「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

        ”オレオレ詐欺” ”振り込め詐欺” その次は?  

2013-03-23 06:48:00 | Weblog
”振り込め詐欺”が多少下火になってきたそうだが、依然として後をたたない。かってこれが”オレオレ詐欺”と呼ばれていた頃、わが家にもそれらしき電話がかかってきた。”警察の者だが、ご主人が妊娠中の女性を車で怪我をさせた。女性が示談に応じたい、と言っているから、おカネを○○銀行の口座に振り込んでほしい”という趣旨のものだった。電話に出た老妻は、僕が車を運転しないのを知っているので、すぐ詐欺だとわかり電話を長びかせて、別の電話から僕が110番したが、取り逃がしてしまった。

警視庁のHPによると”振り込め詐欺”の被害総額は年間47億5千万円で、前年より12億円も増えている。ただ”振り込め詐欺”の舞台である銀行のATM(自動預かり振り込み機)によるものが減ってきて、直接被害者の自宅を訪ねて現金を詐取するケースが増加しているとのことだ。しかし、あらかじめ電話で連絡してくる手口は同じである。そこで警視庁ではこれを探知防止するため、高齢の希望者に対して自動録音器1万5千台を無料で配布することになった。声紋によって犯人が逮捕されることもありうるらしい。

わが家は電話番号を電話帳に登録していない。学校の同窓会や町会の名簿にも載せていない。それでも時々どこから知ったのか、おかしな電話がかかってくる。自分では”振り込め詐欺”には絶対にかからないと思っているのだが、絶対とは言い切れない。先日も僕よりずっと慎重な友人が、危うく”振り込み詐欺”にかかりそうになった。それほど手口は巧妙になっているらしい。

それにしても老人はおカネを持っているものだ。警視庁では銀行のATMによる”振り込め詐欺”が減ってきたという理由から、一般から新しい名前を募集しているそうだが、名称が変わっても年寄りを狙う詐欺がなくなるとは思えない。年寄りが銀行やタンス預金に頼らず、一生幸せに暮らせる社会になれば、こういった犯罪もなくなると思うのだが。

              若年層失業率の高どまり

2013-03-22 06:17:17 | Weblog
文科省と厚労省の発表によると、今春大学卒業の就職内定率(2月1日)は81.7%で前年同期に比べて1.2%ポイント上回り、2年連続改善されている。再来春大学卒業予定の孫を持つ僕にとっては歓迎できる傾向だ。これもアベノミクスの余恵なのだろうか。しかし、気になるのは依然として若年層の失業率が10%と高止まりしていることだ。

先日スペイン協会の集まり「ドンキホーテ」の会で頂いた最近のスペインの経済統計によると、スペインの完全失業率(1月)は26.2%と高く、中でも25歳以下の若年層の失業率は55.5%とずば抜けて高い。スペインでは若者の半分以上が仕事がなく遊んでいるわけだ。これに比べれば、わが国は10%前後と低い。しかし、会に出席していた会員の一人によれば、統計の取り方の違いによるもので、日本でもニートで時々アルバイトで仕事をしたり、非正規就労者を”失業者”に入れれば、スペインと同じような状況だそうだ。

専門家でないのでよく解らないが、たまに地方の町に行くと、シャッターの閉じている駅前商店街とブラブラしている若者の姿が目立つ。定職についている若者も福祉関係の介護や看護の仕事である。産業構造の変化で地方では昔のように仕事がなくなってきた。しかし、小規模ながら親が農業をやっているので、食べるだけは食べられるのだ。スペインでも仕事のない若者の多くは親と同居しているとのことだ。

TPP参加で最大の問題の一つは農業問題である。安倍総理は”攻めの農業”を主張しているが、具体的に何をしようとしているのか。全国に職業訓練校があるが、同じような農業訓練校を設置し、遊んでいる若者を無料で一定期間訓練させたらどうだろうか。いずれにせよ、安倍総理が描いている”美しい昔の農村”的な経営ではTPPの荒波には対抗できない。



            「修身」(道徳)の教科化に反対

2013-03-21 07:09:22 | Weblog
安倍晋三内閣の教育再生実行会議で「道徳」の教科化が提唱され実現への動きが出ている。安倍総理は「道徳教育への充実」に意欲的ということだが、産経新聞の「言のついでに」というコラムで論説委員氏が”修身(道徳)教科書復活への期待は大きく膨らむ”とわざわざ修身(道徳)と修身を強調して書いていたので、戦中小、中学校で9年間、修身を学んだ者として一言。

修身の授業は週に1時間ぐらいあっただろうか。国定の教科書にそって先生が国語の授業と同じように生徒に読ませた。内容については、ほとんど忘れてしまったが、"狼少年”とか”蟻とキリギリス”といった西欧の寓話や藩政時代の上杉鷹山の倹約の話や二宮金次郎の薪を背負いながら読書した勤勉の話があったようだが確かではない。

戦前の教育は「教育勅語」によるものだった。”朕(ちん)惟うに皇祖皇宗で始まる”この勅語の暗誦は、言葉が理解出来ない子供たちにとっては歴代の天皇の名前の棒読み暗記ととにあまり良い思い出ではない。学校によって違うのだろうが、僕が学んだ小学校では修身の授業は当時の時代を反映した極端な皇室崇拝の話が多かった。僕にとって修身は好きな課目ではなかったが、評価は甲であり、操行(行儀)も優であった。

「道徳教育」の教科化は、日本の教育の現状をみると反対ではない。世界に共通するモラルさえ日本では守られていない。道徳教育は昭和33年から任意課目として学校で行われているそうだが、成果は上がっていない。そのため道徳を教科化して子供たちに学ばさせることも一方便であろう。しかし、これを戦前の修身に戻すというのには、僕らの世代には抵抗があり反対である。

「サイタ サイタ サクラガ サイタ」 「コマイヌサン ア コマイヌサン ウン」

2013-03-20 07:22:09 | Weblog
家のまわりの暗渠の上の桜並木の桜がほころび始めた。一分から二分咲きといったところか。この季節になると、76年前小学校1年の時、初めて習った「国定小学校国語読本」巻一にあった「サイタ サイタ サクラガ サイタ」を想い出す。この読本は昭和8年から15年まで使用されていたから、いま後期高齢者と呼ばれる世代の人にとっては懐かしい。色刷りの教科書で「サイタ サイタ」の後は「コイ コイ シロ コイ」「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」と続いていた。

戦時体制になり小学校が国民学校と変わった昭和16年から国語読本の巻一も「サイタ サイタ」から「アカイ アカイ アサヒ」になった。敗戦時までこの教科書は使用されていたから昭和9年から13年までに生まれた世代はこれを学んだ。この教科書は一般には「アサヒ読本」と呼ばれているそうだが、僕はこのブログを書くまで「コマイヌサン」読本だと思っていた。ところが、調べると「コマイヌサン ア コマイヌサン
ウン」は「アカイ アカイ アサヒ」「ハト コイ コイ」に次いで三番目の文章だった。何故、僕は「コマイヌサン」と記憶していたのか、解らないが、多分子供心に狛犬に違和感があったのかもしれない。

僕が小学校に入学した昭和12年4月1日は、亡父の日記によると東京は桜が満開であった。僕は近所の高等小学校の兄ちゃんに手を引かれて登校したが、校門の横の桜が満開であったことを今でも覚えている。それから僅か3か月、この年の7月7日、盧溝橋で事変が勃発、20年8月15日まで8年にわたる長い長い戦争の日々が続くことになった。

        昭和天皇が空襲被災地をご視察した時代

2013-03-19 06:42:05 | Weblog
10万人以上の犠牲者を出した昭和20年3月10日の東京大空襲の灰塵が残る下町の被災地を天皇陛下がご視察されている。大空襲から8日目の3月18日、天皇陛下は大元帥の軍服姿で深川の富岡八幡宮、錦糸町、上野、湯島などの被災地を見て回られている。中学2年生だった僕には全くこの記憶がないのだが、最近ネットの動画で当時のニュース映画の一部を見ることが出来た

昭和天皇のこのご視察の模様は翌19日の朝日新聞にもご写真入りで次のように伝えている。「今はただ伏して不忠を詫び奉り,立つはしこの御盾となり、皇国三千年の歴史を護りぬかんと誓うのみである。ああ、しかも、この不忠の民を不忠と思召されず、民あわれと思し召し垂れさせ給う大御心の畏しさである」今思うと随分大仰な文章である。しかし、僅か70年少し前の大方の日本人は同じような考え方をしていた。

明治17年生まれの亡父20年1月14日の日記にはこう書いてある。「B-29爆撃機60機、理不尽にも伊勢の豊受大神宮を爆撃。ああ何たる暴虐。言語同断、目視出来ざる敵の暴挙に対しては、必ずやこれを幾倍かの報復をなさではおかず、このことを永遠に忘れず日本史上の悲しい記録と言わざるを得ない。痛憤慨嘆」亡父は格別神がった人間ではなかったと思うが、当時明治生まれの日本人には毎月1日、15日には神棚を拝み、天皇陛下の新聞に載ったお写真でも神棚に載せていた。

戦前、戦中の日本はこういう時代であった。僕ら小学生も天長節(天皇誕生日)など学校の四大節の式典には天皇陛下の御真影(写真)を奉戴したものだった。戦後生まれの若い世代にはなかなか理解できないだろう。その是非は別として歴史認識の問題はこのようなことから始まる。今の視点だけでは「慰安婦問題」も正しく理解できない。

      乗換不便でますます老人が行かなくなる渋谷

2013-03-18 07:02:54 | Weblog
お彼岸入りの昨日、老妻が娘と一緒に浅草のお寺にお参りに出かけてきた。わが家の寺は東京メトロ稲荷町が一番近く家(東横線都立大学駅)から東横線で渋谷駅へ行き銀座線に乗り換えるのが最短のコースだった。ところが帰宅して二人が言うには、新しく副都心線と共同運航した渋谷駅から銀座線駅へは遠く不便で、もう二度とこのコースでは行きたくないとの事だった。

16日から開業した東横線の渋谷新駅は、これまでの地上2階の駅とは別の場所にあり、しかも地下5階にある。新駅から銀座線やJR山手線や埼京線などに乗り換えるには難事である。”4倍も5倍も不便になった”という人もあるほどだ。渋谷駅のHPには写真と地図入りで乗換の方法が書いてあるが、ヒカリエという商店街を通つて6分で行けるとある。しかし、老妻たちの話では、歩く歩道もなく登ったり下ったりして、とうてい老人の足では6分では行けないという。

先週の土曜日、ある会合で会った80歳代の友人も乗換の不便さについて文句を言っていた。横浜から東横線に乗り、渋谷で乗換えてJR信濃町駅前の会場まで普段よりも10分以上も余計にかかったという。老妻たちはお寺の帰りには銀座線の表参道駅で半蔵門線に乗換えて同線の渋谷駅で帰ってきたそうだ。半蔵門線の渋谷駅のほうが地下3階で多少便利なようだが、乗換の不便さには変わりがない。

渋谷はここ10数年、若者たちの街として人気が出ている。年寄りは敬遠する街になっていたが、今度の東横線渋谷駅の移転による乗換の不便によって、年寄り離れは、ますます加速するだろう。さんざん歩かされたあげく、エスカレーターもないところ(銀座線旧渋谷駅口)から乗車するのではたまらない。あまりにも乗客を無視した鉄道会社の共同運航である。

              70歳代と80歳代の違い

2013-03-17 06:21:25 | Weblog
昨日16日、東京では開花宣言が出た。1953年(昭和28年)に記録を始めてて以来、最も早く、2002年(平成14年)に並ぶ記録だという。ここへきて東京では暖かい日が続き、昨日も外出先でジャケットの下に着ていたチョッキを一枚脱いだほどだった。。しかし、バスの車窓から見た桜の名所、目黒川沿いの並木の蕾みは固く、まだほころんでいなかった。多分、満開は1週間後ぐらいになるだろう。

2002年が開花の早いタイ記録だったそうだが、瞬間、僕にはその記憶がない。加齢とともに一年、一年その年何があったのか記憶が薄れてくるものだ。改めて古い日記帳を持ち出して調べてみたら、たしかに3月16日の欄外に”桜開花宣言新記録”と書いてあった。翌17日、僕は老妻と一緒に長野で催された義姉の7回忌に参加しているが”早春とは思えぬ暖かさ”と記している。全国的に暖かい陽気だったのだ。

2002年といえば僕はまだ71歳だったが、日記をみると、まだまだ元気であった。二回海外旅行をしているし、三冊目の本を自主出版してその出版記念会まで開催している。一方、社会との接触も多く、週に数回はいろんな会合に顔を見せている。しかし、一方では、体力にも衰えがで出てきて”生活習慣病”へ挑戦、食事のカロリー制限をして14キロの体重ダウンに成功している(これは後日リバウンドしてしまったが)。想い出せばまだ気力も体力もあった。

80歳までは早朝のラジオ体操にも参加していたし、スポーツクラブにも通っていたが、左膝の半月板摩耗による痛みから、このところ外出の機会が減ってきた。老妻の勧めで出来るだけ杖をついてでも散歩するよう心がけしているが、やはり70歳代と80歳代との老いは違う。

             さようなら地上の東横線渋谷駅

2013-03-16 07:20:02 | Weblog

蒲鉾型の屋根で親しまれてきた東急東横線の渋谷駅が16日の始発から地下5階に引越しし、東京メトロ副都心と相互運転を開始した。東横線は渋谷の一つ手前の代官山を過ぎてから地下に入り副都心線の渋谷駅に結ばれる。これに先立って昨日、僕は85年の地上駅の歴史を閉じる駅舎に別れを告げてきた。
僕の82年の人生の中でも渋谷駅は懐かしい駅の一つだ。昭和23年から40年まで通学、通勤の乗換駅としてお世話になった。戦後すぐの時代、渋谷駅界隈はまだ一面焼け野原で、駅前の東横百貨店(現在の東急デパート東館)の黒い建物だけがぽつんと建っていた。百貨店には売るものも少なく幾つか映画館が入っていた。ハチ公の銅像も今の場所ではなく、都電の終点、JRの駅舎の前であった。

東横線渋谷駅の移転とともに、この東館も営業を停止し、食品名店街として人気のあった「のれん街」も別の場所に移転するそうだ。そしてこの跡には2017年に高さ180m、33階建ての複合高層ビルが建つという。さらにJRの山手線、埼京線のフォームが整備され、東京メトロ銀座線、半蔵門線へのアクセスも便利になるらしい。

戦前、僕は渋谷の現在スペイン坂と呼ばれている地区に親戚の家があり、よく母親に連れられて代々木の練兵所へも遊びに行った。当時渋谷は赤坂の兵舎に近いこともあって兵隊さんの街であった。戦後も東京五輪後、NHKが内幸町から引っ越してくるまでは、銀座、浅草、新宿、池袋ほど賑やかではなかった。まして若者たちに人気のある町ではなかった。

東横線の渋谷駅の移転をステップに渋谷は、さらに大変わりしてゆこう。この70年の渋谷を見てきた僕には感無量なものがある。

        仰々しい(大震災)の報道特集への違和感”

2013-03-15 07:30:05 | Weblog
産経新聞のコラム「透明な歳月の光」で作家の曾野綾子さんが”仰々しい報道特集への違和感”というエッセーの中で、東日本大震災から二度目の記念日に当たってのマスコミの報道が仰々しいのではないかと批判していた。僕は学年にすれば1年上で、ほぼ同世代だが、大津波でも奇跡的に残った一本松の復元工事の報道ぶりなどを見ると同感である。

曾野さんは直接触れてはおられないが、言外には昭和20年3月10日の東京大空襲があるのではないかと僕には思われる。ご自身の戦争中の体験、例えば勤労動員されて”女工”として働いたこと、飛来した米軍のグラマン戦闘機から搭乗員の顔が見える至近距離から機銃射撃を受けた体験などをあげ、戦争は地震や津波より比較にならないほど過酷な体験だと書いている。

東京大空襲では10万人の人が亡くなっている。昭和19年11月から始まったB-29爆撃機による日本本土爆撃では全国で200都市が破壊され、33万人が犠牲になっている。東京大空襲はその象徴的なものだが、年々風化してきた。東京では「東京平和の日」として、関係者が集まって記念行事が行われているが、マスコミはほとんど関心を示さない。大阪、名古屋、横浜でも東京と同じように空襲によって大被害を受けている。

沖縄での組織的な戦闘が終わった6月23日は、戦闘で亡くなった方々を祈って慰霊の日が行われている。原爆被害にあった広島、長崎でもそれぞれ原爆が投下された8月6日と8月9日に慰霊祭が行われている。国民の祝日の中には、あまり意味もない祝日もある。戦争を体験した僕らの世代にとっては、空襲も風化させず後世に残してもらいたいものだ。

             70年前の学校のしつけと体罰

2013-03-14 07:11:31 | Weblog
文部科学省が学校教育法で禁じられている体罰を初めて具体的に例示して全国の教育委員会や学校に通達するという。その具体的な例が幾つか新聞に載っていたが、僕のような老人からみれば、たしかに体罰は悪いが、いい年をした教員や教育委員会のお歴々が、ここまで例示しなければ”しつけ”と”体罰”との区別が解らなくなったのかと情けなくなった。

数えてみたら今年は国民学校(小学校)を卒業してからちょうど70年になる。戦争中で僕ら銃後の小国民は、いまの子どもたちよりたくましく鍛えられた気がする。それに伴って体罰もあった。宿題を忘れれば立たされるし、教室で悪ふざけをし先生の言うことを聞かなければ、座席に向かって白墨(チョーク)が飛んできた。さらにいうことを聞かなければ、教室の外に出され、両手に水の入ったバケツを持たされれて立たされた。いずれも今なら体罰である。

中学校に入ると教練という課目があった。将来軍隊に入る準備として銃の持ち方などを教わる授業である。各学校には将校が軍から配属されていた。戦争中である。子供ながらに軍隊では、鍛えるためにビンタが横行していることは知っていた。しかし、僕の学校では一切なかった。今でも覚えているのだが、行軍中鼻くそをほじくった仲間が罰として”○○は鼻くそをほじくりました”と三回大声で言わされ皆から爆笑を買った。なかなかユーモアのある配属将校であった。

昔の子供時代を振り返ると、進級して担任の先生が変わると、怖い先生にならなければよいなあといつも思った記憶がある。それだけ、子供たちにとっては先生は怖い存在だった。しかし、僕は先生から殴られた経験はない。級友たちに聞いてもない。昔の先生たちは、体罰としつけとの区別を理解していたのだろう。教室には一段高いところに教壇があって、先生は子供たちにとって尊敬の的でもあった。