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バンビ・わーるど

プラダー・ウィリー症候群の息子「バンビ」を愛し、その成長を見守る母・suzuのつれづれ日記(&ときどき猫だより)

カミングアウトとアウティングについて

2017年09月27日 | 障害児の親
さて、今日はとても書きにくいことをあえて書きますが…

私はこのブログでバンビの写真を 幼少期の何枚かを除いて、すべて加工し顔出しをしないようにしている。
その理由は2つ。

1.ネットの世界は 恐いから
2.本人の了解を得ていないから

まず、1つめ。何が恐いか という話。

バンビがまだ幼い頃、ネットで「プラダーウィリー症候群」という言葉を検索すると
頻繁に出てくる写真があった。成人男性でいまは仮にAさんとしてみる。

AさんはPWSだったらしく、そして あるコミュニティではかなり有名だったようで
まぁ言葉は悪いけど“コイツに注意しろ”みたいな情報が出回っていたんだよね。

当時は今のようなSNSはほとんどなかったから、個人のブログとか2ちゃんねるみたいなところにだけど。
やらかしたと言われていることを見てみると、承認欲求の塊りのしつこいPWSそのものというカンジだった。
当時、私は“あー、バンビも大人になったらこんな風になってしまうのか…”と暗澹たる気持ちになって辛かった。

そして、その写真。
まぁ、PWSと言われれば確かにPWSの特徴のある顔だったのだけど
それがネットのいろんなところに晒されているのは 本当にイヤな、ツラい気持ちだった。


今はAさんはもう亡くなったらしく、検索してもおそらく出てこないようになっているみたいだけど。
それは晒していた人達が、Aさんが障害者であったこと、亡くなったことから自主的に消去したからのようで
ネットの世界は一度アップされたら、どんな形で誰に使われるかわからない というのが通説。

これはとても、恐いことなんだよね。
世の中にはいろんな性的嗜好の人がいて、乳幼児の裸フェチの人もいたりするらしいから
“子どもの写真だから”といって安心もできないみたいだし。

それに写真には位置情報が付いていることがあって
ホームページやブログの設定によっては、見る人が見ればその位置情報を知ることもできてしまう。
それでなくても、周りに映っているものや景色から位置を特定することもできるだろうし
そうなると住所が特定されてしまう可能性もあるんだよね。



ほんとかどうかは定かでないけど、ピースサインの写真から指紋情報が取り出せるという話も耳にしたことがある。
関係ないけど、ツイッターで「この犬を探しています」というツイートに、善意の人が協力したら
実は犬の飼い主である元カノを探しているストーカーだった という話にはぞっとしてしまう。

悪意を持ってネットを利用する人はいくらでもいるという話だよね。


だから、私はお誕生日も日にちが特定されるようには書かないようにしている(つもり)
名前も、顔も、住所も、誕生日も、すべてとても大事な個人情報だから
できればそれが限定されるようなことは避けた方がいいのでは というのが私の考え。

とても悲しいことだけど、知的障害があるということだけで人に付け入れられやすくなってしまうわけだから
特に女の子は性的被害に合う可能性を考えて、慎重な上にも慎重であった方が良いのではと思う。(このご時世、男子も危険だったりするけど)

知らないでやっている世のパパ・ママも多いと思うので、一応書いておきます。
意図して公開しても構わないという人を否定するものではないので、念のため。



そして、2つめ。 “本人の了解を得ていないから”

これは、以前先輩ママさんのブログで
お子さんが思春期になって、自分の写真を載せるのをイヤがるようになったからアップするのをやめます ということがあったから。

バンビの情報をアップすることについて、私もバンビの許可を得ていないから
将来このことを本人がイヤがる可能性があるんだな と思って、それからは顔出しをやめたわけ。


最近、発達障害を取り上げるテレビの番組が増えていると思うけど
実名・顔出しを本人が了承した上でしている分には構わないけど、親の一存でしてしまうことを危惧する声もあるんだよね。
将来、その子が思春期になった頃に問題化する場合があるのだそうだ。


これについては、親が障害児の親であることをカミングアウトすることは、“アウティング”ではないのか
という意見の人もいて、考えさせられる。

“アウティング”には、秘密を暴露する という意味があって
特に性的マイノリティであることを本人の了承なく言い広めることを指すらしい。
大学生が自分が同性愛であることを友人に伝えたら、言い広められて自殺した事件以来 耳にするようになった。


障害当事者が自分の意志でカミングアウトする分には何も問題ないけど
親がそれを晒すのは 一種のアウティングではないか-
というのは ちょっと厳しい言い方とは思うけど、でもそういう面も否定はできないように思う。


わが子の障害を知ってほしい、理解してほしい という気持ちは私にもあって
だからこそこのブログを長年書いてきているわけだけれど
親としては まず第一に我が子を守らねばならないから。
何かをするには深謀遠慮が必要なのではないか と思ったりもする。


まぁ、ここに書いたことが杞憂であり、老婆心であることは承知の上だし
むしろそうであるに越したことはない。
読んだ方の中には不快に思われる方もいるかもしれないけど
あえて書くのは “リスクを知らないよりは知っていた方がいいから”
知った上でやる分には 個人の自由なのでもちろん私がとやかく言うことではないのだけど。

世のブロガーのパパ・ママさん、どうぞ気を付けて。
そういう気持ちです。


メールはこちらまで → yakkoxhs@gmail.com

14年を振り返って

2017年08月12日 | 障害児の親
バンビは、今朝ミニバスケ&フロアホッケーの合宿に出かけていきました。
重い重い大きなリュックとナップザックを身体の前後にしょって、傘を差して歩く姿に
たくましくなったなぁ と思ったりして。

3泊4日 先生やスタッフの方、役員のお父さん・お母さん、そして 他の子ども達との集団生活は
厳しいこともたくさんあるだろうし、もちろん お楽しみもあるだろうし。
どんな4日間を過ごして帰ってくるのか、私としても楽しみ。
(そして、私にとっては 貴重なフリータイム!



本当に ”経験は宝” だと思う。
頭でいくら想像しても、結局 実際に経験して初めてわかることって たくさんある。 

見通しがつく って、大事だよね。
特に 人一倍不安感の強いPWSの子にとって、一度経験してみて だから予測がつくってことは
心の安定に大きく作用する。



これは前にも書いたことあると思うのだけど、例え話として

親はどうしても 子どもが転んで痛い想いをしなくて済むように 平坦な道を歩かせようとしがち。
いつも手をつないで歩いて、つまづいて転びそうな石でもあろうものなら、予め取り除いてあげたくなったり...。

もちろん、最初のうちはそれでもいいのだけど
徐々に いろんな道を歩かせて、最終的には どんな道でも一人で歩けるようにするのが
親の務めなんじゃないかな と思ったりする。

転んで痛い目にあったら、次は転ばないように自分で気を付けるようになる。
石ころだらけの道なら それを回避して、他のルートを探したりするようにもなる。


ずっと手をつないで、石を除けて歩かせ続けたら
一人で歩かなくちゃならなくなった時に、不安で歩こうとしないかもしれない。
大きくなってから転んで、痛みにびっくりして 歩くことを拒否するかもしれない。

そういう話を身近でもよく見聞きする。
その子のせいじゃない、その子が悪いんじゃないんだよね。
それに、そうなってからではもう変えるのは本当に骨が折れる。

もちろん、感覚や身体能力は人それぞれだから一概には言えないかもしれないけど
小さいうちから積んできてたら 少しは違ったのかもしれないのに... と思うことあるんだよなぁ。



子どもの人生を最後まで親が見てあげられるならいいけど
大抵は 親の方が先に逝かねばならない。
繋いでいた手を離して、他の誰かに委ねなければならない時が来る。

親がいなくても生きていけるように、誰か他の人の支援を受けて生きていけるように
そのための準備を 長い長い時間をかけてしていくのが親の仕事なのかな と思っている。


だからと言って、いきなり荒れた道に放り出して、一人で歩かせるんじゃなくて
最初は 平坦な道を手をつないで歩いて、”歩くの楽しいね” と刷り込み
一人で歩けるようになったら ”上手だね” と誉めてみせ
たまに転んだら、”痛かったね、でも 大丈夫だよ。”となぐさめ、励まし
”次は こういう風に歩くといいよ、こういう道を選ぶといいよ。”と 教え、諭す。

一人で歩くようになったら、道自体を自分で選べるように ”考えてごらん。”と相談に乗り
たまにアドバイスして、後はひたすら見守る。
うん、たぶん今のバンビは もうこの段階に来てるのかも。
(いやいや、まだ派手に転んで その都度全力でなぐさめたり、励ましたり、教え諭すことも多いけどね。)


あとは、その”見守る役”を 親の私から他の誰かに うまくバトンタッチできるかどうか にかかっているのかもしれない。


バンビもここまで 14年...長い長い歳月。
でも、振り返れば 本当にあっという間。

子どもは日々育つ。後戻りはできない。(でも やり直しは可能かも?)
今日1日が勝負、今の一瞬一瞬が 子どもの将来を培っていく。

だからと言って、責任の全部を親の肩だけに乗せる必要はないと思う。
周りの支援(学校、療育、医療、福祉、地域、親戚縁者...関わってくれる人すべての)をうまく活用して
一緒に育めていけたらいいんじゃないかな。

ただ、まずは親がそういう意志・気持ちを持っているかどうか が肝腎かな と思う今日この頃。

メールはこちらまで → yakkoxhs@gmail.com

みんな変われる、いつか親になる

2017年02月17日 | 障害児の親
病院で会った、PWSの赤ちゃんのママ。
去年初めてお会いした時は まだお子さんも入院したままで、お話しすると涙ぐんでしまっていて
とても気がかりだったけど...。

でも 今回はママの方から声を掛けに来てくれて、赤ちゃんもとても元気そうだったけど
何より ママさんがとても穏やかな明るい笑顔で、本当に優しいお母さんの雰囲気で
一生懸命育てているなぁ というのが感じられた。

それがとても嬉しくて、なんか涙が出そうだったなぁ。


みんな変われるんだよね。
私だって、最初から親になれたわけじゃなかった。

我が子に障害があるとわかってショックで、絶望に打ちひしがれて
泣いて泣いて泣き続けて、プチ引きこもり状態にもなった。

でも時間が、そして仲間の存在が、何より子どもの育ちが励ましとなって 私を強くしてくれた。
今ではバンビの存在が、私の心を、人生を豊かにしてくれてる そう思える。


大丈夫。
時間はかかってもいい。
みんないつか親になる。


どこかで見かけたら、どうぞお気軽に声をかけてくださいね。
私は 書くのは好きだけど、しゃべるのは実はちょっと緊張してしまって時々ぎこちなくなってしまうのだけど
14年前の私のように今落ち込んでいる人の力になれたら といつも思っています。


メールはこちらまで → yakkoxhs@gmail.com

親から親への支援について ~LITALICO「発達ナビ」のこと~

2016年11月27日 | 障害児の親
LITALICOというのは、元々はウイングルという名前で障害者の就労支援サービスを提供する会社で
そこから発達障害児向けの学習塾Leaf(今はLITALICOジュニア)をやり始めて、以前バンビも以前見学したことがある。
(結局は入らなかったけど。)

その会社があれよあれよという間に経営拡大して驚かされたけど、それだけビジネスニーズがあったんだろうなぁ という想いで見てもいた。
いつの間にか「発達ナビ」という、発達障害児の親向けのポータルサイトが立ち上がり、これもかなりの盛況ぶり。

その中の「Q&A」は、親からの質問に他の親が答える形になっていて
親同士の支援 という意味では、私の目指す形の1つではあったから興味深く見ていたのだけど
ただ、その記述に 若干不安要素もあり...。

私は 直接見てないんだけど、投稿者や、記事を書いたライターに向けた誹謗中傷コメントとかもあったらしい。

あと、特に医療情報については、良かれと思って書いているものがもちろん多かったのだろうけど
エビデンス(医療的根拠とか裏付けとか証明とか)に欠けているものがあったり
スピ系(スピリチュアルなものは私も信じているところもなくはなく、全部が悪いものとは思ってないけど)から宗教的なものへと話が展開していったり
中には ステマ(ステルスマーケティング)、つまりそれとはわからないうちに商用サイトに誘導されたり とか
それっぽいものも あったようで。


それがこのところ、ネットでもかなり話題になっていて
ついにLITALICOが「ユーザーさまによる医療情報に関する投稿の取り扱いについて」というコメントを出した。

これについては、カイパパさんの「カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル」というブログにも書かれているので
そちらをご参照いただければと思う。
→ 「新しい治療法」情報をどう受けとめるか~LITALICO発達ナビに関連して


利用規約とか読むと、問題になったことも一応ちゃんとルールが書いてあるんだけどね。
でも、実際にはルールが守られてないことも多いし、それがきっちり取り締まられてるわけでもなかったみたい。

それに、”「発達ナビ」は場の提供をしているだけで、内容を保証するものではないからユーザー側がよく考えて判断してね。”ってなことを言われても
障害者支援や障害児の学習塾を経営している、”ちゃんとした企業”が提供している情報だ っていう意識がそもそもユーザーにはあるから
そして、子どもの育ちに悩む親にとっては もう藁にもすがりたい想いがあるから
良いらしいとなったら何でも受け入れたくなる心理状況だもんね。

自分で考えて受けとめて って言われても、難しいと思うな...。


私が参加しているFacebookの発達障害関連のコミュニティには、管理人グループが設けたルールがあって
勝手にそれを一部転記させてもらうけど

◆医学に類似るもの、薬に類似るサプリメント、民間療法など、危険を伴う書き込みを原則禁止とさせて頂きます。
 ◎報告があった場合又は管理人が発見した場合、投稿を削除し、退会とさせて頂く事があります。
◆利益を伴うセミナー等への集客・宣伝・勧誘・お友達(マルチ)商法の目的での投稿又は、メンバーへのメッセージを原則禁止とさせて頂きます。
 ◎報告があった場合又は管理人が発見した場合、投稿を削除し、退会とさせて頂く事があります。
◆政治・市民団体の活動目的の投稿又は、メンバーへのメッセージを原則禁止とさせて頂きます。
◆宗教活動(布教・勧誘)の目的のための投稿、メンバーへのメッセージを原則禁止とさせて頂きます。
◆特定の個人・または団体への中傷などの書き込みの原則禁止とさせて頂きます。
 ◎報告があった場合又は管理人が発見した場合、投稿を削除し、退会とさせて頂くこともあります。
◆危険を感じさせる書き込み、写真、絵画または、動画、誘惑的なの肌の露出(子供も含まれます)を、原則禁止とさせて頂きます。
◆上記以外でも、犯罪を伴うまたは、誘発する内容のものと判断した場合は、管理人の判断で削除いたします。

これくらいきっちりやっている。
最初ちょっと驚いたけど、これくらいやらないといろんな危険が生じる可能性があるからなんだろう と理解できた。


ピアサポートとか、ピアカウンセリング は、むやみにやると危険な要素をはらむものになる。
giverもtakerも、そう 受ける方はもちろんだけど
情報提供する方もこれくらい意識した上で発信するようでないと 問題になる可能性があるんだよね。

だから、ペアレントメンターのメンター研修では、やっていいことといけないことをきちんと教えられるそうだ。
そこに意味があるんだよね。

というわけで
私もこうして、ブログで発信している以上 心しておかなくちゃいけないと思った出来事だった。

メールはこちらまで → yakkoxhs@gmail.com

未来に向けて1歩前進

2016年10月20日 | 障害児の親
久しぶりの更新になってしまった...
書きたいネタはいろいろあるのだけど、最近バタバタで。

バタバタの理由の最たるものは 前にも書いたけど ”私のやりたいこと”をやってるから。


今の世の中、障害や病気の有無とか、国籍とか、LGBTみたいな性的嗜好や貧困なんかもそうだと思うけど
いろんな理由でマイノリティーの立場になってる人に対して 排除がキツくて、生きづらくなってる。

でもね、ある集団からマイノリティーを取り除くと、残されたメンバーの中からまたマイノリティー認定される集団が生まれて ってことを繰り返して
排除する側のつもりだった人も、立場が変わって自分が排除されるかもしれなくなるんだよね。

誰でも年をとるんだし、一生病気と無縁の人なんてたぶんいないよね。
今は働いて給料稼いできちんとした暮らしが成り立っていても、いつ働けなくなって困窮するか。
そういうリスクは誰にでもある。

だから、何かを理由に誰も排除されることのない社会、誰にも居場所のある社会でなければ と思う。
障害を持つ子の親になってからは、障害者が排除されがちなだけに尚更そういう想いを強くしている。

息子を守るためにも、何かそういう障害者理解のための活動ができたらと、この13年間ずっと考えてきたような気がする。


そして、これもしつこいくらい書いているけど 
我が子に障害があると宣告された時のあの絶望感を味わった身として、同じ立場に置かれた人の力になりたい。
あの時私を暗闇から光のある方へ導いてくれた仲間や先輩の親御さんに受けた恩を、次の人に返したい。

つまり、家族支援のための何かをやりたい。


さらに3つ目。
障害者(特に障害児)のためのライフハックをまとめたい。

「Life Hack」とは、元々はIT業界の ”効率良く仕事をこなし、高い生産性を上げ、人生の クオリティを高めるための工夫。”のことをいうらしいんだけどね。
障害者のためのライフハックとは、苦手なこと、うまくできないことがたくさんある障害者に対して
ちょっとした工夫でうまくいくようになるよ っていう小ネタみたいなものかな。

例えば、バンビは手先が不器用で、握力も弱くて
だから、まだ小さい頃 靴を履くのに時間がかかっていたんだよね。
対策として、かかとの上に引っ張るところがある靴を買って、そこにチェーリング(プラスチックの輪を繋げて遊ぶヤツね)の輪を通してみた。
つまんで引っ張り上げるのではなく、その輪に指を引っかけてあげる方式。

さすがに今は靴を履くのは問題ないけど、例えば学校の通学鞄(リュック)なんかも
全体が真っ黒で、開閉するファスナーのつまみも黒だから
視機能があまりよくないバンビにとって、まずどこから開けるかがぱっと見わかりにくい。
探している分余計な時間がかかる。つまんでファスナーを開閉するのにも時間がかかりがち。

なので、つまみのところに丸い輪を通してある。(中学校は目立つと注意されるので、銀色のアクセサリーパーツをチョイス)
これだとすぐわかるし、指を引っかければファスナーの開閉が簡単にできる。


こういうのって簡単な工夫なんだけど、とっさに思いつかないことも多くて
口コミとか、誰かがやってるのを見て とかしか情報がgetできないような気がする。(あったら教えてほしい。)

だからこそ みんなでライフハックのシェアができるといいなぁ って思うんだよね。


この3つを できたらボランティアじゃなく、事業としてやりたい。
事業って言っても、別にビジネスとしてそれで儲けようってわけじゃなく、経費がちゃんと賄えるくらいの でいいんだけど。

だって、ボランティアじゃ 時間的・経済的に続かない気がするんだもん。
責任の持ち方も変わってくるだろうしね。

社会貢献事業として成立すれば そこに参画しようと人も増えるだろうし。


まぁ、今はまだ夢のまた夢だけど。
でも、バンビを社会に出した後、私は残りの人生を こういう活動に費やせたらいいなぁ と思っているんだよね。
そのための準備を少しずつ形にできるように動いているところ。


で、突然ですが 来年、映画「みんなの学校」を自主上映します。
詳細は次の記事にまとめて書くつもりだけど。

これは1つめの障害者理解のための啓蒙活動の一環 と言えるかな。

”「みんなの学校」を上映する会” だと1回こっきりの集まりみたいになっちゃうから
チーム名を「未来えんじん」って決めた。

”えんじん”は、エンジン、円陣、縁と人。
障害者とその保護者と支援者が手を取り合い、より良い明日に向かって進んでいけますようにと願いを込めて 付けたもの。
ちょっと気に入ってます。(笑)

なんかわからないけど、とりあえず勢いで前に進んでみる。
そこから何かがつながって、もっと大きな勢いになれるかもしれない。

メンバーまだ3人だし、大変なことも多いけど、でも学ぶこと多いしなかなか楽しい。
私もまだまだ経験値積んでいけるんだなぁ というのが実感できる毎日です。

メールはこちらまで → yakkoxhs@gmail.com

声を上げること

2016年09月21日 | 障害児の親
先日、区による障害福祉団体へのヒアリングというのに、私も初めて参加させてもらった。
いろんな団体にヒアリングをして、その結果が平成30年度からの障害者福祉施策の計画策定の基礎資料になるんだって。


「できる(いつできる、どこまでできる)、できないはともかく 言ってもらわないとわからないから、何でも言ってください。」という声に背中を押され
日頃の想いをぶつけて参りましたとさー。

それがこのシート ↓




ちなみに、うちの区の平成27~29年の障害者福祉計画がこれ → 総数86ページの巻物みたいなヤツ


いちばんの問題は、子どもが生まれてから生涯を通じてトータルに支援を考え面倒みてくれるところがない ってことなんだと思ってる。

最初は 子育て支援(これは障害有るなしに関わらず)で
療育手帳取って福祉サービス受ける辺りから 障害福祉管轄になって
で、学校に関しては 教育委員会。

この3つが連動・連携して機能してない。


最近でこそ、子育て支援の部分が多少充実してきて、障害を告知された後フォローが入って療育までにはつながるようになったらしいけど
私の時にはそれさえなくて、誰に・何を・どう聞いたらいいかもまったくわからず、途方に暮れたもんね。
絶望するしかなかった。

でも、いまでも公的療育は就学の時点で”あとは学校で”と言われて なくなってしまう。
学校の先生は 特別支援教育に携わる教師であっても、教育のプロかもしれないけど、福祉のこと知らないし
卒業後の子どもの生活がどんなものかもわかってない。

小学校なら6年間の、中学なら3年間の(進学という観点で高校くらいまでは何とか かもしれないけど)ことしか
まぁ責任もないからね。関心もないのかも。


子育て支援とか教育委員会とか そりゃ責任の範囲があって、役割分担は必要なのかもしれないけど
それは役所の都合であって
子どもの育ちという視点で考えたら、流れは1つなんだもん。関係ないのにね。

教育と福祉が連動してないから
就学相談で特別支援教育の流れに入れられても、療育手帳が取得できなくて支援が受けられずに
生きづらさを抱えたまま苦労する人はたくさんいる。

今回は 福祉に関するヒアリングだったから教育の話はあんまりプッシュしなかったけど
特別支援の名の下に、育ちに遅れや偏りのある子をどんどん普通級から分離していく施策は本当に有効なんだろうか?

一度分離されたら、違う流れの中に生きる存在と認識されて、二度と合流は叶わない。
学校はそうやって分離していくけど、卒業後に出ていく社会は 分離されていないし、されるべきものでもない。
なぜ、学校だけがそういう施策を取るのか...。



あと、本人支援は児童発達支援とか放課後等デイサービスとかで充実してきてるんだろうけど
家族支援 という視点での事業が不足していることは 先日の記事にも書いたとおり。
ペアレントメンターのことも改めて言っておいた。


そして、障害者理解という観点からの地域の関わりに関する取り組みがほとんどない。
(これも結局 学校の分離施策が大きいと思ってるけどね。)
相模原のあんな事件があって、今こそ 障害者理解とか共生という観点での提言なり施策が必要なはずなんだけどなー。


てなことを 熱く語って参った次第...。



86ページの巻物に書いてある障害福祉施策って、実はどれも区民である私達の身近な生活に直結している。
まずは関心を持つことが大切。でも、普段はやっぱり他人事感があるよね。


そしてやっぱり、声を上げるって大切なこと。
子どものために 少しでも現状を良くしたい と思うなら、声を上げて伝えていかないと。

でも、個人で声を上げても届きにくい。
やっぱりこういう団体であるからこそ、お役所がヒアリングして意見を吸い上げてくれるんだよね。

組織であることの意味は そこにあるんだろう。
親の会に入る意味がわからない っていう声はよく聞くけど、そこを理解してくれよ と思う。
大きい(人数が多い)組織の声は 役所も無視できないんだよ。

だから、手をつなぐ親の会とか、PWSの親の会とか 幽霊会員でもいいからとにかく入ってくれたらいいのになぁ と思う。
その会費で会が活動することで、あなたの子どもにも恩恵がもたらされる(かもしれない)のだから。



バンビが赤ちゃんの頃は ほんとに支援がなかった(少なかった というのが正確かな。あるにはあったけど届かなかった。)から
私はとてもハングリーだと思う。

誰に・何を・どう聞いたらいいかわからなかったら、誰にでも・どんなことでも聞きに行った。
我が子のために 少しでも何かないか、どうにかならないか。
そのうち どこにどうやって聞いたら何が得られるか わかるようになってきた。
人脈も増えて、口コミ情報も入るようになった。
自分の想いをどうやって伝えたらいいかもわかるようになった。

そうやって13年続けて、今の私がある。
私の経験値が上がって、スキルが高まった。そんなカンジ?(ゲームのキャラクターか!)


日本の福祉は申請主義だから、申請しに来た人にだけサービスを使わせてくれる。
使わないと それで足りてるとみなすから、量や時間やお金を増やしてはくれない。

今 子育て支援の段階が充実してきて、誰でもファーストステップでは支援とつながるようになった。
それ自体はとても喜ばしいことだと思う。
でも、次(福祉の段階)は自分でつかみにいかないと 誰も手を差し伸べてくれないっていう
そこの切り替えが かえってできにくくなってるのではないかという懸念もある。

特に就学してから以降は そういう情報がある人に、動いた人だけに サービスがもたらされる。
親に 情報と、体力的・精神的・時間的・経済的余裕があるかないかで 子どもを取り巻く環境の充実度に差がつく。

この辺も課題。



こういうことを どんどん伝えていかなくちゃ。
手を携えて、前に進んでいかなくちゃ。
そんな想いを新たにしたので、これからも頑張ろっと。 
まずは地元の仲間づくり。増やしていかないとね。
Go!Go! 私

メールはこちらまで → yakkoxhs@gmail.com

見えない壁 ~保護者同士の軋轢~

2016年09月08日 | 障害児の親
ひと言で障害児と言っても、知的には軽度の発達障害から重度、それも身体との重複障害のお子さんまでいろいろいて
その中でバンビは 特別支援学級に通うにはちょっと厳しく、支援学校では物足りないかもなぁ という
中度の子だと思ってるんだよね。。
だからこそ 軽度・重度どっちの状況も、あるいは保護者の気持ちも わかるところがあり、また わからないところがあって...。


それで これがまたね。
障害児の保護者同士にもお互いいろんな感情があるんだなぁ って思わされること多々あるんだよね。
(いやぁ、かなり言葉を選ぶなぁ...。)


PWSの親の会だと、症状というか状態に多少の重い軽いはあっても、所詮みんな同じ悩みどころを抱えているので
そう複雑ではないと思うんだけど(それでも時々軋みを感じることがあるのは事実)

これが地域の障害児の保護者の集まりとなると、それこそいろんな障害があっていろんな育ちがあるわけで
特に 軽度の子の親と重度の子の親の間に、あるいは 若い親と高齢の親の間に、埋めがたい深い溝があったりして...。


例えば、軽度の子(なりその保護者)が重度の子を見下す という話。
いや、ほんとに見下しているのか ただ受け取る方が見下されてると思ってるだけなのか
それも状況によると思うんだけど。

「大変ね。」っていう言葉とかね。

前にも書いたように、例えば重度の子を見て ”大変だな。うちはまだ軽い方なんだ。”って思うのは
人としてありがちな感情で、別に重度の子を貶めて見ているってばかりでもないと思うんだけど
ただ言われた方は やっぱり不快に感じるだろうね。

実際、健常・障害者に関わらず、相手を見下すことで自分の優位を保とうとする人 たくさんいるしなぁ。


そして、逆に 重度の子の保護者から聞くこんな言葉
「うちは将来、福祉の恩恵に預かれるけど、軽度の人は後で苦労するんだから 今に見てろと思って笑ってるわ。」

確かにそういうことあるんだろうし、言いたくなる気持ちはよくわかるけど、でも私は笑えないよ。
同じ障害児の保護者同士でそういうのって なんか悲しいなぁ...。

それとか 職業学科のある特別支援学校の高校のことを
(普通の知的障害児ならほぼ誰でも入れる高校と違って、試験に合格しないと入れない。一般就労を目指すハイレベルの高校。)
「○○(学校名)様」とあえて様付けで呼んで揶揄したり とかね。

そういうのを耳にすると、なんかいや~な気持ちになるんだよね。


わかるんだよ、私も。
そういう一見どこに障害があるんだかわからないような子達と、バンビは毎日を一緒に過ごして、彼なりに苦労してるし。

”障害児の中のエリート”の子達を前に、「どうせ、うちの子は障害重いですよ。」って、言いたくなることがないわけじゃあない。
(この「どうせ」って言い方、すごい卑屈なカンジで嫌いだけど。)


でも、彼らには彼らの それなりの苦労があって
みんな 生きにくいものを抱えて生きているし、親も育てにくさを感じながら育ててきてるわけでしょ。
そこは同じはずなんだけどねー。

だから、同じ障害児の親同士で そんな風に言い合ってても何になるんだろう? って思ったりするんだけど
きっと”同じなんかじゃない”って、どちらからも言われちゃうのかなぁ?

うーん、ほんと難しいよ。



それとか 先輩ママさんに言われるのが
「あなた達はいいわね。福祉も教育も医療もこんなに充実してて。私達の頃はほんとに苦労したわ。」って...。

これもすごーくよくわかるし、私もついつい今の若いお母さん達を見て言いそうになってしまうのを自戒してるけど。(言っちゃってるか?)
でも、これ言われてもどうしようもないし、イヤな気持ちになるだけだよね。
まぁ、そこはもう大人なんで 「ほんとに大変でしたでしょうねー。」って受け流すこともできなくはないけども。

特に高齢の親御さん達は、若い親達がアクティブに活動しているのを見ると何だかもやもやとした気持ちになって
活動から離れていく人も出てくるから そこは注意して と
私も あちこちから釘を刺されてはいるんだけど...。


うーん、これまた悩みの種。
いや、わかるんだけど、わかるんだけど、それ言われてもつらいわ...。


障害者同士で 自分(とその仲間)以外の人を理解しようとせず、多様性が認められないとしたら
なんで 健常者に自分達を理解したり、認めてもらおうと思えるのかな?
そんなの余計難しいじゃない。共生社会なんて遠い夢・幻の話だよね。


でも、これが頭で理解できていても、感情はまた別 ってとこもあってね。

だから ”みんなのために!”と思って走り出しても、ふと振り返ったら後ろに誰もいなかったり
ヘタしたら 後ろから刺されたり(って刃物でじゃないけど)しかねない。

こういうのって、なかなか一筋縄でもいかないし、一朝一夕にできるもんじゃないし。
いや、ほんと。いろいろ人生の勉強させてもらえる課題で。


それでも、目の前に立ちふさがる壁を 1つひとつ打ち壊して前に進むしかないんだよね。
頑張れ、私! Go!

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差別とか分断とかの話

2016年09月08日 | 障害児の親
今年の24時間テレビは Eテレが「バリバラ」をぶつけてきたので
”感動ポルノ”論争で ネットでもずいぶん盛り上がっていたようだけど...。

24時間テレビを見て、一般の人が
”障害があるって大変なことで、それに比べたら自分達は幸せだ。”っていう感想を持つことに
障害者の家族が ”それは障害者に対する差別だ!”と憤慨している声もあった。

でも、私もそう思ってたんだよ。
自分が障害者の親になるまでは。

そこに差別の意識があったかと言えば... うーん、差別とまではいかなかったんじゃないかと思うけどなぁ。
ただ、その時点では 障害者は自分とは違う世界の人 という意識はあったかもしれない。

今なら 人は誰でも障害者になる可能性があって、健常者と障害者は別に異なる世界に住んでるわけじゃない
ってこと わかってるけどね。


だから、健常者が障害者についてコメントした時に
例えそれが自分には気に入らない言い方だったとしても、すぐ”差別だ!”って糾弾するのは
控えた方が賢明なんじゃないかと思ってる。

そう言われてしまうと 言われた方は口をつぐむしかなくて、もう何も言えなくなる。
そして、触らぬ神に祟りなし じゃないけど、もう関わるのをやめようと思うだろう。
関心を持たなくなり、あたかもそこに存在しないかのように無視を決め込むようになるだろう。

差別もイヤだけど、それより無関心の方がもっと障害者を生きずらくしている元凶のような気が
私にはするんだけどな...。


ちょっと前(9月4日)だけど、朝日新聞のMOM'S STANDという子育て世代向けのコラムに
「障害のある2人を育てて『特別な場所で克服させるより』」という記事が載っていた。
朝日新聞デジタル

大手新聞にこういう記事が載るようになったんだなぁ と思うと感慨深いけど。

で、その中に
(就学で)「いったん分離されると『合流』は本当に困難。
大人が時折設ける『交流』では、友達になるどころか、関われない存在だと再確認させる面もある。」とあって

私が普段もやってるのも、まさにそこのところだよなー と大いにうなずいてしまった。


幼稚園や保育園までは一緒に過ごしていたのに、就学時に特別支援教育の名のもとに分離されると
待っているのは お情けみたいな「交流」のみで(もちろん環境によって違うかもしれないけど)
そこで 奇声あげたり、ふらふらしてようものなら 
「あの子なんかヘン。なんかヤだ。」って気持ちを抱かせるだけに終わる。
「もしくは 今日障害の子と一緒に給食食べるから、優しくしてあげなくちゃいけないんだよね。」みたいな?
それ どっちもダメじゃん って思うけど...。

そうかと言って、無闇な(適切な支援なき)インクルージョンも同じこと。
ただ一緒にすればいいというわけじゃない。そういうのはお互いに不利益をもたらしかねない。


でも、一緒にいられるところは一緒にいて
世の中にはいろんな人がいること、みんなそれぞれに家族がいて同じ地域で暮らしていること
この子達は何が苦手で、でもどうしてあげたらできるようになるか
そんなようなことを 生活の中で感じて、学んでくれたらいいな と思う。
多様な人の存在を認められるということは、すなわち自分もまた認められるということなんだと。

お互いを認め合う。
差別だとただ糾弾するんじゃなくて、そういう感情を持つのも今はやむないことだと受けとめる。
真に差別を解消するには まずそこら辺からじゃないかと思う。


何度も書いてるけど、バンビが通ってるミニバスケのクラブは健常児と障害児が一緒に活動していて
重度の子が立ちすくんで動かなくなっても、ふらふらとどこかに行っても、奇声をあげても
健常児が何気なくそばにいって声をかけたり、手をつないで誘導したり
そういうことを当たり前のようにやっている。

身体の大きい子が急に手を打ったり、足をバンとやって大きな音を鳴らしたりしても、誰も驚きも怖がりもしない。
怖くないことを知っているから。
ここのOBの子はたまにボランティアで来ても、障害児に対して分け隔てなく接していると思う。

やっぱり学齢期がいちばん大事なんだよね。
せめて小学校のうちは大きく分離せずに どの子も共に育ちゆく環境が整えば
この世の中は随分と変わるような気がするんだけど、どうだろうか。

メールはこちらまで → yakkoxhs@gmail.com

hand in hand(手を携えて) 家族支援のこと

2016年09月07日 | 障害児の親
最近は地元の育成会(手をつなぐ親の会)の活動でちょっと忙しいのだけど
それを通じて 自分がほんとにやりたいことが段々明確になりつつある。

私がずっとやりたいと思ってきたことは「家族支援」だったんだよね。
竹の子の会(PWSの親の会)の活動もそうだし、このブログも一部そこにつながっているんだと思うんだけど。


13年前、バンビに障害があると宣告された時、担当のDr.は 一応親の会のことは教えてくれたけど
福祉への橋渡しはなかった。

本来は、乳幼児健診で保健師さんがそれをやってくれるものなんだろうけど
2年で2回引っ越ししたりしたせいなのか(区内だけどね) フォローがないまま
「療育」という言葉をどこかで聞いて、自分から区役所に電話したのが確か10ヶ月の時。

その療育までにつながる10ヶ月は、私にとってはほんとーに暗黒の日々で
あの時のつらさは一生忘れないし、今でも思い出すと泣けるくらいで。
だから 他の、後からこの道を歩いてくるお母さんに あんな想いをしてほしくないと思っている。


もっとも、今は私が住んでいる区も 子ども総合センターというのができて
育ちが気になる時の相談窓口が 未就学児に対しては整備されているようだけど。

でも、それも就学したらフォローの対象にならない。
特に発達障害児なんかは小学校に入ってから診断がつく子もたくさんいるのに
学校以外に支援の場がないに等しい。

学校の先生は教育のプロではあるだろうけど、子どもの育ちをその子の人生トータルで見て考えたりは
なかなかしてくれない(できない)ものなんだよね。

放課後デイサービスは たくさんできて、事業所によって内容もいろいろ。
療育的なことをやってるところもあるけど、どちらかと言うと預かり保育的なカンジだよね。
少なくとも私の経験上(これまでに4社程お付き合いあるけど)
相談ができる(知識やスキルのある)支援員さんに まだお目にかかったことがない。

相談支援事業は立ち上がったけど、それも支援員の数が足りないらしくまだまだこれからのカンジ。


区役所に相談に行こうと思っても、まず最初に「ご用件は?」って聞かれると
それだけで 心折れる気がするんだよね。
そりゃ、役所なんて用があるから行くところだろうし、無理もないんだけど
なんか 何を誰にどう聞いたらいいかわからないんだけど、今困っていてこの困り感を誰かに聞いてもらいたい ってあるじゃない?
それとか ちょっと小耳にはさんだ福祉サービスで正式名称はわからないんだけど、どこに聞いたらいいんだか って時とか。
そういう時に気軽に行けるところがない。


障害児本人への支援はもちろん必要だけど、そういう子どもを抱えている家族への支援もすごく大切だと思うのに それがないんだよね。



で、ピアサポートとかピアカウンセリングが大事だよな と思ってきたわけ。(「ピア」=仲間)
同じ障害児の親として 対等な立場で話を聞き合い、共感し合い、仲間同士で支え合う。
プラダーウィリーにとって竹の子の会はまさにそれ なんだと思う。


あとは地域にも そういう親の会の活動ってやっぱり必要で(地域特性とか、あと福祉事業って自治体ごとの運営とかあるので)
もちろんうちの区にもあるにはあるんだけど 高齢化に伴い会員数が減少っていう
いまどき どこの親の会にも見られるような状況に陥っていて...。

これじゃあいかん。何とかしないと と悶々としているうちに、まず 志を同じくする仲間に出会い
2人でいろいろ話していくうちに やっぱり家族支援が大事だよね ってところに行きついたカンジ。
で、何もないなら 自分達でやろう ←今ここ


隣りの足立区では ペアレントメンター制度が事業として今月立ち上がったらしい。都内では初めて。
詳しくは 私が描いているうちの区の育成会のブログをご参照 →葛飾区手をつなぐ親の会(教育部会)ブログ
こういうのってほんと地域によって温度差があるんだよね。

足立区の場合は 区議会議員さんがかなり動いたようだけど、それでも数年かかってる。
うちの区はどうなることやら...
って、嘆いてもしょうがいない。
役所に必要性をアピールして、自分達でできることはやってかないと。


最初に何もなかっただけ、私達はハングリーなんだと思う。
この世界(障害者福祉)は申請主義で、自分から動いてつながらないと向こうからは誰も手を差し伸べてくれたりしない って
最初に思い知らされたから。

逆に最初から支援があると ずっとそのままいけると思いがちだけど、まだまだそんなに揃っちゃいないのよ。
自分で動かないと、この世界は変わらない。

仲間で手をつないで、手を携えて、私達は力を合わせて前に進んでいかないとね。
我が子のため だけじゃない、みんなのために。それがいつか我が子のためになるから。
子ども達のため、家族のため やれるところからやってこっと。

メールはこちらまで → yakkoxhs@gmail.com

年齢相応

2015年10月02日 | 障害児の親
例えば

自分よりはるかに背の高い高校生の息子と手をつないで歩くお母さん。

電車内で隣に座る十代半ばの娘を自分の膝枕で寝させるお父さん。

普通なら たぶんそんなことしないだろう。
でも、子供が障害児ならば... 
彼らにとってはきっとそれが日常であり、特別珍しいことでもないんだろう。


本来 子どもは思春期になると
”おふくろなんかと 並んで歩けるか。”とか”お父さん、臭いからイヤ。”とか言い出す。
親としては大いにショックだけど、でもそれは生物学的には 親離れへの道を順調に歩んでいる証なんだとか。

でも、障害児は成長の加減からなのか、自分からそういうことを言い出さなかったりする。
見た目より中身が幼いんだよね。
親は いつまでも子どもがかわいいから、いつまでもベタベタとそばに寄り添う。

そうやって端から見たら不自然な光景ができあがる。

そりゃ安全確保のため常に手をつないでおく必要がある人もいるだろうけど
私が知ってるその子達は少なくともそういう状況ではないはず。



”障害のある子に対し年齢相応に接していない親が多い。”
というのは私だけの意見ではなく、以前読んだ本にも書いてあった。

いつまでも小さい子扱いされる大人に近い子ども達。
親が自立を阻むようなことになってはダメなんじゃないかな。

それにそういう習慣は親以外の人にも同じようにする可能性があって
それが対人トラブルや性的被害につながる恐れも...。


バンビも私と連れ立って歩いている時なんかは よく手をつないでくるけど
余程彼が不安がっている時とか、車の通りが多く安全確保が必要な時等以外は
できるだけつながないようにしている。
「もう6年生でしょ?」と言えば済む話。

年齢相応の扱いをすること。
自立のために親がすべき大事なステップだと思うんだけどな。

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