆投下の朝、広島二中(現在の観音高校)の生徒352人が爆心地に近いところで、この建物疎開の作業に従事していて原爆死されている。
この強制疎開による補償金はどうなったか。亡父の日記によると戦後の8月27日、9010円が支払われている。東京の三分の一以上が空襲で焼失,敗戦をはさみながらも行政が機能していたのに驚いた。しかし、戦後の猛烈なインフレで補償金は全く価値を失ってしまった。東京大空襲では10万人の市民が亡くなっているが、まったくからの補償はない。それに比べれば幸運といえるかもしれない。
当時僕は中学2年生で、父母と3人家族であったが、命令をうけてバタバタと疎開先探しに飛び回った。運よくわが家は父が定年後退職金で建てた家作が5㌔ほど離れた所にあったので引っ越すことができた。亡父の日記は、強制命令を受けて隣近所はまるで”戦場”のようであった。そんな中、わが家は近所の運送屋に頼みこみ、馬車2台に家財道具などをヤマと積み込んんで引越しした。
戦争末期、強制疎開は東京だけではなく全国各地で行われた。疎開の家屋の撤去作業は主として、14,5歳の国民学校高等科や中学校の生徒が当たった。僕も動員先の工場の近くの駅前商店街の疎開”ぶっ壊し”作業に従事した。専門のとび職の指導で、大黒柱に荒縄をかけ、掛け声とともに荒縄を引っ張った。広島原爆の記録をみると、原爆投下の朝、広島二中(現在の観音高校)の生徒352人が爆心地に近いところで、この建物疎開の作業に従事していて原爆死されている。
この強制疎開による補償金はどうなったか。亡父の日記によると戦後の8月27日、9010円が支払われている。東京の三分の一以上が空襲で焼失,敗戦をはさみながらも行政が機能していたのに驚いた。しかし、戦後の猛烈なインフレで補償金は全く価値を失ってしまった。東京大空襲では10万人の市民が亡くなっているが、まったくからの補償はない。それに比べれば幸運といえるかもしれない。