バンビ・わーるど

プラダー・ウィリー症候群の息子「バンビ」を愛し、その成長を見守る母・suzuのつれづれ日記(&ときどき猫だより)

還暦を迎えて

2024年02月16日 | 日々の出来事
 私は37歳で結婚。超晩婚で
39歳でバンビを出産した。超高齢出産~

つまりバンビが成人したということは、私は還暦を迎えたわけです。

還暦って 昔なら子や孫に囲まれ赤いちゃんちゃんこ着てお祝いされるイメージ?
まぁ、実際 友人には孫がいる人も何人もいるしね。

でも、先日 義姉夫婦と話していて
「自分達が若い頃は60代って
 もっとおじいちゃん・おばあちゃんだと思っていたけど
 いざ自分がなってみると 中身(心)はそんなに変わりがなくて
 ただ身体だけが少しずつ衰え 若い頃と同じようにはできなくなってきた」
という話になって

あぁ、みんなそうなんだな となんだか納得してしまった。

年齢を重ねるだけ経験値が上がり それによって分別もつくことが多くなっても
精神的には”老成”とは ほど遠く
心はいつまでも なんだか未熟なまま。

ただ、身体の方は 寄る年波には逆らえず
足腰が痛んだり、老眼になったり、なかなか疲れが抜けなかったり と
衰えを感じることも多くなるんだよね。

まぁ、人生100年時代といわれる現代においては
60歳なんてまだまだこれからなんだろうけど
「健康寿命」という言葉があるように
ただ長生きすればいいってもんでもないし
今のこの生活を維持しつつ老いていく っていうのはなかなか難しい。

私の父は 知識欲が強いというか 向学心が高いというか
私はそこをとても尊敬していたのだけど
それでも 母が亡くなってからは 
もう自宅に毎日来ていたヘルパーさんも来なくなり
外に出るのは 日々の買い物と通院くらい という生活になると
まず 人としゃべる という機会がとても減ってしまったみたいで...

晩年 私は最低月1回は会いに行くようにしていたけど
(今になってみれば もっと話す機会を増やしてあげられれば と
 後悔の気持ちも強いけど)
同じことを繰り返し話すことが 増えたし
弟によるとコンロに火を付けて忘れていたりも何度かあったりしたらしい。

”ピンピンコロリ”じゃないけど
ずっと元気にシニアライフを過ごして
その日が来たら周りに迷惑かけることなくお別れする って
よっぽど意識していかないと(意識していたとしても)難しいよね…


などと なんとなく老後とかお別れの時のこととかを意識するようになる
還暦の私です。

女の50代・60代と言えば 
子育てについては もうそろそろ卒業だけど
ただ そこに親の介護とか、自分自身の体調とかが加わってくるので
なかなか ハードモードよね。

うちは オットも私も二親亡くして 介護はもうないのだけど
バンビみたいに障害のある子の子育てには ある意味終わりがないからなー。

子どもが成人しても その生活を維持するのは親がかり。
自分で考えたり、自分で準備したりするのは難しいもんね…

まぁ、子どもが健常であっても 
例えば就職とか結婚とか独立とかの課題はあるわけで
”息子がいい年して結婚の気配もない” みたいなことで悩んでいる知人もいたりする。

何に悩むかは人それぞれ なんだよなぁ…

20年前、バンビに障害があるってわかって どん底に落ちていた私に
かけてもらった友人知人の言葉で いちばん心に響いたのは
「一生、病気に無縁の人は たぶんいないよ」っていうのだったな。

健常で生まれ育っても 人間いつどんな病気やケガするかなんてわからないのよね。

最近ショックを受けたのが
昔の先輩で 若かりし頃よく飲んだり、一緒にスキーを楽しんでいた仲間が
60代前半でがんになって お酒禁止等制限の多い生活をしていること。

海外生活をしていたり すごく華やかだったから
ちょっとうらやましく思うところもあったけど
そんな人が… と思ったら なんかつらい。 
(まぁ、私自身もがんサバイバーだけど)

自分と他人と比較してうらやんだりするのは ほんと意味ないなと
改めて思ってしまった。

ぴあカフェとかで子育ての話をする時 よく言うんだけど
横軸(周り)と比べず、縦軸(時間軸)で比べる方がいいんだよね。

周りの子と比べたら、わが子にはできないことばかり と思ってつらくなるけど
1年前のわが子、5年前のわが子と比べたら…?
その子なりの成長が きっとあるはず。

私なんて バンビが私のことを「ママ」って呼べるか
この子と手をつないで歩ける日がくるか って
そんなことを思って 泣いていたんだもん。

そこから考えたら今の生活は嘘みたいにありがたい、ほんと御の字だよね。

だから、これからの人生 自分は自分。他人と比べない。
バンビや私に関わってくれる人、支えてくれる人に 日々感謝。

バンビのこと、親なきあとのことについては まだまだ課題山盛りなれど
身体を労わり、心を豊かに、生活にも潤いを持ちながら
自分の残りの人生を 楽しんで生活していきたい。

というわけで、皆さん 今後もどうぞよろしくお願いします。

by suzu 
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二十歳を祝う③

2024年01月29日 | 日々の出来事
最後のお祝いは 卒業した高等部の同窓生の会。
これは 家族も参加のお祝いの会。

卒対委員を担ってくれたママさん達を中心に企画運営をしてくれて
先生方も 当時の校長・副校長を初め
事情があって欠席の数名を除いてほとんどの先生が列席
総勢80名以上の 大規模な集いとなりました。

子ども達もクラスごとに舞台に上がり
一人ひとり 今どうしている(どこに勤めている・通っている)とか
今後の抱負等をその子なりの言葉で語る時間があり
バンビも 春からは就労支援に切り替わるので頑張りたい と
ちゃんとスピーチしていた。
 いちばん右がバンビです。

この2年でみんな その子なりに成長していたなー。
この高等部は就業技術課ではなく普通科だけど
企業就労して頑張っている子もいるし
卒業時は企業に就労したはずだけど
今は作業所だったり就労移行に通っていたりする子もいた。
なかなか働き続けるって難しいんだよね。
でも、みんなそれぞれ自分の居場所を見つけて 日々を一生懸命生きている。

バンビの1年生の時の担任の先生が
当時 バンビが作って先生に贈ったカードを わざわざ持ってきてくださって
(電車のシールがいっぱい貼ってあった w)
「今も大切にしているんですよ。」と見せてくれたのには
うるうる来てしまったよ。

思えば コロナ禍で体育祭ができない とか、修学旅行に行けない とか
いろいろ制限されることも多かった3年間だったけど
そんな中で 先生方は知恵を絞り、子ども達が落ち着いて過ごせるよう
楽しい高校生生活を過ごせるよう 心配りをしてくださっていたなぁ と
改めて感謝の気持ちでいっぱいになった。

アルコールこそなかったけれど みんなで食事をし、歓談し、写真を撮って
楽しい時間を過ごした。
先生方の楽しいスピーチがあり、みんなで校歌を歌って お開きに。


いやーほんと、良い集まりだったね。
子ども達も成長したし、私達親も ほんと頑張ってきたね。お疲れ様~。
そんな気持ちになった。
もちろん まだまだ手が離せるわけでもないんだけど
でも 一つの区切りとしてこういう会があるのは とてもありがたかったな。

この子達の未来に幸多からんことを祈ってー。
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二十歳を祝う②

2024年01月21日 | 日々の出来事
実は 自治体の成人式の他に
バンビが現在通所しているカレッジでのと
高等部の卒業生のお祝いの会があって 全部で3回。
これが奇跡的にどれも被らずに 3週に渡って執り行われることになったのでした。

昔 出席することになるのかなーと思っていた親の会のお祝いは平日なので
バンビがカレッジを休みたがらず そちらには不参加。

でもまぁ 障害のある子も 
ちゃんと大人になったことを祝ってもらえる場があるというのは
とてもありがたいことだよね。


さて、カレッジの「成人を祝う会」
これは 保護者も同席可能。

事前に提出した生い立ちの写真を スライドショーにして
順番に流して見せてくれる企画。

それぞれに赤ちゃんの頃からこれまでの20年間が偲ばれ
思わず涙する保護者多数。
(うちは誕生日順なのか1番最初だったから びっくりして
 心の準備ができてなかったー)

そして、親子でメッセージ交換=事前に書いた手紙の朗読
これも 子どもも泣きながら読んだり、親がまた泣いたり...

どの子にも いろんな生きづらさや苦手なことや困難があり
それでも必死に頑張って生きてきて
親は誰もが苦悩し、葛藤しながら わが子を慈しんで育ててきたことが感じられて
障害があるとかないとか関係なく、親が子を育てることの意義とか重さとか
人が生きることの ひたむきな想いとか
うまく言えないけど ほんと感慨深いものがあったなー。 

そして 手紙の交換は何故かうちがいちばん最後で
バンビは最初の方から感極まって泣いているのがわかったけど
もう この時点ではグズグズで
マイクを前にして 「読めない、無理...」と言っているような状態。

しょうがないから 手紙だけ受け取って
私は もう何か月も前に書いた自分の手紙を読んで
(こんなことならもちょっと違うこと書いたのにー と思いながら)
とりあえず この感動の親子のメッセージタイムは無事終了。
やれやれ~。

午後は 他の在校生も一緒に お祝いメッセージの動画見たり
イントロ宛クイズとか お楽しみ企画で楽しい1日を過ごしました。

いろいろな企画と準備をしてくださったカレッジの教職員の皆さんに
感謝の気持ちでいっぱいです。


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二十歳を祝う①

2024年01月21日 | 日々の出来事
新しい年になりました。
遅ればせながら 今年もどうぞよろしくお願いします。

例によって すごーく久しぶりのアップですが…
とにかく日々忙しくて…
何に忙しかったかと言えば、主に ”二十歳のお祝い” 関係。

バンビは 4月生まれで、今年度20歳になる学年なんですよね。

学齢期の頃は この子は将来成人式ってどうするんだろう? って思っていて
地元の手をつなぐ親の会主催のお祝いの会に出るのかなぁ と
漠然と考えていたけど…

そうしているうちに成人が法的には20歳から18歳に引き下げられて
ますますややこしいことになり
”成人式どうなるんだろう?”問題で もやもやしていたのだけど
結局はほとんどのところで”20歳になったお祝いをする”に落ち着いたみたい。
バンビにも昨年、区からはがきで「はたちのつどい」の案内が届いた。

でも、私はその時 健常児に付き合いのある知り合いがいるわけでもなく
行って”ぼっち”になるならやめといた方がいいのでは… と実は思っていた。

バンビは会場までは一人で行けるだろうけど
受付とかは心もとないところあるし
私がどこまで付き添うのか… と考えたら、ちょっと気が重かったのもある。

その辺りを先輩ママに聞いたら
事前に申請すれば付き添いの席も用意してくれるけど
席は固定で 後ろの方で待機とかはできなかった という話だった。

うーん、そのお子さんは常時付き添いがあった方が良さそうな様子だけど
バンビはどうなんだろう…?

そもそも本人は行きたがるのだろうか?

これは本人の問題だから、私が勝手に判断するわけにもいかない。


で、聞いてみたんだけど…

「行く。」と即答。

「え? でも知り合いとかいないかもしれないし、いいの?」

そしたら「行って何をするの?」って…
それわかってないのに 即答なのかー w

ちなみに、こういう辺り バンビには鈍感力とも言うべきものがあって
割と物怖せずに 行動できるのが、私やオットにはないバンビの良いところなんだけどね。

で、お祝いの挨拶があって、音楽の演奏とかがあって… と一応流れを説明。
でもやっぱり本人は「行く」と言うので
区役所の担当部署に連絡して
”必要なさそうなら退席したいから、付き添い席後ろの方にできませんか?”
と聞いたら 意外にもあっさりOK だった。

言ってみるものだね…
って言うか、要望はきちんと伝えて改善してもらうべきなんだな と
改めて思った。
別に無茶な要求をしているわけじゃないし
ハンデのある人がどうしてもらえたら助かるかを伝えなければ
相手はわからないわけだから。


さて、当日。
スーツを着込んだバンビを連れて 会場に到着したのが10数分前。
(危なかった、10分前過ぎると メイン会場に入れず
 サブ会場でリモート画面を見ることになるんだって知らなかったー)

受付で障害者であることを伝えると
人でごったがえしている通路とは別の動線で
メイン会場の中央の端っこに設けられた障害者席に案内された。

既に同級生の親子連れが何人か座っていて、振袖の女子もいた。
やっぱり女の子は華やかでいいね。

で、挨拶もそこそこに 私はやっぱり退席することにして
終わったら待ち合わせしようと バンビを置いて一度会場を後にし
近所でお茶して待っていた。

これが甘かった。
混雑を避けるために、入口と出口が別に設けられていたことを知らなかった。
出口側は普段あんまり行かないところだから
バンビが迷ってしまったんだよね。

最初はスマホ持ってるから何とかなるだろうと思ったんだけど
終わったら会場近辺が若者でごった返して
バンビがプチパニックで 通話してもこちらの言葉が耳に入らず
誘導ができない。

仕方ないからGPSで居場所を追いかけるんだけど
人が多くてお互い思うように移動もできないし
これはなかなか大変だったー。リサーチと事前の打ち合わせ不足だったな。

まぁ、そんなこんなで何とかつかまえて とりあえず記念撮影。
男子はスーツなので見栄えしないけど…
会場に設けられていた 撮影用スペースで

いやー、この日は風が強くて冷たくて なかなかバタバタで大変だったけど
本人は 「行って良かった。同じ高校の子もいたし。音楽に感動したー。」
と満足そうだったので 良かった。

考えてみたら、定型の子でも そんなに友達付き合いがなくて
ぼっちっぽいカンジの人は 何人もいたし
親の私が ”この子は障害児だから楽しめないだろう”って決めつけてただけで
ほんと、私の一存で 行かせるのをやめないで良かった。


で、これが1回目のお祝いで 実は3週に渡ってこれが続くのだけど
長くなるので また別の記事にー。

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糖質制限ダイエット その後

2023年11月22日 | 日々の出来事
 またまた久しぶりの記事になってしまった…

前回書いたわが家の糖質制限生活
2ケ月ぶりの定期健診では なんと3kg減! で

痩せると同時に血糖値も下がり、HbA1c が6.1に。
肝臓の数値も まだ高いものの、それでも服薬しなければならない域は脱出。

Dr.に「頑張ったね」と褒めてもらい、バンビもとても嬉しそうだった。

たかが3kgでも バンビにとって痩せるというのはなかなか大変なこと。

でも さすがに糖尿病で 目が見えなくなったり、足を切らなきゃいけない
というのは避けたい気持ちが強いらしく
こっそり飲んでいたジュースは 買わなくなった様子。

前回書いたとおり
ご飯やパンなどの主食を 低糖質なものに替えたのと
おやつを おつまみ的なものに替えて甘いものを控えたくらいで
食べる量自体は そんなに変わらず。
なので 大きな苦労もなくダイエットできたと思う。

ー3kgでも おなか周りのシルエットは変わり
狸腹が少しだけすっきりしたりして
そういう目に見える変化は 意欲へとつながっていくものだよね。

ただ、どんなダイエットでもそうだと思うけど
食生活変えてすぐは 痩せるけど
次に停滞期が来てしまう。
バンビも私も この数週間は足踏み状態...

ここをどう抜け出すかが大事なんだろうな。
できれば あと5kg 体重を落としたい。

これからの年末年始はいろいろ食べる機会も増えるので
気を引き締めていかないとね。
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糖質制限生活 始まる

2023年10月07日 | 日々の出来事
 この夏、実はわが家にはもう1つ大きな出来事があった。

うちは私の父方がどうも糖尿病家系で父も服薬治療はしていた。

非常に性格が真面目で几帳面な人なので
毎食自分で糖質量を計算して、きっちり糖質を制限する生活をしていたので
見た目ちょっと心配になるほど痩せていたんだよね。

それでもHbA1cの値は6を超えていたから、本当にこれはもう体質そのもの。

で、実は私も予備軍で 血糖値は常に黄色信号。
それでも 特に何もしていなかった。

ところが バンビもその体質を受け継いでしまい
これまでも 気を付けてとは言われていたけど
今年の夏の定期健診で 数値が上がっていて
ついに「本当に何とかしないとヤバいよ」と言われる始末。

心理のDr.にも
「PWSにとって甘いものは毒と同じなんです。命に関わりますよ。」と言われ
いままでの私の意識が甘かった と痛感するに至った。


これまでこのブログに書いてきたとおり
私は 食べることを規制することはできるだけしたくない と思ってきた。

PWSという障害を抱えて生きるバンビは
思うようにならないことが とてもたくさんある。

そりゃ、誰だって思うことすべてが叶うような人はいないだろうけど
障害者ってやっぱり人よりできないこと・制限されることが多くて
そのストレスたるや 半端ないものだと思うんだよね。

だから 食べない・食べさせないんじゃなくて
 ”食べても運動して太らないように気を付ける” 方針でやってきた。
(もちろん、家庭での食事はそれなりに気をつけていたつもりだけど)


でも...
学齢期が過ぎ、環境が変わって まず運動量が減った。
行動範囲が広がり、一人でお金を使う自由を得て 食べ物を手にする機会が増えた。
思春期のモヤモヤとか 対人関係のストレスの発散が 食に向かった。

そういういろいろなことが絡み合って
私の管理してないところでの飲食が バンビの身体を変えてきたんだよね。
背も伸びたけど、確実に身体が大きくなった。

バンビに注意し、制限をかければかけるほど 心が荒れ
それが食へと向かうと言う悪循環...

この1年半は 本当に危うい、戦いの日々だった。
いくら言っても 本人に響かない というよりかは
わかっていて食べたいという欲求が勝ってしまうつらさ...

でも 糖尿病は本当に怖い病気で
目が見えなくなったり、足を切らなくちゃいけなくなったり
命に係わる病気なんだということを
私からだけでなく、お医者さんからも言ってもらって
さらに 私の父の姿も見ているわけで
さすがに今回は バンビの意識にもちゃんと刷り込まれたのかな とは思う。

バンビは 肥満度で言えば軽度な方でも 糖尿病に片足突っ込んでいて
そうかと思うと バンビよりもっと重篤な肥満の方でも糖尿病は大丈夫
って人もいたりして
Dr.も 難しいんだよね~ と言っていたけど
PWSって 本当に不思議な病気だよね。


まぁ、それはともかく 私もやっと目が覚めたカンジで
とにかく血糖値を下げ、体重を落とさねばならないと
食事の改善を始めたところ。

ダイエットと言ってもいろいろな方法があるけど
糖尿病対策は とにかく 炭水化物と甘いものの量を減らすか
ローカーボのものに置き換える。
食べないんじゃなくて、食べるものを変える。

朝のパンやヨーグルトは低糖質のものに。
昼はバンビは注文弁当だけど、たまにこっそり飲んでいた甘いものは厳禁。
おやつも クッキーとかはたまににしてさらに低糖質のものを
あとは うずらの玉子とかカルパスとかアーモンドフィッシュとか
おつまみ系の甘くないものにする。
夜はご飯は前からマンナンライスを使ってたけど、割合を増やし
2日に1回はオートミールごはん。
果物の量も減らす。

休日の家でのお昼は チャーハンとかパスタが多かったけど
これも おかず主体か、低糖質パスタなどに替える。

おなかの脂肪を減らすという中鎖脂肪酸のMCTオイルをかけたり
ありとあらゆることを取り入れて
私もバンビも1ケ月で2kgほど体重が落ちた。

まぁ、2kgなんて 誤差の範疇みたいなもんだけど
それでも増えるよりはいいし
やせたね、頑張ってるね と褒められれば、本人も気分が良いだろう。
体重より とにかく血糖値を下げたいので 今度の検診に大いに期待したい。


そんなカンジで 今のところ
バンビは 食べる量自体はそんなに変わらないので 特に不満もなく
自分でも意識して、普通のヨーグルトと低糖質のヨーグルトがあったら
「僕はこっちだよね?」 と低糖質の方を手にしたりしているし で
順調と言えるんだけど…

低糖質製品は割高なので コストがかかるのが難点かなぁ。

あと、例えば 将来うちを出て生活するようになったら
こういう対応を誰かがしてくれるか? 問題があるわけで…

まぁ、食事はともかく 例えば将来おやつとか自分で買って口にするものを
とりあえず低糖質なもので済ませられるように
買い物の時に 教えていったりしていかないとなぁ とは思っているところ。

長期戦略ですな。頑張れ、バンビ! 頑張れ自分!
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父との別れ

2023年10月07日 | 日々の出来事
これは 私のための記録...


8月の初旬の金曜日の夜
千葉に住む父から「喉が痛くて、熱もある」と電話があり
翌土曜日 すぐ最寄りの発熱外来に同行することにした。

最寄りと言っても、発熱外来は どこも歩いて30分近くかかる。
実家には車がなく、その日オットはたまたま用があって出ており
かと言ってタクシーは 発熱があると乗車を拒否される。

私も 実家を離れて20年以上、地理にも地域の情報にも疎い。
その時はあまり頭が回らず
やむなく炎天下 父を連れて歩いて病院に行った。

その病院の発熱外来は、プレハブに隔離され診察はスマホを介して。
喉が痛いと強く訴えても、診てもらうこともできず
しかもコロナのPCR検査の結果は月曜日にならないと出ないと言う…

薬だけ出してもらい
用事が済んだオットに来てもらって 一旦実家に帰る。
でも 父は炎天下歩いたこともあってか、本当に具合が悪そうで 
この暑いのに水を飲むのも喉が痛くてできない と訴える。
当然 薬も飲めない。

心配になって 夕方救急外来に連れていく。
ちゃんと喉を見て、採血やレントゲンも撮ったりしてもらったら
炎症反応は高いが緊急性はなさそう ということで入院せず帰宅。

私も一度家に帰ったのだが
翌日お昼に 父と同居している弟から 
「お父さんが倒れた。救急車で昨日の病院(2件目)に向かっている。」

もう何がなんだか...

喉に膿が溜まっていて それが呼吸や嚥下を阻害しているため
取り除く手術をするが 執刀医の到着まで時間がかかるとー。

待つだけ待って、手術室に運ばれた頃には
もう手術できる状態ではない と言う…

そうして月曜未明に 父は亡くなった。

結局、新型コロナでは陰性だったけど 何らかの細菌感染による敗血症で
多臓器不全に陥ったということだったけど
最初に父から電話があってから 実質2日ちょっとしか経ってない…


信じられなかった…
だって 先週旅行のお土産渡して、いろいろ話したばかり。
土曜に別れた時には まさかこんなことになるとは夢にも思ってなかった。

そりゃ、もうすぐ90歳だったから いつお迎えが来てもおかしくはないけど
せめてお母さんの7回忌までは頑張ってよね と
話したばっかりだよね、お父さん...

どうして、こんなことに...
まったく気持ちが追いつかないけど、でも時間はどんどん過ぎていく。

葬儀をしなければならなくて
あれこれ決めることがあって、親戚に連絡をして
母の時は父が取り仕切ってくれていたけど
それを今度は子どもの自分たちがしないとならない。
家族からはみ出し、実家に半引きこもり状態の弟と 役割分担しながら...

弟に 不満や恨みの感情も湧いてくるし
自分自身にも もっとこうできたのでは、ああすれば良かったのでは と
後悔の念もたくさん。

不仲の弟と感情が爆発してお互いに罵り合いをしたこともあった。
それでも 平日家にいる弟が喪主として事務的なことも進めてくれて
助かったことも多かった。

実家に行っても もう父の姿はなく
その現実を受け入れることができず 苦しかった。
それに今年の夏は とにかく暑くて、暑くて
何をするにも 心も身体も悲鳴をあげそうな状況。

つらかった、苦しかった、何より 悲しかった…

父の死後ずっと続いていた目まいも
不思議なことに四十九日法要が無事に済んだところで治まったから
相当 堪えていたんだろうな…

父は 私の中で人としての理想、 ”人としてこうあるべき人”だったから。
真面目で、知的で穏やかで、知的好奇心というか意識の高い人だった。
母の時よりも 父を失ったことの喪失感は大きい。


でも、葬儀の時に ご住職に
「これも寿命。遺された者は個人に感謝して生きれば良い。」と言われたから
悲しみは受けとめるけれど、そこに溺れることなく
私は父から受け継いだものを大切にしてこれからを生きていこう
そう思えるようになった。


お父さん、いままで本当にありがとう。

天国でお母さんが待っているね、やっと再会できて良かったね。
もう痛みも苦しみも寂しさもないあの世で
どうか安らかにー。
そして、どうか私達家族の行く末を見守ってください。

お父さん...
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夏の長野旅行

2023年08月12日 | 日々の出来事
 なんと2ケ月以上も放置しておりました…

この間ほんとに ほんとーにいろいろありまして…

でも まぁこのブログは私にとっては日記なので
とりあえず時系列に 書いていこうと思う。


で、毎年恒例 夏の旅行の話。

実は7月中旬にバンビが新型コロナ陽性になり
(1年ぶり2回目)
熱は大したことなかったけど 咳がなかなか抜けず
これは予定していた旅行もあわやキャンセルか… と思ったくらいだったけど
療養期間も過ぎ 咳もなんとか落ち着いて
いざ出発。

今年も長野に行って、宿はハーヴェスト蓼科アネックス。

初日はまず蓼科湖の目の前の「やまなみ」でおいしいお蕎麦をいただき
午後はまずリゾート内のパターゴルフをする予定。

だけどさすが東急リゾート 敷地が広い広い…
たどり着くまでに迷ってぐるぐるしちゃったけど
平日だったこともあり パターゴルフ場には他に誰もいなかった。

毎年言ってるけど、高原でも日なたは暑い


終わってから 私の行きたかった「バラクライングリッシュガーデン」へ
バラはもう終わっていたけど
緑の中を散歩して お茶して ホテルへチェックイン。

夜はリゾート内の「The Roof」でグリル料理。

これも平日だからか、お天気のせいか
お客さんはうちともう1組しかいなくてちょっと寂しいカンジだったけど
お料理は(特にお肉が)申し分なく美味しかった。


2日目は松本まで出て ショートコース。
標高750mくらいあるらしく アップダウンが結構キツくて
ハーフ回るだけでも 汗だくのバテバテ。
奥に見えるのが松本市街

緑が深いせいもあって 3人で何球ロストしたことか…
まぁ 他にお客さんもいないからのんびり回れたと言えばそうなんだけど
持参のお茶を飲み干して、途中自販機もないから水分も採れずに
本当にキツかった…
ゴルフ場の受付のおばさまがくれた自家製の梅干しで何とか疲労回復 w

お昼は 長野の郷土料理(馬刺しとか鶏の山賊焼きとか)を堪能して
オットのお楽しみ・松本城観光へ。

このお城も昔ながらの狭くて急な階段を上り下りしなくちゃならなくて
それはそれは大変だったけど…

バンビの鞄にヘルプマークを付けていたせいか
それを見た警備の方が 「大丈夫ですか?」と声をかけてくれたり
一度対面通行を止めて一方通行にして待ってくれたりしたのが
とてもありがたかった。

平日だったけど旅行客も多くて、特に外国人の方が多かったなぁ…
コロナも明けて 日常が戻ってきてるカンジなんだね。
そうは言っても バンビみたいにまだかかることがあるわけで
油断は禁物なんだけど…

疲れたのでカフェでお茶してたら時間が遅くなり
蓼科に戻って夕飯のはずがちょっと難しくなってしまった。

私は 旅行の時は事前に行動予定は予め決めておき
行き当たりばったりはしないので
こうなるとちょっと困ったことに…

と言うのも 松本あたりは観光地だからかネットで探したお店は
ディナーは前日までに要予約とか 夜はコースのみでお高かったり
というところが多かったんだよね。

なので 適当に洋食のレストランに入って食事して
美味しいのはおいしかったんだけど 1ケ月近く経った今
店の名前もぜんぜん思い出せないという事態… w


さて、3日目。
ホテルをチェックアウトして北八ヶ岳山頂までロープウェイで登る。

ここは坪庭自然園という溶岩や高山植物いっぱいの散策路があるんだけど
ちょっと散歩というにはハードで バンビはバテバテ。

やっと最後に普通の林道に出て 記念撮影。
バンビは縦にも横にも大きくなった… w


諏訪湖近くの鰻屋さん「小林」で おいしいうなぎを食べてから
諏訪大社へ。

これが四社あるうちの下社の春宮の駐車場から秋宮まで歩いたんだけど
暑くて大変で…
もう 観光もそこそこにお土産買って帰路につくしかなかった。

今年の7月下旬は 長野でもとにかく暑かった… というのが
旅の思い出。

まぁバンビが発熱した時はあきらめかけた旅行だったしね。
無事行けただけ良かったけど…

例によって 途中でオットとバンビがケンカになり
車中で大もめで 事故りゃしないかとハラハラした時もあった。
オットは「もういっしょに旅行なんてしたくない!」って怒り出すし…
バンビも疲れてくると 
ちょっとしたことで尖ったというか荒れたもの言いをしたり
しかも それがしつこかったりするので
まぁオットの気持ちもわからなくはないけど
こっちがバンビを理解して対処してやるしかない と何度も
本当に何度も繰り返し伝えているんだけど ダメなんだよなぁ…

まぁ、普通なら もう子供は親離れして
夫婦2人でのんびり出かけるくらいの年齢になったのに
いつまで親子3人で 子どもの希望に合わせながらの旅をするんだろう…
そんなことをつらつらと考える 今年の夏の旅だった。

うん、でもそうは言っても どんなスタイルでも
やっぱり旅は楽しいんだけどね。
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ちょっと落ち着いてきたような…

2023年03月21日 | 日々の出来事
 実は2月に精神科の定期受診をした時、バンビはとっても不穏な状態で
病院の壁を蹴ったり、ソファに長々と寝てしまったり と
付き添う私も居たたまれない状況だったんだけど…

Dr.に相談して 薬を変えようということになり
心理士の先生の「薬変えたら落ち着く子もいるよー」という言葉に
一縷の望みをかけて帰宅してから 早1ケ月。

で、本当に薬のお陰なのかどうかわからないけど 最近は事件もなく
まぁ、何とか普通の生活を過ごせるようになってきて 少しほっとしてる。


嵐の日々は本当に大変で
あっちにお詫びし、こっちに頭を下げ
本当に私の白髪が一気に増えそうな状況で…

まぁ、ここには書けないこともいくつもあったし
うーん、書けることとしたら 例えば 公園にバスケしに行って
しばらく一人にしておけないから 私も一緒について行ったんだけど
何があったのか、知らない人に怒ってボールぶつけてるの見たりした時は
肝が冷えたな。
相手イマドキの若者3人くらいいてさー。
もちろん代わりに謝りに行ったら
意外にいい人達で(人をみかけで判断するわけじゃないけど)
”俺らも悪かったから”と言ってくれたりしたこともあったっけ。

そんなことが他にもいっぱいあって
一時は バンビと一緒にこのまま消えてしまいたい と思ったりもした…

あぁ、20年ぶりだなぁ… そんなこと思うの。
生まれたばかりのわが子に障害があるとわかったあの時もそう思ったよね。
実際消えることなんてできなかったけど…


バンビは 基本的キャラクターとしては
真面目で、一生懸命に頑張る、根は優しい、穏やかで朗らかな
とってもいい子なんだよね。

でも、今のバンビは 満たされない承認欲求と
見通しの立たない将来への不安に 彼なりに苦しんでいて
「こんな風に生まれたくなかった…」って言うのを聞いたら
あぁ、彼も葛藤しているんだな と思って、本当に切なくなった。

親がつらい時は 子もつらいんだよね、たぶん…
でも「何でこんなことするの? 何で? 何で?」って
つい、親の自分の気持ち優先で子どもを責めてしまう。

本当は もっと彼に寄り添って
バンビの心を、彼の苦しみを理解してあげないといけなかった。


彼の特性ー
見通しの立たないことへの不安
マイルールへのこだわり
人並に何でもやりたいという想い
でも できない・うまくいかないことが多い自分に対する自信の無さと
それに不釣り合いなプライド
不器用さ故の何にでも時間がかかることとか
短期記憶が弱い故の物の管理の悪さとか
そういうので注意される機会が多いことから生じる劣等感 etc. etc.

それらを理解し、適切な対応を取ってやれば問題行動として表面化しないのに
こちらも余裕がなかったり、しつこさに心折れたりして
対応を誤ると たちまち爆発して大惨事に至る。

特に オットはこの20年、それがまったく理解できてなくて
ここ数年はバンビの言動が気に入らないと言っては 地雷踏みまくるので
本当に厄介…

間に立つ私が病みそうになる状況なので
これはもう物理的に 距離を取るしかないと考え始めている。
その辺りの話は 長くなるので、また別の記事にー。
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幾千の波を越えて

2023年02月06日 | 日々の出来事
 新年は穏やかに と昨年を締めくくって、早1ケ月すぎ…
超遅ればせながら
今年もこの拙いブログにお付き合いいただけたら嬉しいです。
よろしくお願いいたします。

 さてさて、思いとは裏腹に 今年も既に事件発生。
バンビの名誉もあるので またまた詳細は書けないけれど
本当に 波、また波… 嵐のようで。
大海に揺れる小舟のように 母は両手両足踏ん張ってこの波を越えていくのに必死。

ただ、そんな中で1つわかったこと。
地域に関わってもらって地域に生きることの大切さ。

今回バンビを助けてくれたのは 以前親子で通っていたスポーツジムの
バンビとそんなに年齢も変わらないトレーナーのお兄さんだった。


うちは バンビにきょうだいもいなし
親なきあとをどうする? ってことが最近頭から離れることはない。

親なきあと って、どうしてもお金の話がメインになりがちで
そりゃお金を遺していくことももちろん大事なんだけど
それより この子を助けてくれる、支えてくれる人を いかに増やしておくか。

助けてくれる っていっても、ずっと抱えてもらう ってことじゃなくて
困った時にできる範囲で関わってくれる
福祉とか警察とか医療とか、そういう公的などこかに繋がるきっかけを作ってくれる
ほんのちょっとの思いやり。

そういうものが得られるような下地作りを 親がしておくことが
とっても大切なように感じる。

私達がいなくなったあと、バンビは一人では生きていけないから
社会の中で支えてもらって生きていくしかない。
どう支えてもらうかを 親が考えて、手立てをある程度講じておくことが大事。

今の8050問題とかもそうだけど
社会の中で孤立してしまうと、誰からも手も差し伸べられなくなる。
親が動けるうちに動く。

私の今年の(まぁ今年だけでは終わらないだろうけど)目標はそれかな。
そりゃ心穏やかに過ごしたいけど
どんな波が来ても乗り越えていけるように
いろんな人の力を借りながら、バンビを守って生きていく。
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