まど・みちおさんがお亡くなりになったと。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140228-00000014-asahi-soci
104歳。
杉山先生の紹介でお葉書を戴いたのはもう20年以上前。
お会いすることはなかったが、懐かしいお人だった。
ご冥福を心よりお祈り致します。
このハガキ、我が家の宝物です。
「季代ちゃん 日利くんのお幸せを祈りあげます。」と書いて下さっている。
まど・みちおさんがお亡くなりになったと。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140228-00000014-asahi-soci
104歳。
杉山先生の紹介でお葉書を戴いたのはもう20年以上前。
お会いすることはなかったが、懐かしいお人だった。
ご冥福を心よりお祈り致します。
このハガキ、我が家の宝物です。
「季代ちゃん 日利くんのお幸せを祈りあげます。」と書いて下さっている。
なんということだろうか!
昨日のことだ。
家内にぼそぼそと独り言のように言ったのは。
「千村克子さんのことを書いてみようかな。どこに発表する当てもないけど…」と。
昔のタカラジェンヌ、千村克子さんのミニ評伝を「神戸っ子」に4カ月にわたって書いたのは、もう4年も前だ。
その時、まだまだ書き足りないなあと思いながら、そのままになっている。但し、千村さんの日記などの資料は2011年に阪急池田文庫に寄贈した。でも、みんなコピーをして頂いていて保管している。書こうと思えば書けるのだ。
わたしのライフワークは宮崎翁の兵庫県文学史秘話を書きあげることだが、この千村さんも気になっていた。出来ればもっと詳しく書きたいと思っていたのだ。それで昨日、ふと思い出したのだった。
そして、今日だ。
一通の大きな封書が届いた。
宝塚の中央公民館の久家さんからである。
入っていたのは、ご丁寧な書状とこのチラシなど。
「園井恵子資料展」のチラシだった。
園井さんはたしか千村さんと同期ではなかったか?いずれにしても縁の深い人である。
こんなことがあるんですね。是非行ってみたい催しだ。
因みに、久家さんは、そのご両親が千村さんとはご懇意だったとか。
さらにさらに、久家さんは一昨年秋、宝塚で催された「ブルーグラス45」のコンサートをわたしに知らせて下さって、わたし行ったのでした。
その時のブログは「こちらで。↓
http://blog.goo.ne.jp/coffeecup0816/d/20121123
こんなに久家さんはわたしに親切にして下さっているのに、まだご本人とはお会いしたことがない。一度ご挨拶しなければ。
昨日お借りした本『あのね。すごいべ。』は期待にたがわず面白い。
思わず付箋をいっぱい貼ってしまった。
先の、柴田トヨさんの詩集も良かったが、わたしはやはり、子どもの言葉が好きだ。口頭詩というやつ。
「すごいべ」
「うちの兄ちゃん
おとなの歯になったんだよ。
すごいべ。」
「うちの兄ちゃんは
虫歯だらけなんだぞ。
すごいべ」
五歳の子の会話である。それを幼稚園の保育士さんが書きとめたもの。
「カレンダー」
ぼくんちのカレンダーはな、
追いかけてくるんだよ。
ぼく、まいにち見てっから
わかるんだよ。
これは4歳の子の言葉。
これを書きとめた保育士さんはお手柄ですね。
なんでもないようでスゴイ言葉だ。
「ちゅうしゃ」
ちゅうしゃのときね、
目をつぶっていたら
ハイ、おわりよ、っていわれてね、
泣くこともあばれることも
まにあわなかったんだよ。
五歳
「お花のつぼみ」
「これ、まだつつんであるよ」
「どうしてだろうね」
「太陽がおこさないと
だめだよ」
4歳の子と保育士さんの会話。
他にも面白いのいっぱい。
なんとも楽しい本だ。
昨日、図書館からお借りしてきた『百歳』という詩集だが、これは柴田トヨさんの二冊目の詩集。
心洗われる詩が並んでいる。
次の詩は新川和江さんが賞賛しておられる詩。
たしかに、終連は素晴らしい。
でも、一冊読み終えて思うのは、やはりトヨさんが百歳ということが評価に影響しているように思う。
百歳の人がこれだけのものを書いたということが。
いや、ケチをつけるわけではないですよ。やはりスゴイことです。
でも正直に申し上げて、それほど胸の奥に迫るものがあるとは思えないのです。
また、それでいいのかもしれません。それでいいのでしょう。
読んで、トヨさんの清らかな心に触れて、読み手の心が洗われて、そんな詩集です。
因みに、トヨさんの第一詩集『くじけないで』は150万部の売上だそうです。
それも図書館にあるようなので読んでみよう。
「宮っ子」用海版3月号の「わが町この人あり」は「石の人」と題して妹尾良昭さんを取り上げております。
http://miyakko-nishi.com/MIYAKKO-SYSTEM/Found_Page?area_reference=area_reference&areacd=25&find_year=2014&gou=327&page=3
趣味にも色々あるものですね。
やはり図書館から帰りのこと。
ちょっと寄り道。
こんなことが出来るのも徒歩で行ったから。
仮設教室が建っていた。
この写真の右端、ネットのそばです。ちょっと見えにくいかも。
古い校舎を立て直すための仮設教室かとも思ったが、たった4教室では違うでしょうね。
単に教室が足らなくなって急遽建てたもののようで。
この辺り、マンションラッシュで子供人口が急増しています。
どうせそのうち又減りますからね。
懐かしいついでに南門前の道を。
この南門の前に文房具屋がありました。
よく利用したものです。
そして、パンも売っていました。
まだ給食がないころ、都合で弁当を持参出来なかった時には、昼休みにここへ買いに行ったものでした。
ところが、一時に殺到するものですから、狭い店内は大混雑。
好きなパンの取り合いになったり、お金を払う順番がなかなか来なくて、だけどゆっくりしていたら楽しい昼休み時間がなくなってしまうし、ドサクサに紛れて、また次回にと思いながら、お代を払わなかったことが一度ありました。まだ忘れてません。あの時のお店のおばちゃん、ゴメンナサイ。
フリー編集者の高橋輝次さんがこの二月に4回にわたってラジオに出演された。
東京まで行って収録されたという。
NHK第二放送の「私の日本語辞典」という番組で、高橋さんは「編集者が向きあう日本語の顔」というタイトルで。
聞き手はNHKアナウンサーの秋山和平さん。
主に高橋さんが最近出された二冊の本、『誤植読本』と『ぼくの創元社覚え書』に触れながらのお話だった。
高橋さんの日頃の話しぶりそのまま、急きもあわてもしない話しぶりが、なんとも良かった。
ご本人はいたって真面目なのだろうが、わたしにはユーモラスにさえ感じられた。
その放送、録音しました。
お聞きになりたい方はお申し出下さい。
『誤植読本』は今、大変話題になっており、第3刷りまで進んでいるそうです。一万部とか。
高橋さん、良かったですね。
平松町のお地蔵さんを探しに行くついでに、徒歩だったので「まんぼう」を初めて通ってみた。
国道2号線西宮中央郵便局の北。向こうに見えます。
谷崎潤一郎の小説「細雪」にも登場するトンネルです。
上をJRが走っています。
わたしの背では、少しかがまねばなりません。
煉瓦造りです。路面は板張りです。歩くとボコボコボコと音が反響しました。
「マンボウ」とは?
なぜこんな名前がついたのかは確かなことはわかりません。
一つ聞いたところでは、鉱山での用語だったという話も。すると工事の時に工夫が使ってのことかな?
西宮にはこのようなトンネルが何カ所かあります。いずれもJR東海道線をくぐります。
実はこれ、人が南北を行き来するためのものではなかったらしいです。
そのこと先日の「今津歴史塾」で曲江さんからお聞きしました。
ここは水路があって、国鉄の工事の時に水路を確保するためだったと。農業水路だったのでしょうね。大きな川なら鉄橋などの構築物が必要だったのだが、小さな水路だったためとか。そして水路に蓋をして人も通れるようにしたのだと。そうか、それで今も板張り。これは知らなかった。やって来てみて初めて知った。
これは北側に抜けたところ、平松町側。
昨年入手した『西宮の地蔵』を見ていて、どうも気になることがあった。
平松町のお地蔵さんが載っていないのである。
調査漏れかなと思っていたのだが、なかなか調べに行くことが出来なかった。
今日、天気もいいし、家では家内が昔の同級生が何人か集まっておしゃべりの会をしている。わたしは外へ出かけるしかない。
ということで、歩いて行ってきました。
ちょっと遠いです。
途中で汗が出てきて困りました。
マフラーが邪魔になりバッグに入れました。
ジャンバーのチャックを開けて風を入れながら歩きました。
さて地蔵さんです。
いくら探してもありません。
昔、毎年夏には土用行、冬には寒行の途中にお参りしたのでした。
何十年も続いたのでした。
そしてもう20年以上昔にその行はなくなりました。それからご無沙汰だったのです。
気になっていたのです。
ここです。
ここは農地でした。もっと広かったです。
お地蔵様はその北東隅にありました。かなりの敷地を持つお地蔵さんでした。
ところがある時、マンションが建って、お地蔵さんの敷地が小さくなっていました。
それでもまだありました。お世話する人があって、きれいに祀られていました。
ところが今日、いくら辺りを探してもありませんでした。
ここだったと思います。
地震の影響でしょうか?空き地になっています。
しかしどこへ行ってしまわれたのでしょうか?
辺りは静かな住宅街。取り澄ましたような感じ。気軽に尋ねて入れそうな家もなかったです。
淋しいことでした。
まあ、お地蔵さんというものは、民間信仰でもあり、世話人の境遇により浮き沈みが激しいものなのでしょう。
帰りに、やはり昔縁のあったお地蔵さんにお参りしました。
一体は本町、えべっさんの赤門そばの合田さんのお地蔵様。
ここには毎年8月23日に護摩焚きに行っていました。
護摩焚きが終わったあといつも合田建材店の社長さんが冷たいスイカをふるまって下さったのを今も覚えている。
もう一体のお地蔵さん。
浜脇の一本松地蔵さんです。
ここは竹中クリーニング店さんがお世話なさってました。
本町の合田さんのお地蔵さんで護摩焚きをすませたあと、ここでも護摩焚きをしたのでした。
覗いてみました。
お顔が、亡くなられた竹中さんの顔に似ています。
隣(クリーニング店があった場所)にマンションが建っていました。
そのマンションの名前が「ヴィラ・カイチ」となっていました。
それでにわかに思い出しました。
竹中のご主人の名前がたしか「竹中嘉一」さんだった。嘉一郎さんだったかもしれない。そのお名前をマンションに使ったのでしょう。だからマンションのオーナーは竹中さんのご親族なのでしょうね。
因みに、この竹中さんの弟さんがえべっさんのお祭りの露店を仕切っていたテキヤ「竹中組」の親分でした。このお地蔵様の護摩焚きの時にもやって来ていて、終わった後の振る舞いの席にも顔を出し、ここに書けないような話も色々とありました。
さて、盛大にお祭りされてた時代もあったこれらのお地蔵様、今どんなお気持ちなのだろうか?