「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

安倍総理の第二次中東訪問諸国の半世紀前

2013-08-21 06:35:53 | Weblog
安倍晋三首相が8月初め、中東4か国とアフリカのジプジを訪問する。今年の4月初め、サウジアラビア、UAE(アラブ首長国連邦)トルコについで二回目の矢継ぎ早の訪問だ。一つ悪口を言わせて貰うと、硬直化の近隣外交は大丈夫なのだろうか。それはさておき、半世紀前の1962年、僕は今回総理が訪れる国のうちクウェ―ト、バーレーン、カタール3か国を訪問したことがある。

当時の日本人にとってアラブ湾岸のこれらの国々は”秘境”までは行かなくとも、わが国とははるかに離れた国々であった。僕は当時も政情不安だったエジプト、シリアの取材をかねて、レバノン、UAE(当時は休戦土侯国)イエメンなど9か国を歴訪した。湾岸諸国には日本の在外公館はなく在留邦人はクエートとサウジアラビアの中立地帯のカフジ油田で働くアラビア石油の社員だけだった。

今や湾岸諸国はどこも超高層ビルが林立しているが、当時はまったくなく、バーレーンの首都マナーマでは英国人が経営するホテルには僕らは泊まれず、2階建てのホテルに泊まった。このホテルには、トランク一つで現地人相手に繊維品を商売している関西商人が宿泊していた。当時バーレーンでは酒類は一切禁止で、若かった僕らはアルコールなしで日本の将来について語りあったものだった。

僕らが羽田空港から乗った飛行機は「アラブ連合」のコメット機だった。当時エジプトの国名は「アラブ連合」であった。1958年、エジプトとシリアは合邦して「アラブ連合」を名乗ったが、61年シリアはこれから離脱した。が、、エジプトは依然「アラブ連合」といっていた。両国とも歴史的にはアラブの雄である。本来なら、安倍総理も真っ先に訪れるのが礼儀だが、戦闘とデモに明け暮れていては訪れることができない。

終戦記念日の事実 佐伯教授への反論

2013-08-20 06:14:05 | Weblog
京都大学の佐伯啓思教授が産経新聞のコラム「日の陰りの中で」(8月19日付首都圏版)の中で「事実を隠す終戦記念日」という一文を書いていた。教授の論旨は昭和20年8月15日をもって、あの戦争が終結し、戦後が始まったというのは事実と違い、事実は9月2日の東京湾上ミズリー号での降伏文書調印ではないかというものだ。正確にはそうかもしれないが、あの当時を知る日本人から見れば、あまりにも重箱の隅を突っいたような意見だ。

当時中学3年生の僕は、たまたま勤労動員先の工場が休電で家の防空壕で、天皇陛下の玉音を聞いたが、率直の気持ちは”これで工場へ行かずにすむ”という安心感だった。明治17年生まれの亡父は日記の中で将来への不安を感じているが、とりあえず空襲に悩まされず、夜安心して寝られると書いている。あれから68年経つが、今でも当時を知っている日本人は、あの日の事を記憶している記念日である。

米国では当時のトルーマン大統領によって、ミズリー艦上の降伏式のあった9月2日が「日本への勝利の日」(V-J day)と定められているが、負けたわが国にとっては敗戦の日である。亡父は日記の中で”まさに断腸の思いである”と記している。大方の日本人は同じ気持ちであった。しかし、この降伏式については、8月15日のような強烈な思い出はない。

佐伯教授は”8月15日は少なくとも戦後の門出ではないと書いているが、当時の日本人は誰も門出の日と思った者はいない。敗戦への屈辱感と同時に将来へ不安、また取り合えずの気持ちは、死なずにすんだという安堵感であった。僕は最近まで8月15日は「敗戦の日」と書いたことがあったが、正確には「終戦の日」なのだ。先人の命名の正しさにに改めて感心する。

国防色の国民服を着ていた時代

2013-08-19 05:48:42 | Weblog
古いアルバムを整理していたら、撮った時代が特定できない亡父の写真があった。何時かなと、推定してみたら亡父が国民服を着ていた。国民服の着用は昭和15年(1940年)の勅令で着用が決まった。戦時下、繊維不足と国民の戦意高揚を狙ったもので、強制的ではなかったが、男子国民はできるだけこれを着用するよう推奨された。甲と乙と二種類があって、甲の襟は背広型でネクタイも付けられ、帽子は烏帽子型、一方、乙は軍服と同じ襟で、帽子は戦闘帽であった。当時子供だった僕の観察では、大人には甲型に人気があったようだった。

敗戦から初めての日曜日の20年8月21日の亡父の日記には”すでに防空頭巾と巻きゲートルは廃止され、気を付けてみると街頭人の服装も国防色(カーキ色)も次第に減りつつある”とある。敗戦から僅か4日しかたっていないが、この日当時の東久爾首相は、灯火管制を解き街を明るくするよう天皇の言葉を伝えた。

国民服は22年3月、進駐軍命令によって全面禁止されたが、当時は食糧だけでなく衣類も極端に不足していた。古い擦り切れた背広を裏返しにして着たり、航空兵の戦闘服を白いマフラーで飾り粋に着こなした若者もいた。国民は国防色にグッドバイしたい一方で、衣類不足からそれができない状態であった。23年、僕が大学の予科に入った時でも級友のなかには将校服の肩章を取った服を着ていた。教会のバザーで当たった派手な生地でズボンを作り、得意気にはいていたのもその頃であった。

僕らの世代の中には、いまだに国防色アネルギーな者が多い。靖国神社に旧軍服を着て参拝する若者がいるが、戦争のみじめさを知らない人たちであろう。

40年前の新人社員も役員定年

2013-08-18 06:33:57 | Weblog
1960年代の後半から70年代初めにかけてUHFの民間テレビ局が続々と誕生した。まだコンバーターをつけないと受信できない時代であった。もう40数年も前のことだ。開局に携わった僕らはまず、街の電気屋さんを回ってコンバーターの普及販売が最初の仕事であった。当時はベトナム戦争の最中で、僕は新聞社で国際問題を担当していたが、ある日突然、同系の民放行きを命じられ、半年間の実務研修を受けて、郡山に誕生したテレビ局に営業担当として赴任した。

郡山の局には約2年間勤務、経営が軌道に乗り出した頃、親局の番組ネット.チェンジの関係で、今度は札幌の開局を命じられた。まさにサラリーマンとは将棋のコマみたいなものである。札幌の局にはあしかけ10年勤務したが、一身での都合で50歳の時、みずから仕事をやめた。もう、それからでも30年の歳月がたつが、最近、この勤務した二つの局から社報が届き、それを見ると、開局当時の新人社員で役員まで昇進した連中も定年で退職した。

個人的なことで恐縮だが、僕は50歳で仕事を辞めているので定年を経験したことがない。一つの会社で一つの仕事をやり遂げたたという喜びを味合ったこともないが、逆によく言われるサラリーマンの悲哀も知らない。逆に結果的だが4回も中途半端な額の退職金を貰っている。80歳を越えた今、半生を振り返ってみて、50歳で退職したのがよかったのか、それとも定年まで勤務するのがよかったのか考えることがある。一概にはいえないが、こうして元気で勝手放題、ブログ三昧でいられるのだから、早くサラリマンにグッドバイしたほうが正解だったかもしれない。超高齢化時代だけに人生の後半の生き方は難しい。

インドネシア独立当時の日本人たち

2013-08-17 05:45:26 | Weblog
東京五反田にある駐日インドネシア大使館公邸で行われた第68回独立式典に参加した。昭和20年8月17日、インドネシアはジャカルタのスカルノ(初代大統領)邸前庭で、高らかに独立を宣言した。当時僕はインドネシアにいたわけではないが、独立当時ジャカルタに駐在、直接、間接的に独立に関与した日本の先人たちをよく知っており、例年、この日には式典に参加し独立を祝い、彼らを偲ぶことにしている。

その一人は独立宣言起草に当たった西嶋重忠氏(海軍武官府嘱託)で、独立前後のことは著書「インドネシア革命」(昭和50年新人物往来社)に詳しい。もう一人は当時、陸軍第16軍政監部の軍政官であった斉藤鎮男氏(戦後インドネシア大使)で、やはり独立時について著書「私の軍政記」(日本インドネシア協会昭和52年)で触れられている。僕は1966年、斉藤氏が大使だった時代ジャカルタに勤務、北スマトラ石油会社の常務をしていた西嶋氏とも面識があった。

西嶋氏はインドネシア独立時、前田精海軍武官府司令官の下で、実際独立宣言を起草するなど推進派であったが、斉藤氏は軍政官として敗戦後連合軍との関係を配慮して独立に対しては慎重であった。西嶋氏の著書によると、事前の陸海軍の話し合いの席上、斉藤氏は海軍からの独立容認要請に対して”君らのやっていることは国賊だ”とまで言い切った。この発言に対して西嶋氏はポッケットからピストルを持ち出して撃とうとまで思ったと書いている。

インドネシアの独立は17日午前10時(日本時間)スカルノ邸前庭で行われたが、危惧された日本側(陸軍)からの妨害はまったくなく、紅白の国旗が高らかに掲揚され、国家「インドネシア.ラヤ」が高らかに歌われた。陸軍も独立を消極的ながら容認した結果となった。(写真は、独立時の模様を再現した形で催された東京の式典)


在日インドネシア大使館建物が災害時緊急避難地に

2013-08-16 06:00:18 | Weblog
東京品川区がこのほど区内にある在日インドネシア大使館建物を災害時緊急避難地に指定することについて大使館側と合意した。災害時大使館の一角を開放して区民や帰宅困難者を受け入れる。自治体が海外の公館との間で、このような協定を結ぶのは恐らく初めてであろう。

インドネシア大使館は品川区東五反田の通称池田山という昔からの高級住宅街の一角にある。明治維新までは、旧岡山池田藩の下屋敷があった場所だ。大正終わりから昭和の初めにかけて開発された。インドネシア大使館の建物は、昭和11年、松坂屋百貨店の16代当主の伊藤鈴三郎が英国からの留学直後建てた鉄筋コンクリート2階、地下1階の広壮な建物である。近くには皇后陛下の実家、正田栄三郎邸もあったが、数年前相続税の関係から壊され、今は区の「ねむの木」公園となっている。

少年時代、五反田の目黒川沿いに住んでいた僕にとって池田山は夏休み、セミやトンボの宝庫であった。ガキ仲間とモチ竿をもって豪邸の庭に忍び込み家人から大目玉をくらったものだ。しかし、今や池田山にはインドネシア大使館と通り一つ隔てた在日タイ大使館の二つしか当時の豪邸は残っていない。タイ大使館は、和歌山の豪商浜口吉右衛門が昭和9年建てたものだ。幸い池田山界隈は戦災を免れた。しかし、戦後の遺産相続税の関係で、正田家のように自治体に物納されて壊されたり、遺族間で細切れに分割されて、かっての豪邸はこの二つの大使館建物だけになってしまった。

明日17日、第68回インドネシア独立式典が、大使公邸の庭で行われる。公邸内はなかなか拝見できるチャンスがないので、許可をえて写真に収めてこようと思っている。


安倍晋三総理の英霊への尊崇の念

2013-08-15 06:04:47 | Weblog
今日は68回の終戦記念日。昭和20年8月15日、やはり暑い日であった。電力不足から動員工場が休みで家にいた僕は亡母と二人で防空壕で、天皇陛下の”玉音”を複雑な気持ちで聞いた。今年もかしましかった安倍総理の靖国神社参拝は取りやめとなった。小ブログは何回も述べてるように、何もこの日に総理が”靖国参拝”にこだわる必要はまったくないのだ。

安倍総理がこの日”玉串”だけで参拝しないからといって誰も総理が”英霊に対して尊崇”の念を持っていないとは思わない。しかし、総理の言う「尊崇の念」は、終戦の日の”靖国参拝”だけではないと思う。新聞に激戦地ガダルカナル島で「日本青年遺骨団」の大学生らがジャングルに眠る英霊の遺骨収容に当たるという記事があった。

戦後まもなくの昭和30年、当時の政府は南太平洋の激戦地を中心に「大成丸」を派遣して遺骨5000対を収容した。そして各地に慰霊碑を建ててきた。「南方各地慰霊碑一覧」によると、東ニューギニア地区(現在のパプアニューギニア)だけで、この時九碑が建立された。しかし、その後移転されたり壊されたりして、完全には維持されていない。厚労省は海外の民間が建てた慰霊碑については管理者がいないものについては整理する事業を進めている。しかし、政府が関与した碑については、いったい、どうなっているのか

日本国内には戦時中捕虜で死亡した英連邦各国の霊を祀る墓地が横浜市保土ヶ谷区にあり、エリザベス女王やサッチャー首相も訪日の際、参拝に訪れている。福岡県水巻町にも戦時中筑豊炭田に就労中事故や病気で死んだオランダ人の捕虜816人の名前を刻んだ「十字架の碑」があり、外務大臣も参拝に訪れている。これに対して日本では在マニラ大使館が、カリラヤ戦没者慰霊園で大使が臨席、在留邦人が集まって参拝している以外あまり聞いたことがない。慰霊碑が遠隔の地であるのは解るが、年に一回ぐらい在外公館の代表が参拝したらどうだろうか。




熱中症 老老介護の悲劇

2013-08-14 05:45:34 | Weblog
東京港区高輪一丁目で今の日本の老人介護の問題を象徴するような事故があった。78歳になる主婦が熱中症で倒れて死亡、介護していた夫(87)も脱水状態で重症、さらに2階に同居、これまた主婦の介護下にあった寝たきりの夫の実兄(89)は死亡していた。主婦も認知症の診断を受けていたという。こんな状況なのに、一家は行政からの支援介護を一切受けていなかったという。遺体を発見した夫婦の次男(45)が同居していたから、見逃されていたらしい。

港区高輪一丁目といえば、江戸時代から”清正公”(加藤清正)様のお寺として親しまれている覚林寺に近く、昔からの住宅地である。最近は地下鉄の開通で、白金とともに高級商店街としても有名になってきていた。今年の5月、白寿のお祝いをした大先輩も大正時代からこの町に住んでいる。大先輩はお元気で自宅で孫と同居しながら、週に何回か支援を受けている。

古い町だから住民同士の日常のお付き合いもあるはずである。それなのに、何故こんな悲劇が起きてしまったのか。多分亡くなった主婦はご主人とは年が離れており、また”頑張り屋さん”だったのかもしれない。あるいは行政に相談するのを恥じていたのだろうか。

僕の周囲の元気だった90歳代の友人、知人が、このところの猛暑で体調を壊し入院している。しかし、行政の支援、介護を受けている人はよいが、知り合いの90歳を超えたの先輩夫妻はは、お子さんもなく二人でマンション暮らしをしている。心配なので時々ご機嫌伺いの電話をしているが、行政側も80歳代を越えた一人住まいや、夫婦だけの家庭には定期的に安否を確認してもらえないものだろうか。

70年前房州の海の民宿の想い出

2013-08-13 05:49:50 | Weblog
まさに夏の真っ盛りである。いつもこの時季になると、戦争がはげしくなる前の昭和の初め、房州(千葉県)の海へ避暑に連れてかれたことが懐かしく想い出される。老父の残した日記によると、僕は昭和13年から15年までの3年間、千葉県岩井町久枝海岸の漁師宅に毎年1週間ほどお世話になっている。12年も行く予定にしていたが、日支事変の勃発で直前電報を打ち中止となった。

房州の海へは当時、両国駅からSLで出かけたが、13年には芝浦の「汽船場」から葵丸という船に乗って勝山経由で行った、勝山には港がないので沖合に停泊、はしけに乗り換えて上陸した。葵丸は普段は伊豆七島航路の船だが、海水浴シーズンだけ特別に運航していた。汽車で行く時には”チッキ”といって鉄道の駅まで寝布団を運び、行く先まで運んでくれるサービスがあった。民宿先には布団がなかったのである。

70年前で記憶も薄れてきたが、食事も自炊だったようだ。当時は貴重品だった新鮮なタマゴを使って姉が目玉焼きを使ってくれたのを今でも覚えている。滞在中、毎朝ビンに入った牛乳が届けられ、おいしく飲んだ記憶もある。それよりも海水場近くに臨時に建てられたヨシズ張り小屋で食べた砂糖水をかけただけの“スイ”というかき氷のおいしかったことが、昨日のように思い出される。

浜辺に近い草叢にはキリギリスやマツムシ?などが一杯とれた、カブトムシも民宿の裏山にいて、これを虫かごにいれて東京に土産として持ち帰った。戦後、僕は一度も岩井海岸には訪れたことがない。80歳をすぎて再訪したい気持ちもあるが、何か遠い日の少年の日の想い出として、そ―っと取っておきたい気持ちもある。

進駐軍によって水泳禁止だった逗子海岸65年の今昔

2013-08-12 07:16:42 | Weblog
昨日も日本列島は40℃を記録する地もある猛暑となった。これで2日連続である。東京でも最低気温が30℃、最高気温が38.3℃と、ひねもす30.℃を越えた。これは気象観測史上の新記録だという。この暑さの中、娘夫妻が熱中症を心配して僕ら老夫婦二人を車で湘南海岸に誘ってくれた。高速道路を乗り継いで行けば、わが家から僅か45分で着く。

葉山の海は何故か煙っていた。暑さのため海水が蒸発する自然現象なのだろうか。いつものように佐島港へ行き市場で獲れたての魚を求めた。昨日は鰤(ぶり)の幼魚「わかさ」がバケツ一杯250円というので、老妻はサカナを縦にしたり横にして詰め込んだら10匹もはいった。そのあと 山あいにある湘南国際村近くの農家へ行き、これまた朝もぎの新鮮な野菜や果物をかった。大振りのスイカが600円であった。都心では考えられない。

帰途、逗子の町に入ったら若者たちで一杯だ。僕は昔戦後すぐの時代、空腹を抱えながらも泳ぎにきた65年前のことを想い出した。駅前通りから小道をとおって海岸に出ると、瀟洒な逗子なぎさホテルがあったが、連合軍に占領されていた。そして浪子不動側の海岸にはロープが張られて、日本人は遊泳禁止になっていた。

逗子の町を行く若者たちを見て貧しかった青春を懐古していたが、若者たちの姿が海水客でないのに気が付いた。水着にサンダルばきの女の子ばかりで、子供を連れた家族客はほとんどいない。娘に聞いたら「逗子フェス」という小坪海岸で催されている若者向け野外音楽会への参加者であった。逗子海岸から歩いて20分ほど、65年前は進駐軍によって遊泳禁止にされていた海岸を今は歩いて行けるようになったのだ。主権が回復されたお蔭だが、若者たちはそんな昔のことをご存知ない。(写真は佐島港の市場)